13
考える余裕も無かった。何故彼が今そこに居るのか、何をしに来たのか、この雨の中……佐和子は窓を超え裸足のまま雨の庭に駆け出した。
「大丈夫なの? こんな台風の日に外になんか出て! こんなに濡れて風邪でもひいたら……」
シャツの袖を掴み彼を雨の当たらない軒下に引っ張って行こうとする佐和子の口元に人差し指を当てて「しっ」と目を細めながら制した。ちらっと佐和子の部屋の隣の窓を盗み見「そんなに騒いでたら家の人が起きちゃうよ?」微笑みながら小さく囁く彼の声がとても嬉しそうに聞こえたのは佐和子の気のせいだろうか。濡れてぺしゃんこになった髪からしたたる一滴が月色にまばやきながら白いシャツの肩先を滑り落ちて行く。
「だって、こんなに濡れて……」
「濡れても、僕は大丈夫だから」
濁りの無い笑顔の向こうに佐和子はあの夜の光景を思い出す。しっとりと濡れた何百本という細い触手達がざわざわと蠢きながらやがて一つの塊を作って行くのを見た、あの夜。
思わず掴んでいた袖を手放し後ず去ってしまった。彼もその腕を背中に隠すように回し首を傾け「うん、やっぱり見られちゃってたんだね」淋し気な声で呟いた。
沈黙の間を縫うように雨が激しく音を立て佐和子が何かを考えようとするジャマをする。言葉が出ない。足元を流れてゆく雨の筋と目の前に立ちすくむ少年の肩先とを視線がふらふらと頼りなく泳いでいる。その様子に耐えかねて、彼が遠慮がちに言葉を開いた。
「佐和子は、僕が怖い?」
怖いかと聞かれれば怖くないとは言い切れない。しかしそれを口にしてしまった後の彼の表情を見るのもまた怖い。返事に戸惑っている佐和子の気持ちを汲むようにゆっくりと彼が話し続ける。
「僕はずっと佐和子を見てたよ。あの小さな佐和子が海に沈んで僕の腕の中に落ちてきたあの日から」
激しい雨に叩かれ続けて頬に張り付いていた佐和子の髪先が大きく震えてしぶきを散らした。
あの夜あの海辺で見た不思議なふんわりと大きな生き物。彼の姿へと月灯りの下変化していったあの生き物。どこかで見た覚えがあった。けれどずっとソレと一致させて考えることができなかった。似ている、と一瞬思いもしたが、あまりにも非現実すぎる。ありえない。確かにずっと探し求め続けてはいたが本当に存在すると思うことをいつか諦めてしまっていた。だから、一瞬胸をよぎった思いはその場限りで忘却されてしまっていた。
その、一瞬脳裏をよぎった『ありえない』考えが再び蘇った。
「りりちゃん……?」
「うん」
呼びかけられて嬉しそうに、今まで見たどんな笑顔よりずっと、本当に嬉しそうに彼が笑った。
「正確には、りりちゃんではないのだけどね」
海から溢れてきた海水が二人の足元に水溜りを作り始める。佐和子はつ、と遠い空に目をやり、次に海へ視線を投げた。海と道路の境界は水に侵されぶわりと膨らんだ海面から波が押し寄せ出来た溜り。
「海が……大潮と台風が重なってる? でもまさか急にこんな……」
慌てる佐和子の肩に手を置き
「大丈夫、これは台風のせいじゃないから」
「え?」
急激な海水の上昇。彼の不可思議な言動。理解できずに戸惑う佐和子を彼は柔らかく抱きしめて言った。
「佐和子、僕の、最後の希望。この日を僕はずっと待ってた……」
大きな波が堤防を越えて二人を頭上から飲み込んだ。
波は二人をゆっくりとさらい遠い海へ誘う。素足の裏を小さな泡がぽつぽつとくすぐりながら落ちて行く、ほのかに明るい海の底。
「明るい?」
「うん、大丈夫だから。怖くはないから、今は少しだけ僕に付き合って……」
「息が……」
「僕が居れば大丈夫、怖がらないで、そして見て欲しい……」
「見る?」
「うん、僕の世界を」
静かだった。海面を荒削る風も無ければ叩きつけるうるさい雨も無い。ただひたすらに穏やかで静かな暖かい世界。
「初めて会ったのも、海だったね」
初めて会ったのも、海。確かに。けれどあの日の水底はこんなに暖かくは無かった……ぼんやりと佐和子があの幼かった日の事を思い出そうとする。
冷たく冷たく沈んで行ったあの日。けれどふとした瞬間に暖かく包まれた感触。その後すぐに水を吐いて苦しかった。吐き出したものは水だけではなく胸の奥の酸っぱい液体が口だけでなく鼻からも抜けて喉から鼻に通る細い道を痛く熱く刺すように刺激した。苦しさの中見上げた先に、りりちゃんと呼んだあの生き物が居た……あの日の緩やかな暖かさと同じ温もりを今感じる。
「アナタは……何?」
「全部教えてあげる。全部見せてあげるから、僕の全部を」
二人を中心に気泡の塊が取り囲みはじめ小さな竜巻のようにぐるぐると廻り始める。
「僕は……僕達は……遠い遠い昔、同じ海と大地の狭間に生きていた、同じ祖先の末裔……」
気泡の壁が開き、本かテレビの作り物でしか見たことの無い暑い古代の空気が広がった。
石造りの神殿と石畳の道。原色の衣をふわりとまとい素足で歩く人々。生まれたままの姿を欠片も恥じる様子も無く海に泳ぐ人々。彼らはとても自由に海と陸とを行き来した。
長い道のりを歩き続けても疲れを感じていないかのような強靭な肉体と同時に、長い時間を海の中で過ごしても陸と変わらず眠ることすら出来る空気を保つことのできた胸中。
やがて訪れる地震と津波。大地の異変は人々を陸と海に分けた。
陸へ逃げた大多数は津波を恐れ海から遠ざかるようにそれぞれ散り散りに散って別れ、長い時を経てそれぞれが違う土地で安住の地を手にいれる。その頃には彼らは既に海へ戻る術を失っていた。肉体が陸で生きるように変化していた。
海へ逃げた少数は大地の避けるのを恐れ海底深くに潜り静かに静かに繁殖を繰り返し細々とながらも血を絶やさないよう子孫を残して行った。そして彼らもまた陸に別れた人々と同じように体が海で生きるように変化し、陸へ戻る能力を失った。
「海へ逃げた人々の子孫が僕、そして佐和子達は陸へ逃げた人々の子孫」
陸へ逃げた人々はその数も多かったので順調に子孫を増しそれぞれに繁栄していったが、海に逃げた彼らはその数が少なすぎた。
「何が悪かったのかは解らない。濃くなり過ぎた血だけが原因とは言い切れない……けれどいつからか僕たちの種族の女性は子供を宿す能力を失っていたんだ」
「どうして?」
「原因は解らない。僕たちの種族は自然淘汰の道を歩むのかと思われた……これは僕の父さんから、そして父さんはさらにその父さんから……伝わって来た話なのだけど」
最初は女達の五人に一人が妊娠できなくなり、そして三人に一人、二人に一人とゆっくりと長い時間をかけ、やがて全ての女性はその体内で卵を作る機能を失ってしまった。まるで世界から存在する事を拒まれたかのように彼らは子孫を残す手段を失った。寿命と共に個体数は目に見えて減り、女性は自分達の中で命を宿す事のできなくなった自分の肉体を恥じるかのように一人また一人と群れから姿を消して行った。
「彼女達がその後どうなったのかは解らない。けれどこの広い海を長いこと漂ってきた中で同族の女性に一度も会ったことがないから……」
淋しそうな顔になり、けれど話は続く。
「だけど僕達は種の繁殖を止めるわけにはいかない。地上の人間たちとは袂を分ってしまったけれど、僕達も同じ先祖の元続いてきた命なのだから簡単に諦めてしまうわけにはいかないんだ」
そう、元は同じ生き物だった。彼らは海で生きるのに生きやすい形に姿も代え地上の人々はそこで生きるに適応した姿に変わって行った、が、元は同じ姿形の人間同士だった。何代前の男性だったのだろう、何故彼が突然にその発想に辿りついたのかは彼が既に亡き為に未だ永遠の謎だが。
――元は同じ種類の人間であったのだから、地上の女性の卵を分けてもらえば我々もまた繁殖が可能になるかもしれない――
そして地上の女性を求めて彼らは陸に近づいた。




