03
幼稚園の片隅に、かつて飼っていた生き物達の眠る場所があり、所狭しと小さな板切れが並ぶ。古いものはもうそこに書かれた文字さえ読めない。
そこに新しい板が植えられた。≪りりちゃん≫と覚えたての覚束ない文字の書かれた板切れ。佐和子は泣きながら板にウサギの名前を書いた。
その横で園長が語りかける。
「大往生、て言うんよ。りりちゃんはもう年やったけんねぇ。皆に大事にされて、嬉しかったよ、幸せやったよ、て言いながら、特によう面倒見てくれた佐和ちゃんに、ありがとう言いながら死んだんよ。やけん、天国でも幸せにおってね、てお祈りしながら埋めてあげようね」
死は、そう珍しいものでも無い。
年寄りの多い村では絶えず、どこそこの誰かが何歳で死んだの、どういう病気で死んだの、そんな話を耳にする。
年老いての葬式は祭だ。
皆、偲びながら思い出話をしていくうちに、葬式はやがて祭になるのだ。
だから佐和子にとっても死はそう遠いものではなかった。
が、ただ一つ違ったことは、自分より小さなものが死ぬということ。佐和子にとって死んでゆく殆どの人間は自分より遥かに大きく見た目にもはっきりとした年寄りばかりだった。だから……
自分より小さく、見た目にも年齢のよく解らないウサギの死が理解できなかった。
墓標を作り抜け殻となった肉体を埋めてもなお、理解できなかった。
佐和子の小さな胸の中で、りりちゃんの死は受け入れられる事ができなかった。
「りりちゃん……」
夜も更けて眠りにつくはずの布団の中で、眠れずに思い出す。
あの時、あの海の中。溺れて苦しくて諦めて、死への扉をくぐりかけた自分を、助けてくれたあの何本もの触手。
誰に話しても「極限状態だったからね、幻覚を見たんよ」と相手にされない。
それでもしつこく話そうとすると、溺れ死にかけたショックでおかしくなったらしいと違う噂が流れ始める。
やがて誰にも話せなくなってしまった。
だけど、あの時助けてくれた茶色いふわふわの塊は確かにあのウサギだった。りりちゃんは死んでいなかったのだ。どういう理由かは解らないけれど、とにかく埋めたはずのりりちゃんは土の中から這い出て住処を海に変えたのだ。
そして、海の中で息ができなくなって苦しんでいた私を助けてくれたのだ……
佐和子はずっとそう信じていた。
年齢が進むほどにそれが如何に現実離れした話であるかを思い知ることになっても、それでも彼女は信じ続けた。
――りりちゃんは、確かに海の中で生きていたのよ……そしてきっと今も――
引越しをしようと言う母親の提案を拒否してしまう、それが理由。
りりちゃんは、きっと今も海の中で生きている。
海は怖い。溺れたあの日から、ずっと、ずっと、海は怖い。けれどそこにはかつて大好きだったあのウサギが住んでいる。
勿論、中学生ともなった今ではそれを盲目的に信じているわけではないが、あの日自分を助けてくれた茶色い細長いうごめく塊は、今でもはっきりと覚えている。
薄く開いた瞳に入ってきたのは大きな大きなうごめく何本もの毛糸を束ねたような塊。
りりちゃんでなくてもいい。けれどもう一度……もう一度……
自分の命を助けてくれたあの不思議な生き物に会いたい。
◆◆◆◆◆
「きみは? 泳がないの?」
後から急に声をかけられ佐和子は驚いて振り返った。
季節は、夏休みに突入していた。
家からほど近い、湾を幾つか越えた所にある小さな海水浴場を包むよう、道なりに広がる堤防の端に腰掛けて幼馴染や都会から里帰りしてきた子供達のはしゃぐ様をぼんやりと眺めていた。
ふと後から柔らかな声。堤防に頬杖をつき佐和子を見上げる少年。細い、色素の薄い髪と瞳。白い肌。
「もしかして、泳げない?」
悪戯っぽい笑顔に佐和子はムキになってしまった。
「泳げるわよ!この辺の子供で泳げない子なんて居るわけないじゃない」
「じゃあ何で皆と一緒に泳がないの? あそこにいるの友達でしょう?」
友達、という言葉に佐和子は返す言葉を失ってしまう。
「友達……なんかじゃないわ」
少年からぷいっと顔を背けて目線を足元でぶらぶらしていた白いサンダルに落とす。
確かに、目の前の海で泳ぎに興じている少年少女達の多くは友達と言うにふさわしくない。皆年齢に三つ四つ上下の差はあれどその関係は友達と云うよりも遥かに密接だろう。
幼い頃から男女の別無く風呂を共にし、夏、暑い日に遊び疲れれば風の通る部屋で同じタオルケットにくるまり寝転んだ。歩いて一時間もかかる小学校への道のりを朝早く夕遅く共に歩いた。悪戯も怒られる時も褒められる時も大概は同じ顔が並ぶ。血こそ違えながらも血縁と呼ぶに相応しい。
しかし、今、佐和子は彼らと共に暑い夏の盛りを謳歌できないでいる。
今、というより、あの幼かった恐怖の夏の日から。
一緒に海に入れない、ただそれだけで短い夏の間の日中、佐和子は絆から離れてしまう。涼しい夕暮れから始まる花火には加われても、真昼の海を共にできない疎外感。
「キミ、地元の子でしょう?」
ほんの数分、佐和子が想いふけって黙り込んでいた最中、突然に会話が戻る。
「え……えぇ、あっちの方にちょっと行ったとこにある伊浦の子ぉやわ」
「あの辺の子がここまで泳ぎに来るの? 皆そこの海で泳がないの?」
家の眼の前の海で泳ぐのは、小学校までの子供だけだ。ある程度泳ぎに自信もつき子供ながらに独立心なぞつきはじめた子らは親の目の届かない所で遊びたがる。海もまた然り。泳ぐのに、小学中学年から中学生くらいの子供達はこの大きめの砂利がごろごろと足を滑らせる湾まで来る。ろくにまっとうな設備も無いが、それでも親や親と呼ぶに近い近所の大人達の監視のゆき届かない“名ばかり”の海水浴場は魅力的だ。更に高校生ともなれば車を持った先輩やら友人と共だって更に遠くの海へ、時には県を越えて砂浜の美しい海水浴場まで行く。
簡単に、少年に説明をしながら「なんで身もしれん子にこんな内々の話しよるんやろ」と不甲斐ない気持ちになってしまう。その気持ちを消し去るように頭を小さく振り少年を改めて見つめなおした。




