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海に宿る月  作者: 天帆出
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 突然に、今まで話題にされることのなかった類の話をされて呆れるやら驚くやらで母親をようやく振り返る。

「別に」

「別にって……」反論しようとしてまるで思い当たる事が無いわけでも無いことを思い出した。そういえば昨日母親とヨシ婆が畑で立ち話をしていた。もしかして澤田のじっちゃんから流れた噂が耳に入ったか……いや、どちらにせよ他の幼馴染達も遊んでいるあの場所で少年と肩を並べている所を散々他の人にも見られているのだから噂にならないわけがない。

「違うわよ、そんなんじゃないんだから」

「そう?」ふふ、と笑う母親に対して更に慌てる。

「そうよ、絶対に絶対にそんなんじゃないんだから」

「まぁ、そのうちお母さんにも紹介してね」

 最後にそう言い残し「明日からまた仕事やけん先に休むわね」隣の部屋へ姿を消した。

「もう……そんなんじゃないのに……」

 半ば呆れ、怒りながらパタンと閉じられた襖にぶつぶつ言いながら湯呑に残された麦茶を飲み干す。

 一方、襖の向こう側では母親も布団に入りながら聞かされた噂話を反芻していた。

 この付近の子ではないらしい。どこか違う村の親戚の子供か。昼前から夕方空の色が変わるまで海水浴場前の堤防でずっと話をしているらしい……

 ――清く正しい男女交際じゃないの。あれこれ五月蝿く言っても感情逆立てるだけよね……それにしても……

 そう、この付近の子でないとすればいずれ夏が終わる頃にはどこか街か都会か帰ってゆくのだろう。そうしたら娘はどうするのだろう……

 ――文通でもするのかしら――

 年頃になってきた娘が急に愛しく思え「可愛いこと」声には出さずふふふと笑いながら眠りについた。


 台所では洗い物を片付けながら佐和子がまだぶつぶつ言っていた。

「だいたい、あれが母親の言うこと? 親だったら子供が知らん男の子と仲良ぉしとったら心配になるもんやろうに、紹介してよねって……」

 食器を洗い終わるて時計を見ると針は十時過ぎを指していた。

「私ももう寝なきゃ」

 最後に玄関の鍵を確認して休もう、サンダルを足先にひっかけて土間に降りた。


 ちゃぽん


 目の前の海から何かが聞こえた。

 同時に、七夕の夜を思い出した。


 ちゃぽん……


 まるで佐和子を誘っているかのように。

 慌てて、しかしそっと注意深く玄関を開け海の側へ行く。そこには何もない。ただ雨上がりの湿った空気に波が漂うだけ。遠い沖に目をやるが雲に隠れた月のせいで海と空の境もわからない。

 が、佐和子はその暗い沖に再びそれを見た。ぼんやりと光る影はゆらゆらと漂いながら波間に現れたり隠れたりしながら動いている。その度にまたちゃぽん、ちゃぽんと響いてくる。

 聞こえるわけがない。本来ならそんな遠くの波間の音なんて、聞こえるわけがない。けれど確かにその塊の動くに合わせてちゃぽんちゃぽんと繰り返す。

 しばらく同じ場所で潜ったり現れたりを繰り返していたそれはそのうち海面を滑るようにすすっと一つの方向を目指し進み始めた。

「あっちは……」

 いつも、少年と会っていた海水浴場の方向。急な胸騒ぎ。迷う時間もなかった。

 サンダルでパジャマのまま、街灯も月灯りも無い淋しい夜道を自転車のライト一つに身を任せ走り出した。


 昼間なら十分とかからない道のりを暗い夜道のせいで時間がかかる。緩いカーブの先が見えない不安。だけど……

 ――行かなきゃ、急がなきゃ……

 沖に見えたあの影は確かにあの方向に流れて行った。佐和子の特等席。いつも夏が来ればそこで日中を過ごし海を眺め続けた場所。この夏はあの少年と出合った。

 ぽつ、ぽつ、と柔らかい雨がじんわりパジャマの肩を濡らす。山から降り下りる雨の匂いに混じってふうわりと固く青い蜜柑が甘酸っぱく香る。

 緩やかなカーブの向こう。ここを曲がればあの海が見える。八年前、溺れた場所は家の前の海だった。けれど無事発見されたのはいつも少年と会っていた堤防の下に並んだテトラポットの上。ヨシ婆にその時の話しを聞けば、仰向けに穏やかな顔色で寝息をたてていたという。

 潮の流れに不自然に逆らってどうやってあの場所まで辿りついたのか、不思議なこともあるもんだと首をかしげる大人も居たが「それにしても助かって本当によかった」と締めくくられそれ以降話題に上ることもなかった。

「きっと海の神さんが佐和ちゃんがあんまりこんまいけん不憫に思うて助けてくれたんよ」

 ヨシ婆が小さな頭を撫でながら、誰も自分の話をまともにとりあってくれないことで悔しいやら切ないやらで悶々としていた佐和子の気持ちを慰めた。

 当時を思い出しながら最後のカーブを曲がる直前で自転車を漕ぐ足が止まってしまった。


 ちゃぽん


 確かに、聞こえる。海に落ちる雨の音ではない。


 ちゃぽん


 耳を澄ます。船が揺れて波を立てる音でもない。

 軽やかに水を切る音が次はずるりずるりと重たそうに何かを引き摺る音に変わった。

 ゆっくりと何かが海から這い上がってくる気配に鼓動が駆け足を始める。体中の血液がふつふつと湧き上がるようで、頭の芯まで熱くなってしまう。

 見たい。このカーブの向こうを。

 しかし…そこにあるのは自分が期待している何かでは無いかもしれない。

「そうよ、もしかしたらただの酔っ払った誰かが落ちただけかもしれないじゃない」

 考えてみて、ハッと我にかえる。

「だったら! 余計グズグズしてる場合じゃないじゃない、助けなきゃ!」

 山肌にしがみつきながらおそるおそる顔を出す。

 暗い海。

 けれど夜道を走ったおかげで暗さに目が慣れている。テトラポットの上に動く何かがぼんやりと見える。

「やっぱり、誰か海に……」

 助けなきゃ、そう思って飛び出そうとした時だった。

 はっきりと目に映ってしまった。

 しがみついていた山肌に体が張り付いてしまって動けない。先ほどまで興奮で震えていた体がぴたりと硬まり、まるで自分がその風景の一部として吸い込まれてしまったような感触。

 大きく見開いて瞬きする事も忘れてしまった瞳に映し出される、テトラポットの上を重く這うように動いていくソレから意識も視線も背けることが、できなくなってしまった

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