8 トーチリリー
トーチリリーの花言葉「恋の痛み」
三日ぶりに再会した令嬢と執事レイ。けれどその再会は痛みを伴うものだった。触れてはならぬと分かっていながら、彼の髪に手を伸ばしてしまう令嬢。それに気づきながら運命を受け入れようとするレイ。
しかし数日後、彼女はレイとメイドのエマが親しげに話している姿を見てしまう。
十月一日 金曜日
今日から、新しいメイドのエマが入りました。
アナは私に何も言わず辞めてしまった。
せっかくできたお友達だったのに、
私はとても悲しくなってしまいました。
でも、アナからの手紙を読んで知ってしまったの。
アナは私を守って、自ら辞めることを選んだのだと。
エマとうまくやっていけるか分からないけれど
――きっと、大丈夫。そう、信じたい。
「本日からお世話になります。エマと申します」
朝、レイが新しいメイドを連れて挨拶に来た。
アナは昨日で最後だったのだと聞いた。
彼女は、私には何も言ってくれなかった。
そのことが悲しくて仕方がなかった。
仲良くなれたと思っていたのは、私だけだったのだろうか。
エマはアナよりも落ち着いた雰囲気で、歳はたぶん、レイと同じくらい。
ふんわりとした栗色のミディアムボブが可愛らしい。
でも、やはりアナの明るさが恋しい。
「お嬢様。本日の紅茶はアールグレイとラベンダーのブレンドでございます。本日は、少しやさしい香りをお選びいたしました。どうか……香りに身を委ねてみてくださいませ」
「…………え? あ、ごめんなさい。えっと……」
目の前にカップを差し出しながらレイが何かを言っていた。
でも、私の頭はぼんやりと靄がかかったようで、彼の話をほとんど聞き逃してしまった。
カップの中で、やや琥珀がかった金色の紅茶が揺れている。
立ち昇る湯気がやさしく心に寄り添うようだった。
彼はきっと、いつものようにこの紅茶の説明をしていたのだろう。
申し訳ないことをしてしまった。
しかし、レイは気にする様子もなく静かに微笑んでいる。
「……このあと、アナよりお預かりしたものをお渡しいたします。どうか、無理だけはなさいませんよう」
「……!」
彼は手紙を取り出し、私に手渡す。
「アナから……手紙?」
「内容は存じませんが……アナはきっと、お嬢様のことが好きでしたよ」
レイは何でも見透かしてしまう。
きっと、私がアナのことで落ち込んでいたことに気づいていたんだわ。
心の中がじんわりと温かくなる。
それはきっと、紅茶のせいだけではないだろう。
私はレイから受け取った手紙の封を切った。
少し丸みがかった字。
でも、とても丁寧に綴られているのが伝わってきた。
親愛なるお嬢様
何も言わずに去るご無礼を、どうかお許しください。
私は、奥様の命に従うことも、断ることも出来ず
迷った末に退職を申し出ました。
奥様のお命じになった内容。
それは、お嬢様に関わることでございました。
お嬢様の日記を盗み見、その内容を奥様へ伝える。
私は、お嬢様を裏切るようなことはしたくありませんでした。
お嬢様……奥様は、お嬢様がレイさんのことを
慕っていらっしゃると、すでにお気づきのようです。
私も、薄らと感じておりました。
貴女のレイさんを見る眼差しは、とてもあたたかかったから。
でも、どうかお気をつけください。
奥様はお嬢様の弱みを握ろうとなさっています。
レイさんのことは、誰にも悟られてはいけません。
お嬢様。貴女に意地悪をしてしまった私を許して下さり
本当にありがとうございました。とても、嬉しかったです。
離れていても、私はずっと、お嬢様の友達でございます。
私はその手紙を、何度も何度も読み返した。
申し訳なくて、ただ申し訳なくて。
自分に腹が立った。
アナが辞めたのは私のせいだ。
私がレイに対する気持ちを抑えきれなかったから。
私が、もっとちゃんとしていれば――。
「ごめん、アナ。ごめんなさい……」
せっかくできた友達を、私は自分の手で手放してしまった。
アナは私を責めるようなことは書かなかった。
こんな私を、それでも友達だと言ってくれた。
手紙が、私の手の中でくしゃりと音を立てた。
十月四日。
九カ月ぶりにお父様が帰ってきた。
海外を飛び回っているお父様は、滅多に家へは帰ってこない。
その代わり、帰ってきたときには抱えきれないほどのお土産を買ってきてくれるのだ。
今回もまた、ドレスや本、お菓子などを持ってお父様は現れた。
「おかえりなさい、お父様。お疲れになったでしょう」
「ああ、ただいま。今回は予定が押してしまってね。本当はもっと早く帰るつもりだったんだが。お前のほうはどうだい? レイや他の使用人とはうまくやれているかな?」
私は一瞬、答えられなかった。お父様の口から彼の名前がでた瞬間、焦りと罪悪感が頭をよぎって、心臓が収縮するような感覚がした。
「ええ……みんな、とても良くしてくれているわ」
母は――あのことを、お父様に話すだろうか。
なんとしても、隠し通さなければならない。
これ以上彼に迷惑をかけないように、私は自分の気持ちを封印してみせる。
――そう、思っていたのに。
その決心はわずか四日後、簡単に崩れることになる。
十月八日。
お父様は帰宅したその翌日、商談のため、レイを連れて三日間家を空けることになった。
今日がその三日目。
とても、長い三日間だった。
以前にもレイは数日間まとまった休暇をとったことがあったけれど、そのときは朝と夜にはこの家にいた。
だから、こんなに彼と離れるのは初めてだ。
彼のいない一日はとても空虚なもの。
ドアの近くで耳をそばだてても、彼の足音が聞こえることはない。
ノックの音が聞こえない朝も、紅茶の香りがしない午後も、優しい声が聞こえない夜も。
すべてが、スローモーションで過ぎてゆく。
母もアリサもいるのに、広い屋敷にひとり、取り残されたような気がした。
でも、その長い三日間も今日で終わり。
もうすぐ、彼が帰ってくる。
早く会いたい――いいえ、会わなくていい。
ただ遠くから、その姿を見つめたい。
お父様は夕方頃には戻ると言っていた。
今日だけで何十回目かの視線を、時計に向ける。
午後三時五分。先ほど見たときには、三時一分だった。
私は思わず、くすりと笑う。
もう、あれから一時間は経っていると思っていた。
彼のいないこの空間は、まるで時空の狭間に取り残された孤城のよう。
広げた原稿用紙は、もう何時間も白紙のまま。
彼がいなければ、物語の言葉すら何も浮かんではこない。
以前は、こんなことはなかったのに。
ふと、ドアの向こうからアリサの嬉々とした声が聞こえてきた。
きっと、お父様とレイが帰ってきたのだろう。
おおかた、アリサのお目当てはお父様ではなく、彼の持ち帰ったお土産なのだろうけれど。
私も出迎えに行こうと立ち上がって、でも座り直す。
ずっと、帰りを待っていた。
早く顔を見たい。声が聞きたい。
でも、皆がいる前で彼に会ってはいけない気がした。
母もアナも、私の視線に気づいていた。
三日分の膨れ上がったこの気持ちを、抑えられる自信が私にはない。
皆が落ち着いたころ、そっと姿を見に行こう。
彼がこの家にいる。
それだけで、私はもう大丈夫。
たとえ顔を見ることができなくても、彼の気配がドアの向こうを通り過ぎる。
それだけで十分に幸せなのだ。
午後五時ニ十分。
私は静かにドアを開けた。
悪いことなどしていないのに、何故か誰かに見られていないか、そっと周囲を窺ってしまう。
足音を忍ばせ、そっと階段を降りる。
半分くらい降りたところで、ホールにレイの姿を見つけた。
後ろ姿。でも、私の胸は急速に強いリズムを刻んでゆく。
もう少し、あと少しだけ、彼の近くに――。
その瞬間、僅かに出した足は階段を滑り、私の身体は一気に転がり落ちる。
「お嬢様!」
段差は小さかったはずなのに、左足に鋭い痛みが走る。
「お嬢様、お怪我はございませんか? どこか、痛むところは……」
ただ陰から彼の姿を盗み見るはずだった。
それなのに、階段から落ちたところを見られてしまうなんて。
穴があったら入りたいとは、まさにこのこと。
私はレイから視線を逸らす。
「少し左足を……でも、大丈夫よ。立てるから……あっ」
立ち上がろうとして、足に力が入らずバランスを崩す。
彼はすかさず私に手を伸ばした。
彼のおおきな手が、私の腰を支え、背中に添えられる。
全身に、小さな電流が奔った。
「ごめんなさい、私……」
「お嬢様。そのまま、わたくしの肩にお掴まりください。応接室までご案内いたします」
身体が宙に浮いた瞬間、私は彼の腕の中だった。
「レ、レイ。おろして……」
心臓の音が煩い。
こんなに身体が触れ合っていたら、きっと彼に聞こえてしまう。
どうか聞こえないで。
気づかないで。
階段を降りた先。
すぐ目の前にある応接室へ入ると、レイはソファーの上にそっと私をおろす。
「お嬢様、応急手当箱をご用意いたします。少々、お待ちいただけますか?」
私は小さく頷いた。
彼に触れられている間は気にならなかったけれど、離れた途端に足が痛みだす。
足首の少し上、レースの靴下に僅か、血が滲んでいた。
彼はすぐに箱を抱えて戻ってきた。
中から消毒や包帯を取り出す。
その手際のよさに、私はつい彼の手元を見つめてしまう。
「少々、失礼いたします」
彼はそう言って、そっと白手袋を外した。
指先から手首へと滑らせるよう脱がれた布が、空気の中に緊張を孕ませる。
ソファーの前に片膝をつき、彼は無言で絆創膏の封を切った。
「お嬢様、少し、沁みるかもしれません」
消毒をし、絆創膏を貼る。
その彼の指先が、私の脚に触れている。
私は震える手をぎゅっと握りしめた。
擦り傷と、捻挫。
彼は絆創膏を貼り終えると、流れるような手つきで包帯を用意する。
「お嬢様。包帯を巻かせていただきます。少しだけ、裾を上げていただけますか?」
「え……」
足首まである、丈の長いスカート。
確かにこのままでは包帯が巻けない。
けれど――。
ほんの少しかもしれない。
でも、彼の前で裾を上げて肌を晒すなんて、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
それでも、彼を困らせるわけにはいかなくて。
私は唇を噛みしめ、少しずつ裾を捲る。
彼は決して顔をあげることはせず、ただ包帯を巻きつけていく。
緩まない程度にきつく。
でも、とても優しい。
足首から、ふくらはぎへ。
彼の手が触れるたびに甘い電流が身体を駆け巡り、私は思わず息をのんだ。
包帯を巻く手がふと止まる。
「……どこか、痛む箇所はおありですか?」
「いいえ、ただ……少し、胸が苦しいだけ……」
彼は、ふっと優しく微笑んだ。
「……大丈夫です。わたくしは、ただ“お嬢様をお守りする者”として、ここにおります」
「……うそつき」
全然、大丈夫なんかじゃない。
だって貴方が触れるたび、こんなにも苦しくて、切ない。
感情を抑えなければと決心したばかりなのに、これでは想いが募るばかり――。
一瞬、彼の瞳が微かに揺れ、そしてまた静かに包帯を巻き始めた。
視線を落としている彼の顔を、私はそっと見つめてみる。
長い睫毛、形の良い薄い唇、滑らかな頬。
彼の顔をちゃんと見るのは初めてだった。
鼓動は、どんどん勢いを増して私の胸を打ち付ける。
彼に、触れてみたい。
その、やわらかな髪に――。
手を伸ばしかけた、その瞬間。
ドアの向こうで誰かの足音が聞こえた。
その音で我に返った私は、慌てて伸びかけた手を引っ込める。
名を呼ばれたわけではないのに、何故だか誰かに呼ばれたような気がした。
私は、なんてことをしようとしていたのだろう。
この手を伸ばしてしまえば、もう後には戻れなくなってしまう。
急に怖くなって、私は小さく身震いした。
怪我をしてから数日。
安静にしていたお陰で、家の中を少し歩く程度はできるようになった。
午後四時。
ティーカップにそっと口をつけたあと、私は立ち上がる。
何をしに行くかなんて、本当は分かっていた。
なのに自分に言い聞かせる。
「お礼を言いに行くだけ」だと。
レイはきっと、まだ配膳室にいる。
手当をしてくれたあの日から、ちゃんと顔を見てお礼が言えていなかった。
廊下を歩くうちに鼓動が速くなって、何を言えばいいのかも分からなくなっていった。
それでも会いたかった。どうしても。
そっとドアを開けた瞬間、ふたりの声が重なって耳に届いた。
レイと、エマ。
笑っていた。
近い距離で、何か穏やかに話している。
レイの表情は、いつものようにやわらかで優しい。
だけど今は、それが私に向けられたものではない。
ぐっと胸の奥が締め付けられた。
何も言えなくなりそうで、私は無理やり言葉を押し出した。
「レイ……この前は、ありがとう」
声が少し震えた気がした。
レイとエマがこちらを向く。
「あ……お嬢様」
レイの顔が、すっと真顔になる。
その瞳の奥に、微かに戸惑いの影が見えた気がした。
でも私はもう、それを確かめる勇気がなかった。
「それだけ……だから。じゃあね」
背を向けた瞬間、唇を噛む。
こんなつもりじゃなかったのに。
もっとちゃんと笑って、感謝の気持ちを伝えたかったのに。
だけど、どうしても言えなかった。
あんな表情の貴方を、あの距離を見てしまったから。
レイは笑っていた。
でもその笑顔は少しだけ――自然体だった気がする。
私の前ではきっと“執事の微笑”なのだろう。
でもエマの前で貴方は、レイとして微笑んでいた。
あのひとが私に優しくしてくれるのは、きっと彼が執事だから。
そう、それ以外の何ものでもない。
だから、勘違いをしてはだめ。
私が彼をどんなに好きでも、彼は私を“お嬢様”としか見ていないのだから。
分かっていたはずなのに、それでも胸が締め付けられる。
息が苦しくなって、私は倒れるようにベッドに伏せた。
どんなに泣いても、叫んでも、その声は羽毛に吸い込まれていく。
まるで、涙を流したその事実がなかったかのように、部屋はしんと静まり返っていた。
机の上。書きかけの原稿。
私は貪るようにペンをとる。
“悲しくて泣いているわたしに、おばあさまは言ったの
「いいかい。この瓶の中にはね
魔法の飴玉が入っているのよ
ピンクの飴を舐めれば笑顔になれる
黄色なら元気になれる
緑は優しい気持ちになれる
さあ、好きな飴をお食べ」
「じゃあ、この水色の飴は?」
おばあさまは空を見上げながら言ったわ
「水色はね、悲しい気持ちになるの」
「悲しくなるなら、水色の飴は食べられないわね」
おばあさまは、わたしの頭を撫でて微笑んだ
「人間はね、悲しいときに、
もっと悲しくなってしまいたいときがあるのよ」
おばあさまが何を言っているのか
わたしにはまだ、分からなかった
大人になったら、分かるようになるのかな?”
この子には、その意味が分からなかった。
もしかしたら、私以外には誰も分からないのかもしれない。
でも――。
紙についたペンの先が滲む。
でも私は、今は悲しみに深く、沈んでいたい。
十月八日(金) 雨のち晴れ
本日は、旦那様の商談最終日。
三日間、常に傍らに控えていたはずなのに、
心はどこか遠くを彷徨っていた。
何かが欠けたまま時を過ごすのは、
思いのほか長いものである。
昼前には商談を終え、私たちは帰路についた。
旦那様は奥様とお嬢様方のために、
トランクいっぱいのお土産をご用意された。
私はただその傍に立ち、
買い求められる品々を記録していたに過ぎない。
――紅茶、香水、靴。
その一つひとつに、自然と彼女の面影を重ねてしまう。
屋敷へ戻り、三日ぶりの再会。
けれどその再会は、思いも寄らぬ形で訪れた。
階段を踏み外されたお嬢様。痛めた脚。抱きかかえる私。
手当を施すその瞬間まで、
私は自らを律し続けたつもりでいた。
――だが、胸の奥では確かに、何かが脈打っていた。
もし、あのとき誰かの足音を感じなければ――。
そう思うたびに、いまも尚、身の奥が震える。
理性が揺らいだことを恐れているのは、私自身なのだ。
玄関のドアを開けた時、私は心のどこかで期待していた。
真っ先に、お嬢様が旦那様をお出迎えされる。
それを私は、“もしかしたらそれは建前で、本当は私を――”と、妄想する。
それが奢侈で傲慢な望みだと知りつつ、思うだけならばと自らに言い聞かせた。
先ず、アリサお嬢様が階段を駆け降りてこられた。
旦那様に最低限の挨拶をし、そしてトランクの中身をおねだりになる。
続いて、奥様が優雅に階段を降りてこられた。
旦那様と軽く抱擁を交わし、お茶にしましょうと食堂へ向かわれる。
私は階段の上に、微かな気配を探した。
――けれど、そこに彼女の姿はなかった。
長い――長い、三日間。
この瞬間を心待ちにしていたのは、もしかしたら私だけだったのかもしれない。
「レイ、何をしているの。早くお茶の準備を」
奥様の呼ぶ声にハッとし、私は急いで紅茶の用意をする。
湯を沸かす時間、茶葉を蒸らす時間。
私の頭には常に彼女の顔が浮かんでいた。
しかし、その笑みをこの目に見ることは未だ叶わない。
芳醇な茶葉の香りも、今日はどこか褪せていた。
午後五時十五分。
邸内は穏やかな静寂に包まれていた。
ホールの片隅、重厚なトランクが二つ、床に並んでいる。
私は片膝をつき、そっとにトランクの蓋を開いた。
中には、丁寧に畳まれたシャツ、海外の書店で求めた書籍、土産の菓子、そして小箱に入ったガラス細工。
ひとつひとつを慎重に取り出し、主ごとに仕分けてゆく。
「……お嬢様には、こちらがよろしいかと」
誰に聞かせるでもなく、レイは小さな声で呟きながら、繊細な細工の施された紅茶缶を手に取り、指先で埃を払った。
普段なら手早く済ませるはずの作業が、どこか緩やかで、慎重になる。
まるで、何かを待っているかのように――。
ホールの空気に、午後の日差しが柔らかく差し込む。
トランクの蓋が静かに閉じられたその瞬間、背後の階段に微かな気配が走った。
同時に、静けさを切り裂く、コツ、という小さな音。
そのあとに続いたのは、スカートが木段を擦る音、踵が弾かれる音、そして重力に引かれていく気配。
彼女の名前を叫ぶ前に、心臓の音が先に響く。
このときばかりは、優雅な所作など忘れ、無我夢中で彼女に駆け寄っていた。
「お嬢様!」
彼女は少しの沈黙のあと、「大丈夫」と言って立ち上がる。
けれどその足は震え、わずかに重心を傾けた瞬間、身体は脆く崩れるように揺らいだ。
私は抱き止めるように手を伸ばす。
左手で彼女の腰を支え、右手を背にそっと添え、彼女はバランスを持ち直した。
咄嗟のこととはいえ、この両腕の中に彼女の体温がある。
その事実が、私のなかに何か、取り返しのつかない感情を呼び覚ます。
これではいけないと、自分に言い聞かせるように小さくかぶりを振る。
立つことすら覚束ない彼女を抱き抱え、目の前の応接室へ。
ふと視界の端に、階段からこちらを見下ろす奥様の視線を感じた。
しかし私は振り返ることなく、部屋へ入る。
手のひら、腕、そして胸に、彼女の体温が伝わってくる。
感情の渦が、このまま彼女の身体に流れ込んでしまうのではないか。
そう思って、私は怖くなった。
私の肩を掴む彼女の手が小さく震えている。
“ただ彼女の笑顔を見たい”
そう願ったはずなのに。
まるで自分の望みが彼女を苦しめたように思えて、胸の奥に鈍い痛みが滲んだ。
応接室のソファーに彼女をおろし、私は応急手当箱を用意する。
見たところ、左足に擦り傷と捻挫を負っているようだ。
「少々、失礼いたします」
手袋を外し、絆創膏の封を切る。
なるべく痛みを与えないよう、優しく、慎重に消毒を行い、絆創膏を手に取った。
剥き出しの指先が、ほんの僅か、彼女の肌に触れる。
胸が締め付けられ、呼吸がままならない。
私は彼女の傷から目を逸らし、包帯に手を伸ばす。
「お嬢様。包帯を巻かせていただきます。少しだけ、裾を上げていただけますか?」
「え……」
その瞳は戸惑いに揺れていた。
けれどすぐに、彼女は裾を持ってそっと捲る。
女性が自ら裾を上げる行為。
その心情は、私には計り知れない。
でもそれは、彼女が示してくれた信頼の証。
それなら私は、傷以外、決して見ない。
それが私に出来る、最大限の忠誠の証。
しかし、唇から僅かに漏れる吐息の震えが、私の心を掻き乱してゆく。
包帯を巻く手が重い。
自分の手なのに、まるで他人の手のように感じる。
ふと、彼女は息をのんだ。
身体が微かに硬直する。
包帯の加減が良くなかっただろうか。
私は尋ねた。
彼女は、震える声で囁く。
「いいえ、ただ……少し、胸が苦しいだけ……」
お嬢様に、ただ安心していただきたくて。
私は目を伏せたまま微笑んだ。
「……大丈夫です。わたくしは、ただ“お嬢様をお守りする者”として、ここにおります」
「……うそつき」
――嘘つき。
そのひと言が私の頭の中でこだまする。
それは決して冷たい響きではなく、でも、深く胸に突き刺さった。
言葉の意味を、私は自分の都合の良いように解釈したくなってしまう。
かろうじて保っている理性を働かせ、再び包帯を巻く手を動かす。
不意に、手元にふっと影が落ちた。
お嬢様の手が、私に向かって伸びている。
彼女は、私に触れようとしているのだ。
視線は落としたまま。
けれど、その手が私に向いているのを痛切に感じる。
嗚呼、もし――。
もし、その指先が私に僅かでも触れたなら。
その瞬間、私はもう、ただの執事ではいられなくなるだろう。
どうか、触れないで――
いや、いっそ―。
瞼をぎゅっと閉じる。
その刹那、ドアの向こうを通り過ぎる足音が聞こえ、私は手放しかけた理性を取り戻す。
彼女の手の気配も、その足音に怯えるように静かに消えた。
あのまま足音が聞こえていなければ、私は一体、どうなっていただろうか。
背筋にすっと、冷たいものが伝った。
お嬢様が負傷されてから数日。
私は、銀のトレイに乗せられた茶器を、ひとつひとつ布で磨いてゆく。
今日の午後、お嬢様の足を手当てした際に使ったカップも含まれている。
唇が触れたその縁を、ほんの少し長く磨いてしまう自分に気づき、指先に力がこもった。
「レイさん、いつも、お嬢様のカップをとても丁寧に磨いてらっしゃいますよね。まるで、カップを慈しんでいるよう」
エマが微笑みながら私に声をかける。
彼女は気が利くし、仕事も丁寧だ。
おそらく近いうちに他の使用人とも打ち解けることだろう。
「ええ。お嬢様のお気に入りですから、一点の曇りさえ、あってはならないのです」
“慈しんでいるよう”と言われたとき、私は僅かに心臓が跳ねるのを感じた。
彼女はカップのことを言ったのに、それが私には違う意味に聞こえたのだ。
事実、私はお嬢様のことを想いながらカップに触れていた。
それを、見透かされたような気がしてならなかった。
「そうだわ。ねえ、レイさん。私まだお嬢様のこと、よく存じ上げないんです。お好きな花や紅茶など、教えていただけませんか? 私、もっとお嬢様のことを知りたいんです」
「ええ、もちろんです」
嬉しかった。
お嬢様はアナが辞めてから随分と気落ちしていらしたから、エマが誠心誠意お仕えすれば、きっと彼女も心を開いてくださるだろう。
そう思ったら、私は自然と笑みが溢れていた。
そのとき――。
「レイ……この前は、ありがとう」
不意にかけられたその声に、私は手を止めた。
ドアの方を向くと、そこにはお嬢様が立っていた。
私はエマとの会話に気を取られ、彼女がドアを開ける音に気づかなかったのだ。
やや俯き加減で、それでもまっすぐな意思を宿した瞳。
「お嬢様……」
名を呼ぼうとして、声が喉に絡まった。
お嬢様は、何かを見たのだ。
その瞳に映ったものが、何であったか。
私には、すぐに分かった。
エマと私。
二人の立ち位置、その距離―
―お嬢様の瞳が僅かに揺らいだ理由は、きっとそれなのだ。
何かを伝えようとしていたように見えた。
けれどそのままお嬢様は、踵を返し、姿を消された。
扉が閉まるまでのほんの数秒。
その間に、私の胸の中に渦巻いた感情は、形容のしようもないものだった。
お嬢様が、何故私のもとを訪れたのか。
「お礼」など、きっと口実に過ぎなかった。
そう思うのは、都合の良い思い上がりなのだろうか。
彼女の瞳が揺れた、その一瞬の真実に、私は――
触れてはならないと分かっていながら、心のどこかで、触れたいと願ってしまった。
茶器を磨く手が止まっていることに、今さら気づく。
握っていた布の中、カップの縁がほんのりと熱を持っていた。
十月十九日。
この日は昼頃から突如雨が降り始め、雨粒が窓を弾く音が静かな邸内に心地よく響いていた。
お嬢様は一日、部屋へ籠り執筆に励んでいらっしゃる。
この雨音が、彼女の創作にやさしく寄り添ってくれますように。
バルコニーの窓に打ちつけるリズミカルなその音に、私はそっと祈りを込めた。
アリサお嬢様は、ご学友とお約束があり、朝からお出かけになっている。
彼女は傘を持っていかれただろうか。
バルコニーの外を眺めていた折、門の外にアリサお嬢様の姿を見る。
やはり、傘を差されていない。
私は急ぎ、傘を持って門へ向かった。
「お迎えにあがりました、アリサお嬢様」
しとどに濡れ、肩を落としながら門を開く彼女に開いた傘を差し出す。
「……別に、頼んでないし」
視線は足元を見つめたまま、僅かに戸惑ったような表情で傘を受け取られた。
いつも張り詰めたようなその声が、今日は少しだけ柔らかい。
「風邪をお召しになります。どうぞ、お身体を冷やされませんように」
アリサお嬢様はふと私の顔を見る。
「あのさ……」
「はい、アリサお嬢様」
彼女は視線を外し、少し口籠もりながら言う。
「あなたっていつも静かで、落ち着いてて……なんか、変な感じ」
「変、でございますか?」
「ううん、なんか……安心するってこと。お兄ちゃんみたい。変かな?」
彼女の笑顔には、照れと何かを誤魔化すような揺らぎがあった。
「いいえ。そのように仰っていただけて、光栄でございます」
最初は、この方を棘のある方だと思った。
けれどその棘は、きっと自分を守るためのもの。
お嬢様にきつく当たられていたのも、きっと仲良くしたい裏返しだったのだろう。
彼女はあのあと、不器用ながらもお嬢様に謝罪され、少し打ち解けたように見受けられる。
傘の露先から覗く口元が照れたように笑っていて。
私にはこの表情こそ、彼女の本来の姿なのだろうと思った。
翌日、アリサお嬢様は風邪をお召しになった。
いつも明るく元気な彼女は、熱のせいか今日はとても控えめだ。
「アリサお嬢様、お薬をお持ちいたしました」
「……ありがと」
「お食事はお召し上がりになれそうですか?」
彼女は薬を一気に飲み干すと、小さく首を振った。
「食べたくないわ」
「……では、温かいスープをお持ちいたします」
「い、いらないってば」
彼女は潤んだ瞳で私を睨みつける。
しかし、私は引き下がらなかった。
それが彼女の本心ではないと、私には分かっていたからだ。
「どうか、ひとくちだけでも良いのです。もし、お嬢様が倒れられたら……皆様がきっと、心配なさります」
彼女は少し驚いたように目を開いて、そして小さく呟いた。
「あなたも……心配する?」
「はい、お嬢様。ですから少しでも……召し上がっていただけますか?」
彼女は黙って頷いた。
その顔が紅潮していたのは、きっと、熱のせいだけではなかったのかもしれない。
いつも背伸びをしている彼女だが、こういったところは年相応の少女に見えて、少し微笑ましかった。




