12
あの夜から、最初の三日ほど佐和子は随分悩んだ。確かにその目で見たあの光景を現実のものと認識できなかった。
苦しかった。盆に降りてきた見ず知らずの仏様が戯れに見せた雨の夜の夢だとも思った。しかし時間が経つほどにその光景はさらに鮮明に、鮮やかに蘇る。“夢”で片付けるには確かすぎる記憶。
やがて受け入れてしまった現実。
「そうだね、あの子が人間だったら……」
恋心は芽生えていた。
あの夜が全てを白紙に返した。
そしてようやく辿りついた。
彼が、りりちゃんだったのかもしれない……
けれど会いに行く勇気は無かった。
全てが怖かった。確かめることも。言葉交わすことも。顔を見ることも。
「雨が来るかな」
一方で少年はいつもの堤防に腰掛けただひたすらに待っていた。
やはりあの夜彼女は見たのだ。来なくなってしまった待ち人を想いながら細い肩が不安で震える。
――僕は、どんな風に見えたんだろう――
雲の間から覗いた月はテトラポットの上に居た自分を十分に照らして見せただろう。けれど少年の方からは山の上からせりだした木の影が邪魔をしてカーブの向こうから覗いていた彼女の姿は、ぼんやりと確認できたもののその表情までは見ることができなかった。
――ずっと、ずっと待っていたのに……ようやく時が満ちて会うことができたというのに――
自分のあの異形の姿を恐れてもう二度と会いには来てくれないかもしれない。
では、自分から彼女の住む村の近くまで訪ねてみようか? 思い切って彼女の家まで訪ねてみようか。白とピンクの小さな花が幾つもの毬を作るように咲いている二本の木が目印の、そうだ、あれは確かサルスベリという名前の木だと言っていた。行くのは容易い。けれど……
怖かったのは彼女を訪ねた自分を見て彼女がどんな反応をするかということ。化け物と石を投げられるかもしれない。家の中に閉じこもって窓という全ての窓を閉じてしまい、顔も見せないかもしれない。
これまで過去に、親しくなって、つい気持ちが緩んで本当の姿を晒してしまった人々の見せた反応が蘇り記憶の中を駆け巡る。
怖い。会うのが。けれど、会いたい。
来て欲しい、この場所へいつものように。来て欲しくない、彼女の恐れる表情を確かめてしまいたくない。
会いに行きたい。けれど……
――こんな風に思ってしまうなんて――
ぐるぐると佐和子のことばかり考えてしまう。
――こんな風に、あの姿を知られてどう思われるか、怖いと思ってしまうなんて――
今まで出会って恐れて自分から離れて行ってしまった人々に対して、ショックはあった。傷つきもした。けれど、その後彼らが自分をどう思っただろうか、そんな事を恐れたことは一度も無かった。
「どうすればいいんだろう、僕はこのまま、これから、どうすれば」
堤防の上で、立てた膝の中に頭を埋めるように抱え込んで、涙が出そうな熱さを胸に感じる。
遠くの沖で波が揺れる。
ちゃぽん
波音の向こうから蘇る古い古い記憶。小さな卵だった自分を暖かく穏やかに包み込んでくれていた産みの親がいつも語りかけてくれていた柔らかな声。
「そうだね、少なくとも僕は……ここで立ち止まっているわけにはいかないんだ。急がなきゃ。僕も残された時間は既に僅かなのだから。佐和子が……僕を恐れて否定してしまっても……立ち止まっているわけには……」
雨はまだ遠く。静かな静かな台風の前の夕暮れ。シーズンが終わり人気の消えた砂利浜に降り立ち湾の林の影めざし駆けて行き人の目の届かない場所に来たのを確認して冷たくなりはじめた海にゆっくりと足を入れて行った。
「佐和子……」
波打ち際に集まった半透明の海月達が彼の足に道を譲るように、するりと左右に別れ静かに歩む彼を深い沖に誘うように先を開ける。
「どうか……」
どうか、恐れないで。本当の僕を恐れないで。
どうか、僕に恐れさせないで。本当の僕の姿に怯えるだろうだろう佐和子の顔を見ても、傷つかない勇気を僕に……
台風が来ていた。風が波を大きく揺らし暗い空の彼方からこれから激しく降るだろう雨を予感させる。
佐和子の母親も仕事を早々に終えて帰ってきていた。
「今夜半から降り出すかねぇ。風もそうとう強ぅなってきとるし、明日の朝には過ぎるやろうけんどまた庭の掃除が大変やねぇ」
「大変や言うてもどうせ掃除するんは私なんやけん、お母さんが困ることないやろ」
まぁそうやけど……と苦笑いしながら今日早く帰ってしまったせいで中途半端に残ってしまった仕事を気にする母親を気遣う。
「明日朝早う出勤せないけんやろ、今日はもう休んだがええんと違う?」
慣れた手つきでちゃっちゃっと食卓を片付け洗い物に向う娘の後姿を頼もしく、けれど申し訳なく思う複雑な気持ちで「そうやねぇ」と立ち上がる。
「あんたも早ぅ寝なさいよ。こんな日は遅くまで起きとってもええことないけん」
確かに、風にアンテナが煽られテレビの映りも悪い。こんな日に限って図書館から借りていた本が家の中で行方をくらます。加えてこの数日どこが悪いというわけではないのだが妙に体が重いような熱っぽいようなダルさが抜けない。「うん、私もさっさと寝るわ」と濡れた手を拭きエプロンをほどいた。
ちゃぽん……
台風が勢いを増してきた夜半。激しく雨戸を叩く雨音に紛れて小さく鳴くように何かが響いた。
ちゃぽん……
布団の中でまどろんでいた佐和子だったが耳に覚えのある音に目が覚めた。
「まさか……」
締め切った雨戸の向こうからそれは一定の間隔を置いて三度、四度と繰り返し聞こえてくる。佐和子は静かに音を立てないように窓と雨戸を開け、細い隙間から庭を覗き見る。
風で蹴散らされすっかり淋しくなってしまった百日紅の細い枝を指先で弄ぶ、白い背中が月も灯りも無い真っ暗なはずの夜の中でぼんやりと淡く光って見えた。
佐和子が窓を開けたのに気付いたのか、視線を感じたのか彼はゆっくりと振り向きちょっと困ったように眉間に皺を寄せながら微笑んだ。
「やぁ、佐和子」




