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海に宿る月  作者: 天帆出
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05

「やっぱり、今日も泳がないの?」

 いつの間にやってきたのか足音も気配も感じさせないで、昨日の少年がすぐ真横で頬杖をついて見上げていた。

「また……」

 警戒しながら、呆れながら少年の側から体を離そうとする佐和子の意図とはうらはらに、少年はえいっと堤防を上り海に向って足を投げ出しちょこんと隣に座った。

 そこに、車の止まる音が短くキキッと聞こえた。

「おぉ、佐和ちゃんやないか。なんや? ボーイフレンドでもでけたんか?」

 白い軽トラックから浅黒い顔の年寄りがドアを開け降りてくる。

「澤田のじっちゃん」助かった、とばかりに堤防から飛び降りた。

「ボーイフレンドなんかと違うわ、昨日会うたばっかりで得体もしれんヨソの子やわ」

「また、キツい事言わんと。それよりちょうどええとこで会うたわ。ササのええの切って来たけん佐和ちゃんちにも分けたるな。小振りなんが二本で丁度ええやろ」

 佐和子の背丈と同じほどの笹の枝を、トラックの荷台でばさばさと揺らされるのを見て嬉しそうに瞳をほころばせる。

「うわぁ、助かるわぁ、そろそろ自分で取り行かなあかんて思うとったんよ」

「じゃぁ、玄関に置いとくけんな」と老人が車に乗り込み「せっかくのボーイフレンドなんやけん仲良ぉせんとあかんぞ」ニヤニヤと笑いながら再び車を走らせ始めた。

「違うーそんなんと違うー」

 走り行くトラックの荷台に叫ぶが届いた様子も無いまま車は緩いカーブを曲がり湾の突先の向こうに消えていった。

「もう……」

 佐和子が夏休みに海で泳ぐことは無くとも、他のクラスメイトなどと遊びにも行かずにこうして一人の少年と肩を並べていた事実は、一時間も経てば『あの娘も年頃になりよって、そういえば最近なぞはハッとするほどきれいになりよったからなぁ』などと尾も鰭もダラダラと長く連なって噂となっていることだろう。

「あぁーあ……」

 頭を抱えて堤防に顔を伏せる。にも関わらず噂になるであろうもう当のもう一人は涼しい声を佐和子の伏せられた頭にこぼす。

「ねぇ、ササって?」

 何を悠長に……今はそれどころじゃ……『あんたのせいで!』罵ろうと顔を上げるとそこには興味で大きく開かれた眼が零れ落ちそうな勢いで輝いていた。

 ――もう――

 呆れはしたものの怒る気はもう失せた。

「ササって云えばササでしょう。七夕のササよ」

「七夕?」

 七夕? 何を問い返すのか、まさか七夕を知らないとは云うまい。そう想いながらハタと気が付く。

「あぁ、あんたんとこは新暦なんやろ。こっちでは旧暦で七夕やるんよ」

 少年が不思議がっているのは八月のこんな時期にササなど用意している事だろう、佐和子は判断した。

「ふぅん……」

 納得のいくようないかないような相槌を打つ。

「七夕って、どんなの?」

 この地方での七夕がどんなものなのか、と聞かれたのだと佐和子は思った。

「こっちではね、まぁ、都会と一緒やと思うよ……私がもっと小さい頃はいろいろ違ぉたんやけど」


 懐かしい、遠い昔の情景のようにも思えるが、それはほんの四、五年前までは実際に行事として行われていた光景。


 玄関やら庭に願いの短冊や折り紙の輪で作った縄、金と銀の月に星、右に彦星左に織姫。飾り付けられた二本のササを飾り七夕様へのお供えはナスにニガウリ、スイカに桃。そして花ならヒマワリに白い夏百合。

 陽が傾き始めれば子供達は各々色鮮やかな提灯を手に先頭としんがりに年長の子供、挟まれるように他の子供達。普段家の廻りや山を走り回り海で暴れるように泳ぐ姿からは一転したおごそかさで一列成して海に寄り添い道をゆく。誰かの提灯蝋燭が消えれば他の子からの火を貰い付け直し、何度かそれを繰り返しながらゆっくりと、とっぷり陽の落ちる頃に合わせて沖に一番近くなる湾の突先に辿りつく。

 年長の子の掛け声に合わせて全員が声を潜め胸内で願いなど唱えながら静かに海へ向って提灯を投げる。年長の子達が持ち合わせた三個四個ほどの懐中電灯を頼りに街灯の無い暗い海岸沿いを、ワァーっと暗さと怖さで駆け出したいのを我慢して皆再び静々と戻る。

 頼りない月が送る頼りない灯火の中、揺れる淡い影を従い帰る提灯行列。その先には冷えたスイカと花火が待っている。

 そうして向かえた翌朝に大人達が見守る中、海に流され沖に消えゆく飾りのササが七夕を締めくくる。

「でも最近は夜子供らだけでは危ないとか環境がどうとか言うて提灯行列も無うなったし、ササも流さず燃やしちゃうし」

 ごく短い年月のうちに時代の流れを身に染みた。昔懐かしいと言うにはまだ若すぎるだろうけど、急な時の変化が胸を愁いさせる。

「そうか、あれが七夕なんだ」

 遠い沖を眺めながら少年がぽつりと囁いた。

「え?」

「毎年、同じ時期になると色の鮮やかな丸いものや飾りのついた木が流れてくる、あれが七夕なんだ」

「流れてくるって、アナタの所に?」

 そう聞かれて少年は歯切れ悪そうに返事をする。

「うん、僕の…僕の…住んでる…いや、とにかく、海に」

 そう呟きながらまた遠い沖を見つめる。

 少年の横顔が、白く淡く、あの頼りない月の灯火に重なる。

「悪いけど、私、帰らなきゃ。ササがもう来てるはずだし、準備しなきゃ」

 昨日はただ『気味が悪い』と感じただけの、少年の横顔が急に現実味を帯びてきたようにも思えて、小夜子はそそくさと堤防から飛び降り、振り返ることなく自転車を走らせた。


 月明かりにゆらゆらと揺れる長い影。自分達の歩みに合わせてついてくる。

 それは、子供心に不思議で魅惑的で、また、反面で心に刻まれる恐れと不安。自分の動きに合わせてそれは頼りなく動く。

 最後の提灯行列をした年に父は死に母子二人となった、先の見えない不安と恐れを見破っていたかのような頼りない月の影。

 あの少年は、あの月の影を思い出させる。

 汗だくになりながら家の玄関前に自転車を雪崩れ込ませると、小振りだけれど美しく緑に輝く二本のササが並べて置いてあった。

 青い香りを放ちながら耳に心地よい葉ずれの囁き。ようやく我に返って顔が火照ってきた。

 こっちでの七夕の風習を知らないだけなら、それを説明するだけで良かったではないか。それを、感情あらわに感傷じみた口調で語ってしまった。

 何故、見ず知らずの人間にあんな話を……

 名前も知らない、どこの村の人の親戚なのか、どこから来ているのか……


 何も、知らない。

 けれど、彼は知っている。


 自分の名前、そして夏休みになれば殆ど毎日あの海辺を時間の許す限り眺めていることを。

 喉の奥に濁った生ぬるい感触が走り抜ける。

 その一方で、耳元に残るハスキーな声の涼やかさ。そして奇妙に甘く香るトーン。

 そういえば……あの甘い響きには、覚えがある……考えてみる。思い出そうと、頭の奥から胸の奥まで、小さな小人達を総動員させて大掃除している気分になってくる。

 気持ち悪い。

 けれど、もしかしたら、自分はあの少年を知っている……

 山の中に溢れる青い蜜柑の香りが佐和子の胸奥まで支配するように流れ込んでゆく。


「あぁ、七夕の準備をしなくちゃ……」

 一吹の風が笹を揺らした小さな葉擦れに、ぐるぐると回る思考がようやく止まった。

 昔のような情緒は失われたけれど、それをすることで母親が喜び、自分もまた気持ち豊かになる。懐かしいあの提灯の光景は無いけれど。

 懐かしい、その感覚に胸がキュンと響く。

 明日も、きっと、あそこへ行けばあの少年に会うだろう。

 いろいろ、聞きたい事がある。聞かなければならない事がある。

 台所の窓の向こう側で深まってゆく夏の夕暮れ、ヨシ婆の畑から貰った南瓜を煮る甘辛い香りが言葉無く、佐和子を唆した。

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