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海に宿る月  作者: 天帆出
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08

 いつもの堤防でいつものように「やぁ」「おはよう」と短く言葉を交わした後、二人は自転車を置き去りにして少し歩いた。海水浴場に入る細い砂利道を過ぎるとその先には、湾を囲むように高い木々を抱えた森がうっそうと茂っている。暗い涼しい遊歩道を行けばその先には小さな灯台がちょこんと置かれ、眼下の崖にぶつかり飛び散る波しぶきを見守っている。

「こっからやったら、沖まで流れると思うんよ」

 遠い沖を指差し少年に示し佐和子は最後にもう一度だけ聞いた。

「ほんとに? 何も願い事書かんと流してしもうてええの?」

 崖の下の風景をまるで初めて見るかのように呆然と眺めていた少年は「うん、このまま流そう」嬉しそうに小さく笑った。

「じゃ、投げるよ」

 腕を大きく振り上げ枝を投げるとそれは宙で弧を描きながら落ちてゆき、波間に喰われ消えていった。


 しばらく灯台の元で座り込み黙ってササの消え行く様子を眺めていたが、ふと佐和子が疑問だった事を口にした。

「あんたさ、いっつもあそこでボーっとしとるけど、面白いん? せっかく田舎に来とるんだから他に遊び行ったりすればいいんに」

 くすくすと笑いながら彼が答える。

「佐和子こそ、毎日あんな所でボーっと夕方まで海を見ていて。友達と遊びに行くとかすれば楽しいだろうに」

「私は……別に……」笑われて照れて目を逸らせば

「泳ぐわけでもないのに」とまたからかうように問われる。




 昨夜見た海に浮かぶ茶色い影。

 何年ぶりだろう、急に思い出してしまった。

 あの日の幻のような奇跡を、誰かに信じて欲しいと、聞いて欲しいと想いながら一生懸命語っていたあの頃の自分。

 誰に話しても信じてはもらえない。影で笑われていた事も知っている。けれど今、また思い出してしまった。

 信じてほしい、聞いてほしい。誰かに。ずっと、ずっとそう胸に秘め、海を眺めながら探していた。




「私ね、小さい頃、この海で溺れたことあるんよ」

 一瞬、少年の存在も忘れた。まるで独り言でも呟くように言葉が出てきた。

「もう、死ぬかと思ぉた。苦しくて、そのうち苦しくも無くなって、目の前で自分の吐いた息が泡になって遠くなっていくの、覚えてる……」


「ええんよ、信じんで。ただ、私が勝手に信じてここでずっと探してるだけやから。ここにおったらいつかまたあのりりちゃんに似た生き物と会うことができるかもしれんて勝手に信じてここに来とるだけやから」


 あの幼い日の不思議だった出来事をすっかり喋り終えて、どうせこの少年も信じずに笑い飛ばすだけだろうと思い、ほのかに染まった頬を隠すように顔を背けた。

 ろくに知りもしない人間に自分の事を随分と語ってしまった。幼稚園の時死んだウサギのりりちゃんの話まで。何て恥ずかしい事を……話すだけ話したものの、後悔が次から次に胸中を走る。

「うん、そうだね」

 ――あぁ、やっぱり!この子も信じやしないわこんなバカみたいなお伽話!

「自然はまだまだ未知数だから、海だって、人間に知られないまま生きている生物がたくさん居たって当たり前だもん」

「……え?」

 初めての肯定。驚きながら胸が高鳴る。

「人間が人間の知る限りの生物しか認めないなんて、その方がおかしいよ。海には不思議な事も現実で計りきれない現象も幾つも現実に起こっているのに」

 そっと首を横に向け見つめた少年の顔はじっと海を見つめている。

「……信じてくれるの?」

 頼りな気な佐和子の言葉に彼が優しく振り返る。

「海にはいっぱい不思議な事があるんだよ」


 謎。テレビなどでよく特集されるUFOや心霊現象から始まって……

 例えば集団で海岸に打ち上げられるイルカや鯨だったり、メスの卵子をオスが体内に取り込み孵化させるタツノオトシゴ、稀に浜に打ち上げられるリュウグウノツカイ、月に支配される珊瑚の産卵……現代の科学では解明されない神秘はいくらでも、どこにでもひっそりと存在している。

「他にも、深海にまで手を伸ばせば、そこはもう謎ばっかりだよ。佐和子の言う人間を助ける茶色いふさふさの生き物が居て、この海に流れ着いていたとしてもあり得ない話じゃないだろう」


 見詰め合った視線の狭を夏の涼しい木陰の風が走り抜ける。

「ほんとにそう思う?」

 笑わずに聞いてくれた。それだけでも嬉しかった。けれど彼はそれ以上に自分の話を認めてくれた。言葉で表現しきれない感動で胸がドキドキ高鳴って涙が溢れそうになる。

「思うよ。だって……」

 何かを言いかけた。けれどそのまま口は閉じられ、彼の視線が遠い波間に戻る。

 ――だって?――

 その先を聞きたいと思った。が、先ほどまでイキイキと海の不思議を語ってくれた時の瞳の輝きが急に静かに冷えていった。寂し気に。

 佐和子の戸惑う空気を読んだのか「さぁ、もう行こうか」立ち上がり手を差し出した。掴んだその掌は海辺育ちの少女のそれよりもずっと薄くひんやりと儚げで……一度掴んでまた離してしまったなら二度と触れることができなくなるような気がして……少年の歩く一歩後をゆっくりとついてゆく。

 踏みしめる落ち葉がざくざくと音を立てる。

 どちらともなく黙り込んでしまった。

 少年は振り返らない。佐和子も顔を上げられずにただじっと繋いだ掌だけを見つめて歩く。

 遊歩道の出口になってようやく、道路を走る車のエンジン音が聞こえ始めた所で少年が掌をほどいた。とても自然にすっと指を開きズボンのポケットに向って腕を動かし

「こういうとこ、知った人に見られるの困るんでしょう?」

 ササを採ってきてくれた澤田のじっちゃんにボーイフレンドができたのかとからかわれた事を言っているのか。つい先ほど見せた静かに淋しげな瞳に悪戯っぽい笑顔が戻っている。

 思い出したように佐和子も「そうよ、困るわよ!」慌てて掌をワンピースの裾でゴシゴシと拭いた。その様子を見ながら少年がまた更に声を上げて笑う。

「でもさ、佐和子、もう一度その生き物に会いたいと思うのならこうやって遠くから眺めてばかりじゃダメなんじゃないかな?」

「どういう意味よ」

「泳いで、沖まで泳いで。もしかしたらその生き物も佐和子を待ってるのかもしれなでしょう?」

「待ってる?」

「うん」

 待っている、あの深い海のどこかで。この沖のどこかで。

 けれど同時に思い出す、沈むほどに身動きできなくなる、取り巻く水のしめつけるような圧迫感。廻りはどんどん暗くなっていく。飲んでしまった水で鼻の奥から喉の奥まで痺れる激痛。

 怖い

 怖い

 怖い………


「でも、私やっぱり……」海で泳ぐことはできない、最後まで言い切れずに言葉を飲み込んだ。彼が小さく「ごめん」と呟いて佐和子の髪をそっと撫でた。

 その行為に驚いたのか、照れてしまったのか、佐和子は咄嗟に彼の指を払いのけて

「そういうあんたは泳がんの? いつも見てるばかりで……」憎まれ口を叩いてしまう。

「うん、僕は泳げないから。人のいる場所では」

 真面目なのかふざけているのか判断のつかない表情と口調でさらりと佐和子の問いをかわす。

「何よそれ……結局泳げないってこと?」

「まぁそんなとこかな」くすくすと笑いながら堤防に向って早足で歩く。影が長くなってきて夕暮れに少しだけ近づいた午後。

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