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海に宿る月  作者: 天帆出
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 全身を覆う茶色く細い触手達がわさわさと蠢きその先がピッピッと伸び縮みしながら水滴を払う。最後にぶるぶると大きく震え完全に水気を切ってしまうと、まるで暗い空を仰ぐように大きく伸び上がりぶわっと全身を膨らませ、まるで深呼吸をするかのようにしぼんでゆき、ゆっくりと、下の方から形を変え初めていった。

 周辺の触手が撒きつくように細い棒切れのようなものを二本、形を造ってゆく。と同時に形造られる先端から茶色い表面は冷たく透き通るような白へと変化していく。

 二本は途中から一本になり上の方へ行くと左右に一本ずつ細い枝に別れて、また一本に戻る。

 今ではすっかり解る。海から這い上がってきた毛玉のようなそれは確実に人の形を造っていた。細い首の上に小さな頭が完成する頃にはもう、蠢いていた無数の触手は見る影も無かった。

 降っていた雨が止み雲に隠れていた月がぼんやりと現れはじめ「さぁ見てごらん」と生温かな風が佐和子にささやくように耳元を舐めるように通り過ぎる。

 シャワーのように降りてきた柔らかい灯りの中、照らされたその後姿を見て佐和子は心臓が凍り止まるかと一瞬感じた。

「まさか……」

 固まっていた体が動揺で震える。

 カラリ……指先に触れていた山肌が動揺に反応するように一群れの小石をアスファルトに転がした。その音に月灯りの中浮かぶように背中を向けていた人影がゆっくりと慌てる風も無く、音の響いた方向を振り返る。

 目と目が合った、ような気もしたが、振り返られた瞬間に佐和子はまるで、悪いことをしている子供が大人に見つかってしまったような気持ちに襲われ山肌から跳ねるように離れ再び自転車に飛び乗った。

 来た時よりは若干明るくなった道を駆けるように走る。

「あれは……あれは…」

 汗がどっと噴き出す。

「あれは……」


 テトラポットの上で彼は佐和子の消えて行った方角をしばらくじっと眺めていたが視線を足元に落としうな垂れて小さく呟いた。

「見られた……かな……」

 できあがったばかりの色素の薄い髪に残された最後の一滴がつつ…と華奢な肩に流れ落ち、はじけるように散って消えた。




 徐々に高くなり始めた空に白い雲が風に弄ばれ形を変えてゆく。

「暑さ寒さも彼岸まで言うけんど、ほんまにえらいんは盆過ぎてからのこの時期やのぉ」陽よけにほっかむったタオルで額に浮かぶ汗を拭きながら、腰を屈め黙々と菜っ葉を間引くヨシ婆を手伝いながら「婆ちゃんそれ毎年言うなぁ」と佐和子は笑った。

「そうかのぉ、そしたら去年も言うたんやろぉか」ハハハと声を上げてヨシ婆も笑い答える。

 くすくすと口の端で笑いながら佐和子は目が笑っていなかった。菜っ葉を機械のように抜いては放る佐和子をちらっと横目で確かめヨシ婆はまるで独り言のようにぼんやりと呟いた。

「そういえば今日は行かんでええんかいの?」

 言われていることは解るが聞こえなかったようなふりで手を動かし続ける。

「どこぞから休みで来とる子やったら、もうじきいんでしまうんやなかろうかねぇ寂しいこっちゃ」

「なんで……」何故ヨシ婆がそんなことを……最後まで言おうとしたがヨシ婆がそれを遮るように続ける。

「今朝なぁ用事でちょっとあっちん方行ったらぽつーんと一人でおったなぁ」

 ――ひとりで――

 あの夜からちょうど一週間を数えていた。溺れて助かった翌年から、夏休みとなれば登校日の日でも学校から帰ると昼ご飯もそこそこに駆けて行った。一日と空けず通ったあの場所に一週間も行っていない。

「よっぽど大きい台風ん時以外毎日行っとったろ。何ぞ喧嘩でもしたんか? そやったら、早う仲直りせんと。休みが終わって街にもんてしもうたら話もでけんようになるんと違うか?」

 ――喧嘩やったら、ええんやけどね……

 確かに、喧嘩ならどちらかが先に謝れ済むこと。しかし、見てしまったあの夜。

 海から這い上がってきたのは懐かしい懐かしいあの生き物。ずっと追い求め探し続けた溺れた佐和子を助けてくれた生き物。いつか必ずもう一度会えると信じて沖を眺め続けた夏の日々。待ち続けるうちに、確かにあれはりりちゃんではない。けれどもしかしたらりりちゃんが海の生き物として生まれ変わった姿なのかもしれないなどとも想い始め、いつか会えたら……いつか再開できたなら例え言葉は通じなくともあの不思議な茶色い塊に向って「ありがとう」と伝えたい。そう思いながら。

「来年もまた会えるとは限らんでなぁ」

「婆ちゃん!」

「何ね、急に大きな声だして」

「よう知っとる年頃の娘が知らん男の子と親しくしとったら普通はあんまりええ顔せんもんやない?」

「そうかのぉそういうもんかの」

 ヨシ婆はまたハハハと笑った。

「そうよ、そういうもんよ」

 てっきり佐和子が照れてしまったものと思ってヨシ婆はそれ以上に言うのをやめた。草むしりで曲がった腰を「うーん」と伸ばしながら立ち上がり

「佐和ちゃん今日はもうええけん、ありがとうなぁ」

 言いながら傍らで実っている茄子をもぎ採り佐和子に向って放り投げる。

「今年は茄子もにがうりもよぉでけた、いつもいつも手伝ってくれてありがとうなぁ」

「うちこそ、いっつもいろいろ貰ぉて。今日の晩はこれ焼こうかな」

 顔をほこらばせ胸元に飛び込んできた二本の茄子を抱え込むようにキャッチする。

「佐和ちゃんもおせらしゅうなったなぁ」

 しみじみとヨシ婆が呟いたのを聞き逃し「え?」と振り返り聞きかえすが「いいや、何も」にっこりとかわして

「さぁて、そろそろ蜜柑も忙しゅうなるな」やれやれとまた腰を伸ばした。


 暦では夏も終わりに差しかかっているが陽射はまだまだ刺すように痛い。空が抜けるように高くなり始めると大きな台風の来訪もこれからが本番になる。

 天気予報が次の台風を予想する。

「大潮と重ならんけりゃええが」

 沖縄あたりに強い雨を降らせ始めている台風に向ってヨシ婆が祈った。

「そっか、台風がまた来てるんやね……」

 小さな台風は既に幾つか通り過ぎていたが、次は何十年かぶりの大雨になると被害の拡大する恐れをテレビのキャスターが口にする。

「明後日あたりからここいらも暴風圏内やろ、また浸水せにゃええが」

 溜息をつくヨシ婆の家は去年一昨年と二年続けて床下まで水が来た。畑も塩水が入り込んですっかりだめにされてしまった。だからヨシ婆は急いでいた。大型台風の予報を聞いて、また畑がダメにされてしまう前に生っているものは収穫してしまおうと、間引きなどしながら手頃に育った茄子と玉葱をかごに山のように積んでいた。その中からまた一つ玉葱を取り「クズやけど味噌汁にでもすればええ」ぽんと手渡し

「佐和ちゃんのお母さんがな、家の事ばっかりやらせてしもうて普通に子供らしいことさせてやれなんだ、て言うとったで。年頃の娘らしゅうボーイフレンドの一人もでけたらお母さんもちっとは安心するに」

「普通はそういうの心配するもんやろ……」

 照れながら、複雑だった。


 あの夜の光景が忘れられない。ふとしたはずみに脳裏に蘇る。

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