02
佐和子が帰っても、家には誰も居ない。老夫婦は三年ほど前既に他界し、父親はそのすぐ後に交通事故で他界した。その後の生活のためにパートに出た母親は夏の陽の高い季節でさえ明るいうちには帰らない。
仕事に疲れて帰る母親のため学校から帰宅して僅かな時間の間に家の中をきれいにし、晩御飯の支度などするのが、今の彼女の役目だった。
古い平屋の家に母娘二人。大きな硝子張りの玄関を開ければ、慎ましいその暮らしには不釣合いな広い土間がひんやりとした空気を用意して暑い外から戻る佐和子を待っていた。
自転車を土間に入れようとふと下を見ると玄関脇に大きく長細いスイカがごろりと転がっている。
「誰やろう……澤田のじっちゃんかなぁ……宏んとこのばぁちゃんかなぁ……」
たいていの家では漁と山を兼業しながら畑も作り自給自足に近い暮らしをしている。その中で細長いスイカを作っていて気安くおすそ分けなどしてくれる人の顔を何人か思い浮かべながら台所に運ぶ。自転車の後ろに積んでいた学校の鞄を居間に放り投げると、先ほどのヨシ婆の畑から貰ってきたにがうりを眺め「まぁ誰でも、解った時にお礼できるよう日持ちのする煮物でも作っとけばええか」にっこり笑った。
「なぁ、佐和子……」
陽が落ちて暗くなった頃仕事から帰った母親が娘の手料理に普段通りに箸をつけながら幾度となく繰り返された話をまた口にする。
「やっぱりこん家売って町に引っ越さんかね? あんたも学校近くなるし、もう受験なんやから塾に通いやすい所でアパートでも借りんかね?」
佐和子は、テレビのリモコンをカチカチと玩びながら
「まぁたそん話?そりゃぁ……お母さんには通勤にも不便で悪いけんど……私、こん村を出る気には……なれんのよ……」
どうしても……最後の一言を口の中でもごもごと申し訳なさそうにこもらせながら母親から目をそらし、見るわけでもないテレビの画面を見つめる。
「けんど、あんたもあんなことがあってから海が怖かろう……こんな暑い盛りになっても昔みたいに他の子に混じって泳ぐこともでけんで、辛かろう?」
テレビではお笑いの番組が流れているにもかかわらず、部屋の中を冷めた空気が漂う。母親が佐和子の様子を見つめながら一口、一口、休み休みに箸を口に運ぶ。
「なぁ、そのニガウリの煮物、うまくできたと思わん?」
突然に、佐和子が笑いながら話しを変える。
「今日ヨシばあちゃんにもろうたんよ。まだまだいっぱい畑にできよったけん、この夏もようけ食べさせてもらえるなぁ」
母親が眉間に皺を寄せながら箸を置いた。
「私の通勤やらなんかどうでもええんよ。なぁ? 佐和ちゃんもっと自分の事考え? あんたはもう受験なんやし、塾だって行きたかろ。何より……」
何よりも、こんな広い家の中で自分が仕事から帰るまで、娘が一人で居なければならない、母親にはそれが心痛んだ。大人の自分でさえ夜中にふと目覚めれば心細さと寂しさで体が震える。なまじ、かつてこの家が賑やかだった頃を知っているだけに。
「あん頃は家の中で絶えず誰かの声がしとったねぇ。正月には土間で餅ついて、盆には庭で麻殻焚いて……けんど今ではうちら二人きりやない、広すぎる家は……何や寂しいわ」
母親のこのセリフも、既に何度目か。
そして佐和子の返事も、同じく何度目か。
「ごめん、お母さん……それでもまだ、私ここにおりたいんよ……海は確かに怖いし広いこの家はほんとに寂しいけんど……」
ふう、と小さく溜息をつき、母は再び箸を持ち直す。
もう、これ以上は何を言っても無駄なのだ。
この村にどんな想い入れがあってか、恐れる海も寂しい古い家も及ばないほどの愛着があるのか、一度たりともこの手の話に娘は良い顔をしてはくれない。
――しょうがないわ、まぁ、またいずれかの折に――
母親の胸の中で家を売り引っ越す話はまた持ち越しとなる。
その胸中を知ってか知らずか、佐和子の心の中で違う想いが膨らみ増える。
――りりちゃん――
幼稚園最後の年の冬、佐和子が世話をした茶色いウサギはとても静かに寿命を迎えた。
珍しく雪が積もった。十何年ぶりの積雪だとか、ニュースにもなった雪の日の朝。
雪のせいで随分遅れたバスに乗り、幼稚園に着いて教室へ行くより先に一番最初に向かった小屋の中。他の若いウサギが佐和子に気付いて餌をねだりに走り寄る姿を余所目に、茶色いウサギはひっそりとまだ眠っていた。
「りりちゃん?」
寒いのかな? 心配になって戸を開け中に入る。パサパサの毛並みが年齢を伺わせる。
「りりちゃん、寒いん?」
眠っているのであったら藁でもかけてやろう、そう思いながら抱き上げたウサギは、冷たかった。降っている雪よりも。頬を刺す風よりも。
どっしりと重い体。閉じられた瞳に薄くこびりつく赤茶けた目やに。
ぐにゃっと柔らかい腹に反して硬い腕と足。
「りりちゃん?」
喉の奥から流れ込むざらざらとした空気が胸をはたはたと震わせながら鼓動を早める。
「せんせぇー!」
茶色い塊を抱きしめながら教員室に駆け込んだ。




