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「でも、卵って言っても……」
「心配しないで」
「だって……」
彼の言っている事の意味が解らない。彼は彼女のこわばる体を再び抱きしめる。優しい温もりを混めながら力強く。
「佐和子、体が温かいね」
「え? う、うん。ここ二日ほど体がダルくて、風邪気味かもしれない……」
「ううん、違う、僕にはわかるんだ。佐和子の中で初めての、一番最初の卵が今産まれてる……」
この日を待っていた。
あの海の底で出会った彼女が一番最初の卵を宿す日をずっとずっと待っていた。
あの冷たい海の中を絶望に打ちひしがれながら、だけど子孫を残す事を諦めることができずに卵をくれる女性を求めてずっとずっと彷徨っていた。
けれどそれは口で言うほど簡単なものではなかった。
その姿を見た人の畏怖と偏見。まず話をするにさえ至らない。
陸の人間と同じ姿に変化する能力を得てようやく多少の会話は成立するようになったが、いきなり初対面の人間に「卵をください」と言っても通用はしない。自分の種族の話をしてみせても信用はされない。何度頭のいかれた馬の骨と思われ心も体も傷ついただろう。
もう自分は卵を得ることなく未来にこの命を紡ぐこともなく、このまま朽ち果ててゆくのかもしれない……諦め漂う水底に、突然ゆらりと落ちてきた少女が、居た。
「こんなに小さい娘では卵など持ち合わせていないだろうな」
けれどその腕の中で息を失い始めた命を棄ててしまえるほど、彼はまだ絶望に堕ちてはいなかった。
深い海の底を長時間漂うのに必要な空気を存分に含んだ触手の内側。体を丸め抱え込んだ少女の周囲に触手をすり合わせるようにして大きな空気の球を作る。自分の肺の中に残る酸素を触手伝いで口の中に入れてゆく。
激しく海水を吐き苦しそうに少女が薄く目を開ける。
「いけない、この姿を見られてはまた怯えられ……」
彼がそう懸念して思わず彼女を投げ出そうとした瞬間、小さな手が大きな彼を抱え込むように広がった。
「りり……ちゃん……?」
「佐和子は僕の姿を見ても怯えることなく、それどころか声をかけてくれた。すぐに気絶してしまったけれど穏やかに僕の腕の中で眠る佐和子を見て、僕は決めたんだ……」
――この少女が卵を宿す大人になるまで待とう。そしてその時少女から拒否されてしまったなら僕はもう二度と卵を求めない。僕の命は子孫を残さないまま朽ち果てよう――
「待ってよ! だけど卵って……それって……」
「僕には解るんだ、この体の温かさはキミが卵を体の中で宿している温もり。ゆっくりとキミの卵が体の奥から降りてくる……」
「でもそれって、私に子供をってこと?」
少年がまた笑う。大丈夫だよ、と佐和子の髪を撫でながら。
「この間海のいろんな話をしたよね? 覚えてる?」
「うん……鯨が集団で……とか……タツノオトシゴとか……」
「そう、僕達の種族はタツノオトシゴと同じなんだ」
タツノオトシゴはメスの卵をオスが受け取りその体の中で孵化させて、やがて子供達はオスの体から産まれてくる。
「僕達も女性の卵を受け取り自分の体の中で育てて産み落とすんだ。だから佐和子、キミは何も傷つかない。苦しまない。約束するよ」
僕達の種族は一度に産卵できる子供はたったの一人。そして生涯のうちに産卵できるのは二度、三度だけ。けれど僕は随分長い間海を彷徨っていたのと、佐和子が卵を宿すまで待っていたのできっとこれが最後のチャンスになる。最初で最後の僕の子供を、キミの卵で……佐和子……
痛みは無い。抱きしめられた腕の中で温かなゼリーの中に漂うような、不思議な体験。
あぁ、お母さんのお腹の中に居る赤ちゃんってこんな気持ちなのかもしれない……佐和子は自然に目を閉じる。
抱きしめられる。抱きしめる。
彼の知らない素肌の肉体。柔らかで暖かい不思議な肉体。
彼女の知らない彼の肉体。ゆるゆると蠢く触手達が包み込む温かな肉体。
キミが、僕を、呼んでくれた。
「りりちゃん」と、呼んでくれた。
その日から僕は、僕に、なった。
それまで僕には固有の名前は無く、ただ卵を求めて海を彷徨う種族の中の一人だった。
だけどあの日僕は、キミの中で唯一の「りりちゃん」になった。
あの喜びが、キミに解るだろうか?佐和子……
僕達は遠い過去に海へ逃げてから、名前という固体の識別もない、ひとくくりの種族としてただ繁殖だけを繰り返してきた。子孫を増やせばやがて繁栄するだろうと信じて。
けれどキミが僕に向って「りりちゃん」と呼んでくれた時から、僕はやっと、僕の生きている理由が解った。
愛しいと思う誰かを抱きしめ、愛しいと思う誰かの、子供なんだ、欲しいのは。
僕はキミの卵を貰い僕の喜びをそのまま子供に教え伝える。
ただ子孫を増やすことのみに囚われないで、何の為に子孫を残すのか、語っていくから。
佐和子、僕に、名前をありがとう……
佐和子、僕に、ココロをありがとう……
佐和子、キミの卵だからこそ、僕は慈しみ愛するから……
佐和子、僕を、ただ子孫を増やすことのみに囚われ続けた海の末裔から解放してくれた、僕の唯一の女性……
台風の通り過ぎた縁側は陽の光を浴び乾いてゆく。
「佐和子、佐和子?」
「……ん……」
「あんた何ていう所で寝とるん、もしかして一晩中ここにおったん?」
「え……そんな訳ないじゃない、ちゃんと布団で寝たわよぉ」
「やったらええけど……早く起きすぎて掃除でもしよったん?」
「う……ん……」
朦朧とする佐和子を心配し「朝食は私が作るから早よぉ顔洗っておいで」と母親がせかす。
「うん……」体が鈍く重たい。
「何かなぁ……お腹も痛い……」
体を動かすと縁側に小さな赤いしるしがついた。
「あれ?」
重い体を引き摺るように慌てながらトイレに駆け込んだ。
お母さん、私生理始まったみたい。
えぇ?
どうしよう……
とりあえず私のナプキンを……
台風は秋の訪れと共に一段落し、山は蜜柑で甘く染まる。
「ヨシ婆ちゃんー」
二学期が始まり佐和子も白いYシャツと黒いスカートを翻しながら自転車を漕ぐ。
いつもの筏でいつもの通りヨシ婆が網を縫っている。
「婆ちゃん、今日なぁスーパーで饅頭安かったから買ぉてきたん、一緒に食べんね」
堤防に自転車を置き去りにして筏の橋に一歩を軽く踏み出し駆けてゆく。
ヨシ婆が驚いた顔で佐和子を迎える。
「あんれまぁ、佐和ちゃんようこっちに来れたなぁ」
「何?」
佐和子にはヨシ婆の驚く理由が解らない。
「佐和ちゃん海、イケンかったやないか……こんな桟橋もよう渡れんくらい」
「えぇ? そやった?」
佐和子の記憶の中から怖かった海は消えているのか。揺れる筏の上にちょこんと座りスーパーの袋を開けヨシ婆に「はい」と饅頭を手渡す。それを受け取りながら老女はふっと呟いた。
「海神様んでも会うたかねぇ」
小さな小さな呟きだったが波音に消されることなくそれは佐和子の耳に入った。
――海神様かどうかは知らんけど――
今はただ、ひたすらに、海が恋しい。
「何か、大事なもんはあるような気がするわ」
ふっと沖を見つめながら佐和子が応えた。
夏を過ぎて妙に大人びた表情を見せる佐和子に「まぁそんなこともあるわなぁ」とヨシ婆は網を縫う手を休めない。
いつか、また、会えるだろうか……
手と手を繋いで歩いたあの日に……
終わりました。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
引き続き次回作に取り掛かりたいと思いますので
今後もどうぞよろしくお願いいたします。




