7 ホウセンカ
ホウセンカの花言葉「わたしに触れないで」
愛してはいけないひとに惹かれてしまった令嬢。その想いを悟られないように、彼女はレイに冷たい態度をとってしまう。互いに傷つきながら、それでも愛には抗えない。
九月五日 日曜日
今日はレイに酷い態度をとってしまいました。
あのダンスの夜から、私は彼と言葉を交わすことさえ、
今は叶いません。
自分の気持ちに気づいてしまった私は、
もう何も知らなかったあの頃には戻れない。
彼を見るたび、声を聞くたび、気配を感じるたび、
私はこの気持ちを抑えるのに必死で。
目を見ることも、近づくことも叶わない。
けれどやはり、遠くから貴方を見つめてしまう。
その姿を眺めているだけで、私はこんなにも幸福だから。
貴方は執事。お父様に雇われた、忠実な私の執事。
でも私はそんな貴方を、ただの執事としては見れないのです。
だからどうか―そんなに優しく、しないでほしい。
いつもより少し早く目覚めた今日の朝は、曇り空とは反対に、なんだか清々しい。
このあとレイが朝の挨拶にきて、いつものように紅茶を淹れてくれるだろう。
彼の淹れる紅茶は、今まで飲んだどのお茶よりも美味しい。
でも――。
私は部屋を出て、洗濯物の確認をしているアナのもとへ向かう。
「おはよう、アナ」
「おはようございます、お嬢様。今日はお早いんですね」
アナと仲直りしてから、彼女はすれ違うたびに話しかけてくれるようになった。
あのとき勇気をだして、よかった。
「アナ、申し訳ないのだけど、朝の紅茶をお願いできますか?」
アナは一瞬キョトンとした顔で立ち尽くし、けれどすぐに笑顔で答えた。
「かしこまりました。では、レイさんに伝えますね」
「いいえ、アナ。貴女に淹れてほしいの」
「……かしこまりました。すぐにお部屋へお持ちいたします」
アナは不思議そうな顔で私を見つめた。
それもそのはず。
レイがこの家に来てからというもの、彼以外が私のために紅茶を淹れることなど、一度としてなかったのだから。
やがてアナが紅茶を運んできた。
「お嬢様、ダージリンでございます」
「ありがとう、アナ。……あら?」
ソーサーの上に可愛らしいピンクのコスモスが一輪、そっとカップに寄り添っていた。
「お嬢様のご気分を少しでも華やかにできたらと思いまして」
彼女は花のように清らかに微笑んで、部屋を去った。
ダージリンをひとくち、口に含む。
美味しかった。でも――。
「……ちがう」
同じ茶葉。
なのに、香りも、色も、風味も、まるで別のものだった。
彼の淹れる紅茶が恋しい。
でも、それを飲める日はもう、来ないのかもしれない。
私が自分の意思でアナに頼んだ。
なのに。何故か、どうしようもなく悲しくなった。
「本当に……自分勝手ね」
カップの中に映る自分に言い放つ。
午前七時。
ノックの音に続いて、ドアの開く音が聞こえる。
「おはようございます、お嬢様。昨晩はよくお休みになれましたか?」
「……おはよう、レイ」
ああ――この柔らかな声が好き。
美しく揃えられた指先が好き。
でも、顔を見ることはできない。
この顔を彼にまっすぐ見つめられたなら、きっと私の気持ちに気づいてしまう。
「……本日の、ご予定は……」
いつも流れるような口調の彼の声が、どうしてか揺れている。
気になって少しだけ見てみると、彼の視線はアナの淹れた紅茶に向けられていた。
「……この紅茶は、アナにお願いしたの」
私は視線を逸らす。
申し訳ない気持ちと、追及されたらどうしようという焦りが交じり合い、私に絡みつく。
「……かしこまりました。本日、お嬢様はご執筆をなさいますか? お昼前に、ケント様からお手紙が届く予定でございます。お応えのご用意があれば、代筆も承ります」
アナに頼んだ理由を、彼は聞かなかった。
これで本当に、もう彼の紅茶は飲めなくなるのだ。
そう思うと、少し泣きたくなった。
「返事は自分で書くわ。それと、今日は一日執筆をするので、用がなければ部屋へは来ないでください。午後のお茶も……結構ですから」
こんな態度をとるはずではなかった。
普通に話がしたかった。
でも、私の気持ちを知ってしまったら、優しい彼はきっと苦しむ。
「かしこまりました」
それだけ言って、彼は部屋を出た。
いつものように冷静な彼。
でもその声は――どこか重く、私の胸にのしかかった。
午後八時。
夕食を終えた母とアリサが食堂を出ても、私はひとり、席を立てずにいた。
頭痛がする。
ずっと、考えていた。
これから彼とどう接すればいいのか。
でも、答えは見つからなかった。
考えていたら、酷く頭が痛んだ。
私はこめかみを押さえ、テーブルに伏せる。
足音が、そっと私に近づいてくる。
――彼の足音。
私の前でその足音は止まった。
「お嬢様……ご気分が優れぬようにお見受けします。どうか、お部屋までお戻りくださいませ。わたくしがご案内いたします」
その言葉と同時に、彼の手が私の指先に触れる。
私は思わず、その手を振り払った。
「さ、触らないで!」
――私は、最低だ。
彼は体調の悪い私を心配しただけなのに、その手を拒絶してしまった。
声を、荒げてしまった。
「あ……ごめ……」
「失礼いたしました」
彼は頭を下げる。
彼を傷つけてしまった。
私は、どうしたら良かったのだろう。
この気持ちを知られても、彼を突き放しても、どちらにしても彼を傷つける。
私は、どうすれば――。
頭の中で、血管が暴れている。
割れるように痛い。
涙が、私の気持ちを無視して溢れ出る。
私は乱暴に立ち上がり、そのまま椅子を戻すことすらせずに部屋へ走った。
原稿用紙に向かい合う。
でも、筆が進まない。
言葉が何も、浮かんでこなかった。
何か考えようとすると、どうしても彼の顔が浮かんでしまう。
私が彼を跳ねのけたときの、あの表情。驚きと、その直後の沈痛な顔。
私が、そうさせてしまった――。
私はペンを置き、外へ出る。
暗い庭。
仄かにガーデンライトに照らされた、あのガゼボ。
あの夜も、私はこうしてひとり、泣いていた。
そこへレイが来て、私の手を取ってくれた。
あの時にはもう、彼の事を想っていたのだろうか。
ステラが足元にすり寄ってくる。
これも、あのときと同じ。
私はそっとステラを抱き寄せる。
「ねえ、ステラ。私はどうしたら良いと思う? 彼を傷つけたくないのに、私はどうしても冷たくしてしまう。そうしないと、この想いがあの人に向かって走ってしまうから」
ステラは答えない。
ただ黙って、私の胸に頭を擦り付けている。
あの日、あのとき。こうしてステラを抱いていたら彼は現れた。
だから今日も、もしかしたら――。
「ステラ。私、決めたわ。彼がもしここへ来たら、私は自分の想いを伝える。そうすればきっと、彼を悩ませてしまう。でも、冷たい態度をとることはなくなるわ」
ステラは返事をするように、腕の中で小さく鳴いた。
私が悩んでいるときにはいつも、必ず彼が来てくれた。
だからきっと、今日も来てくれるはず。
来たら伝える。
来なければ伝えない。
自分でそう決めたものの、心のどこかでは、私は彼が来てくれることを望んでいるのだ。
生暖かい風が肌を撫でる。
あれから、どのくらいの時間が経っただろう。
不意に、ステラが腕の中からすり抜けてゆく。
私は、これと同じ状況を知っている。
あの日も、レイの気配でステラはこの腕からいなくなった。
私は振り返った。
まずは、さっきの事を謝ろう。
そして、どうしてあんな態度をとってしまったのか話そう。
ダンスの夜に自覚した、自分の気持ちを伝えよう――。
けれど、そこに彼の姿はなかった。
私は膝から崩れ落ちる。
土に膝をつき、額まで落とし、声を出して泣いた。
暫くの間、私は泣き続けた。
次第に涙は止まり、それと同時に、私の感情の波も収まったような気がした。
泣き止んだあとは、ただひたすらに静寂だ。
夜の庭も、私の心も、何の音もしない。
彼の事はまだ好きなままだ。
でも、彼のことを思い浮かべても、不思議と感情が凪いでいる。
今なら、彼の目を見て話せる気がした。
会って、謝ってしまおう。
そしてもう、あんな態度はとらないから、また紅茶を淹れて欲しいとお願いしよう。
立ち上がり、土を払う。
ガゼボを出ようとしたとこで、私は息をのんだ。
入口に、小さなキャンドルランタンが置かれていた。
ガラスの中で、静かに火が揺らめいている。
「どう、して……」
私がガゼボに来たときにはなかった。
あの夜、彼が手にしていたものと、同じ――。
彼は私に気づいて、声を掛けずにランタンだけ置いていったというの――?
いつ。
彼はいつ、ここへ来たのだろう。
ステラを抱いているとき。
それとも、声を出して泣いているとき。
もしあれを見られていたとしたら――。
怖くて、恥ずかしくて、消えてしまいたくなった。
それでも何とか自分を奮い立たせ、ガゼボを出る。
口実ができた。
このランタンを彼に返しに行って、そして謝ろう。
彼は怒っているだろうか。
私を、許してくれるだろうか。
ランタンのハンドルを握りしめる。
淡い火が、私の行く先を優しく照らす。
執務室の前で一度、深呼吸をする。
そっとノックをし、短い返事を確認してから、私はゆっくりとドアを開けた。
私に気づいたレイは書き物をしていた手を止め、静かに立ち上がる。
「レイ……あのね。あのときは、自分でもどうかしていたの。本当に、ごめんなさい。貴方を傷つけるつもりなんて、なかったのに」
声が震える。
彼の返答が怖くて、私は目を伏せた。
「……謝られるようなことでは、ございません。あの時のお嬢様も、またお嬢様でございますから」
彼の声は優しかった。
いつものように、やさしく凪いだ声。
「あの、これ……」
キャンドルランタンを差し出す。
これを、いつ――とは、聞けなかった。
レイはそれを両手でそっと受け取ると、優しく微笑んだ。
「レイ、あのね」
彼の目をまっすぐに見つめる。
その夜の湖のような瞳に、「好き」を再確認するように。
「また……貴方の紅茶が飲みたいの。お願い、できますか?」
「……かしこまりました。では、いつもと同じように……心を込めて、お淹れいたします」
――好きだ。
このあたたかな声が好き。
その優しい眼差しが好き。
すべてを溶かしてしまうような、その微笑みが、好き。
たくさんの「好き」を抱きしめたまま、私は部屋を後にする。
階段を上がり部屋へ向かう途中、母が私を呼び止めた。
母から私に話しかけてくるなんて、珍しい。
「ちょっとあなた。こんな時間に執務室へ、何の用があって行ったの?」
険しい目。
蛇のように鋭い視線が私を刺す。
「庭へ出たときに……レイに借りていたランタンを返しに行きました」
「そう。それなら良いけどね」
母の視線は上から下へ、私をじろりと見つめる。
「いくら執務室とはいえ、あまり夜に男性の部屋へ入るのは感心しませんよ。それに……あなた、いつもレイを目で追っているようだけれど。まさか、彼に恋している……なんてことはないわよね?」
心臓が、嫌な音を立てる。
冷たい汗がひとすじ、首を伝った。
私は平静を装って笑顔を見せる。
「いいえ。ただ……彼の所作が美しいので、後学のために見ていました」
少し、苦しい言い訳だったかもしれない。
でも半分は本当だ。
彼の所作は完璧すぎるほどに美しい。
私も、ああなりたいと何度も思った。
母は納得していないという表情で、でも、それ以上の追及はしなかった。
ただ、ひとこと――。
「分かっているとは思うけど、彼は執事よ。それはこの先も変わらない。一生ね」
「ええ、分かっています。おやすみなさい、お母様」
分かっています。
分かってる。
でも――。
それでも、この気持ちには抗えない。
それ以上を望んでいるわけじゃない。
ただ、好きでいたいだけ。
それなら、いいでしょう?
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も唱える。
けれど、やはり心の奥底のどこかでは、「もしかしたら」を望んでいた自分がいるのかもしれない。
母の言葉を聞いて、私は改めて彼との間に深い、深い溝があるのだと思い知った。
九月五日(日) 曇り
近頃、お嬢様が私と目を合わせようとなさらない。
問いかけにも、短く言葉を返されるのみ。
あの舞踏の夜から、私は己の自制が
いずれ利かなくなるのではと、ひそかに畏れている。
執事として、決して越えてはならぬ一線がある。
けれど、その想いが心に生じてからというもの、
私は何度も自戒の術を見失いそうになる。
今まで当然のように保ち続けてきた距離が、
こうも容易く揺らぐとは。
今こそ、より一層の用心が要る。
お嬢様をお守りするために――
私は、誰よりも堅実でなければならない。
午前七時。
お嬢様のお部屋へ、朝のご挨拶に伺う。
「……おはよう、レイ」
視線をこちらへ向けてくださる。
けれど、やはり目は合わされない。
「……本日の」
言いかけて、私は言葉を見失った。
テーブルの上には、私の淹れたものではない紅茶。
「ご予定は……」
平静を保とうとするが、声が続かなかった。
ポットも、カップも、香りさえも――いつものダージリンとは異なる。
「この紅茶は、アナにお願いしたの」
静かに告げられたそのひとことが、胸の奥深くに突き刺さる。
お嬢様の朝に、私の紅茶がない。
その事実が、これほどまでに痛みを伴うとは思っていなかった。
きっと些細なこと。きっと偶然。
そう思おうとしたが、目を合わせてくださらないその様子が、偶然などではないと告げているようだった。
「……かしこまりました」
理由を問うことなど、私には許されない。
ただ、お嬢様の望まれるままに。
朝食を終え、私は配膳室にて茶器を磨いた。
もう、お嬢様のために紅茶をお淹れすることは叶わないかもしれない。
それでも――せめて、彼女の唇に触れるこのカップだけは、私の手で整えておきたかった。
お嬢様を想いながら淹れる紅茶。
その香りに包まれて微笑まれる、その一瞬が、私にとってどれほど幸福であったか。
何度も磨いたはずのカップが、なぜか霞んで見えた。
手にした布を強く握りしめても、その曇りは、晴れなかった。
午後八時。
食事がお済みになり、奥様とアリサお嬢様が退室される。
ただおひとり、お嬢様だけがその場を動かれなかった。
私は食堂を片付けながら暫く様子を窺っていたが、彼女がこめかみを押さえて伏せられた瞬間、私はその手を止めた。
お声がけをし、お立ちになる補助をしようと手を伸ばす。
その指先が彼女の手に触れた瞬間、私の手は振り払われた。
「触らないで!」
行き場をなくした右手が宙を彷徨う。
あの夜、重ね合った手は熱を帯び、互いの体温が溶けだした。
その手が今は――こんなにも、遠い。
「失礼いたしました」
すぐに姿勢を正し、深く一礼した。
お嬢様は飛び上がるように席をお立ちになり、そのまま私に目を向けることなく食堂を出られた。
彼女の気配が残る椅子の背に、私はそっと指を滑らせた。
午後八時四十五分。
お嬢様がひとり、玄関を出て行かれる。
きっとガゼボへ向かわれたのだろう。
敷地内とはいえ、暗い庭におひとりで行かれるのは気がかりだ。
私はキャンドルランタンを片手に庭へ出る。
いつかの夜も、こんな風に庭を歩いた。
あのときは門の施錠に向かう途中で、ガゼボに佇むお嬢様をお見掛けした。
今は、同じ道を彼女のために歩く。
仄暗いガゼボの真ん中。
彼女は、今日もステラを抱いて静かに佇んでいる。
その小さな背中が痛ましくて、つい手を伸ばしかける。
伸ばしかけて、でも、そのまま宙を滑り落ちる。
このまま手を伸ばしたら、抱きしめてしまいそうで。
拳を強く、握りしめた。
声を掛けようとした。
けれど、これ以上踏み込んだら彼女の心が壊れてしまいそうで、そっと、後ずさる。
「ここにおります」とは、もう言えない。
でも“独りではない”と知らせるために、私はランタンを足元に置いた。
この灯りが、彼女の心をも照らしてくれますように。
そっとその場を離れ、でも、少し離れたところから彼女を見つめる。
つい先ほどまで私が立っていたそこを、彼女が振り返る。
その刹那、彼女はその場に頽れた。
微かに、彼女の泣く声が聞こえる。
いつも、貴女は声を殺して静かに涙を流していた。
その姿は強くて、でも脆さも孕んでいて、美しかった。
その貴女がいま、声をあげることを恐れずに泣いている。
それはとても痛々しく、そして――愛おしい。
今すぐに彼女のもとへ駆け寄って、その涙を受け止めて差し上げたい。
優しく肩を抱き、「大丈夫」と言って差し上げたい。
それが叶うなら、どんなに楽だろうか。
喉まで出かかった感情を飲み下し、私は屋敷へ戻った。
執務室にて事務作業を行うさなか、ドアを叩く音が聞こえる。
控えめで、少し緊張の色を含んだ音。
部屋へ入ってきた彼女の目は赤く、震える睫毛はまだ少し濡れていた。
「本当に、ごめんなさい」
揺れる声、俯く視線、きゅっと結ばれた指先。
彼女がどれほどの勇気を携えてその言葉を口にしたのか、私には痛いほど伝わってきた。
「……謝られるようなことでは、ございません」
謝らなければいけないのは私だ。
きっとあの夜、あの夢の空間で、私があまりにも貴女に、近づきすぎてしまったから。
感情を律してきたはずだった。
しかし、たった一度。
私は夢のせいにして、その境界線を越えてしまった。
それが貴女を苦しめているのだとしたら、私のしたことは――。
「また……貴方の紅茶が飲みたいの」
彼女の濡れた瞳が、まっすぐに私を見つめる。
そのひとことが、まるで救いの光のようにあたたかく沁みた。
「……かしこまりました。では、いつもと同じように……心を込めて、お淹れいたします」
また、貴女のために紅茶を淹れることを許された。
私は熱く滲む目頭をそっと押さえる。
今度こそ、間違えてはいけない。
堅実に、忠実に。
私は執事として、彼女の影であり続けなければいけない。
彼女への想いはこの胸に、大切にしまっておこう。
私は誰もいなくなったドアに向かって深く、頭を垂れた。
九月二十日。午後九時五十分。
事務作業を終え、邸内の施錠確認に移ろうと席を立ったところで誰かがドアをノックする。
「どうぞ」
控えめに開いたドアの隙間から、私服に着替えたアナが顔をのぞかせる。
彼女の勤務時間はとうに過ぎた。
一時間ほど前に終業の挨拶にも来ていた。
その彼女が何故、この時間まで残っているのだろう。
「アナ。どうかしましたか?」
「あの……レイさん」
彼女はドアを閉め私の前へ歩み寄ると、声を潜めて言った。
「私、今月いっぱいで辞めたいんです。急で、申し訳ないんですけど……」
彼女はばつが悪そうに俯いた。
「今月……それはまた、急ですね。理由を伺っても?」
残された日数を思えば、すぐにでも動かねばならない。
紹介所、面接、引継ぎ――。
頭の中で、必要な段取りを静かに並べた。
通常、退職はひと月前までには申し出るように言ってある。
けれど、月末まではあと十日。
真面目な彼女にしては珍しい。
「すみません。理由は……どうしても、言えないんです。どうか、何も聞かずに了承していただけませんか?」
彼女は何かに苦しんでいるような、痛ましげな表情を浮かべている。
これが、いい加減な気持ちでないことは理解できた。
「分かりました。では、旦那様へはわたくしから報告いたします。それから、お嬢様へは……」
「お嬢様には……言わないでください。私が辞めること、どうか黙っていてください」
彼女は今にも泣きそうな顔で懇願する。
私はその言葉に、ただ黙って頷いた。




