07
山沿いに登り始めた上弦の月がその姿を海面に映し頼りなく波に揺られる。
供え物の飾られた縁側に佐和子はシンと立ち尽くしその様子を見ている。
――来るだろうか――
もしかしたらものすごく突拍子もない事を言ってしまったのかもしれない。考えてみれば少年は自分の事を知っている様子だったが、佐和子自身は彼のことをまるで知らないというのに、あんな風に誘ってしまった。こんな夕暮れの時間に家に来いなどと。
飾られたササが風に吹かれてしゃらしゃらと音を立てる。
佐和子の手には小さく小さく作られた折り紙の輪飾りと小さな小さな短冊が三枚吊るされ、ササが揺れていた。
「佐和子ぉ晩御飯は食べんのね?」
「うん、お母さん先に食べといて」
すぐ後の和室から聞こえる母の声に上の空で返事を返す。
しばらくすると食事を終えた母親も縁側にやってきて娘の隣に腰を下ろした。何を言うともなく黙って蒸し饅頭の乗った盆を佐和子の前にそっと出す。
――まぁ、年頃の子ぉの夏やけんね――
解ったような解らないような解釈をつけ、海の上に瞳を泳がせる娘の横顔をただじっと見守る。
月はゆっくりとゆっくりと昇り、それに合わせて海面の月も沖に向って流れてゆく。
あの海水浴場の方面からこちらに来るバスはもう終わった。
林の影の下、淡く微笑む少年はとうとう姿を現さなかった。
「まぁ、本当に来られても困るんやけどね」
見ず知らずの少年を母親に何と説明したものか、考えあぐねていたのも事実。ホッと胸をなで下ろす。同時に例えようのない淋しさが冷たく胸に突き刺さる。
昼間貰ったササの香りを嗅いだ。ふわっとするよなう酸っぱ甘さはササの本来の緑臭いそれとは明らかに違う香りだった。それはいつもあの少年から風に乗ってやってくる香り。妙に懐かしく胸の奥がざわざわと揺れるあの香り。手渡されてから随分と時間が経ったせいか、ササにはもう残り僅かな香しか残っていなかった。
遠い沖で月が揺れる。その灯りの中、波も揺れる。
ぽちゃん、と聞こえたような気がした。
別に珍しい物音ではない。海の側に住んでいれば波が堤防にぶつかる音、船が筏にこすれぶつかる音、何かしらいつもうるさく聞こえてくる。
ただ、佐和子にとってその時それが妙に気になったのは、その音があの遠い沖の揺れる黄色い灯りの中から聞こえたような気がしたから。
「まさか、あんな遠くから……」
音の聞こえようのはずはない。きっと目の前の海で小石の一つも落ちたのに違いない。そう想いながら足が無意識に動く。草履を履き百日紅の下をくぐり道を越えて堤防を覗く。
ぽちゃん……
また、聞こえた。今度は間違いない沖の方から聞こえる何か。
「……何……?」
揺れる黄色い影の中、もう一つ揺れる茶色い影。波間の影とはあからさまに違う、単体で浮いるような何か。ふうわりと大きく揺れているかと思えば、じっと波に身を任せるまま揺らいでいるだけのようにも見える。
ぽちゃん……
また、はっきりと聞こえたそれは確かにあの茶色い影から響くもの。佐和子は何の確証もないがそう信じれた。
あれは……あの茶色い影は……
魚ではない。船でもない。茶色い丸い海の生き物。
佐和子だけが知っている生き物。あの溺れた夏の出会い。
「りりちゃん!」
随分長い間口にすることのなかった名前を叫んでしまった。
まるで佐和子の声が聞こえたかのようだった。
ぽわんと一度大きく浮かび上がり茶色い体を膨らませやわらかな月灯りの中に白い雫をきらきらと散りばめた後、静かに静かに、揺れる海面の月の下へと消えていった。
「りりちゃん……」
目を疑うような光景に再びその名を口にする。
母親が何事かとつっかけを爪先にひっかけながら駆け寄ってきた。
「何、大きな声出しよんの」
「今、海のあっちの方に……」
「海に何か?」
ハッとして口篭る。
「ううん、何でもない」
「何でも無いんならええけど……大きい声出しよるから何事か思うたやない」
ホッとしながら母は「さぁもう遅いけん家に入り」と佐和子を促しながら玄関に戻る。
「うん……」
何度も何度も、沖の方へ振り返りながら戻り潜る百日紅の門。
窓から差し込む月灯りだけが頼りの薄暗い部屋の中、布団に潜って目を閉じてみれば更に鮮明に蘇る記憶。先ほどの沖に浮かんだ塊と重なるあの夏の日の経験。
不思議に甘い香りのする空気の中、トントンと優しく背中を叩いた茶色い触手。細長い一本が唇にそっと触れ、直接流し込んで来た甘い空気。
――同じ?――
先ほど見たあれとあの日のあれは同じ生き物なのだろうか。
解らない……
助けられて意識も体力も戻った頃、自分がどうやって助けられたか、話す端から笑われた。誰も信じてはくれなかった。信じて欲しくて何度も記憶の断片を手繰り寄せながら説明したが、やがて佐和子自身、とうとう口にする事もなくなってしまった。
誰も信じてくれない。だけどあれは絶対に、大人たちの言う「極限状態で見た子供らしい幻」なんかじゃない。りりちゃんは、確かに存在するんだ……年頃になり、父を失った現実の生活の中で、それをりりちゃんだと思い込んでいた気持ちは薄れてきたけれども、違う形で、りりちゃんにとてもよく似た海の生き物……きっと誰もまだ見たことのないような未確認の生き物がこの近くの海に生息していて、自分を助けてくれたのだ……そう思う気持ちはじっと静に佐和子の胸内で育っていった。
いつか、必ずもう一度あの生き物に会いたい。その気持ちだけでいつも海を見ている。夏ともなれば、自分が大人たちに発見されたあの場所、今では堤防が道と海を隔てて続いているがあの頃はまだ工事中だった、テトラポットの並んでいた地元の子供達が遊ぶ海水浴場。
早朝から、佐和子は庭の隅に古いドラム缶を置いただけのゴミ焼き場でササを燃やした。母親も出勤を少し遅らせて付き合ってくれるた。
「それは?そのササは燃やさんでええの?」
聞かれて、手にしていた小さな飾り付きのササをぎゅっと握り締める。
「うん、これは……流そうと思ぉて」
佐和子の家の庭で飾ったとはいえ、あの少年が取ってきてくれた一枝、できれば彼にも七夕の締めくくりを一緒に見送らせてあげたい。




