6 クロユリ
クロユリの花言葉「恋、呪い、妖艶」
執事と令嬢。互いに想いを伝えあうことも、触れ合うことも許されぬ関係。けれどダンスの瞬間、二人の距離は一気に縮まった。それはひとときの夢。けれど、永遠にも感じられた。ワルツとタンゴが織りなす、愛と葛藤の夜が始まる。
八月十三日 金曜日
今日から母とアリサは数日間、旅行のため留守になります。
ケントさんの誕生日パーティーは明日。
私はそのパーティーに出席するので、旅行を断りました。
旅行中は不在の人数に合わせ、家の中も最小限の体制に。
そう言って、母はレイに休暇を与えました。
レイは住み込みなので夜には帰ってきますが、
日中は私とアナの二人だけ。
―私は、あのことを誰にも話しませんでした。
もう、諦めたくなかった。
アナと、もう一度向き合ってみたい。そう思ったから。
そして今日。この日は私にとって、生涯忘れることのない
大切な日になるでしょう。
母とアリサは朝早くに出発した。
それを見届けて、レイは休暇に入る。
今日は一日、どこかへ出かけると言っていた。
彼の生活はまったく想像できない。
――でも、知りたいと思ってしまった。
何が好きなのか、どんな所へ行くのか、何を食べるのか。
私は彼のことを、何も知らないのだ。
部屋に戻る途中、掃除をしていたアナと鉢合わせる。先月の事があって、顔を合わせるのが少し怖かった。
でも、彼女と打ち解けたい。仲良くなりたい。
そう思って、勇気を振り絞る。
「アナ……ご苦労様。しばらく家には私しかいないから、少し力を抜いてくださいね」
目を見て話すのは、まだ無理だった。
それでも、声をかけた。
私はそれだけ伝えると、彼女の横を通り過ぎる。
「ま、待って」
背後からアナが私を呼び止める。
振り返ると、アナの視線は気まずそうに左右に泳いだ。
「どうして……どうして私の事、誰にも言わなかったんですか? 言えば、私をクビにできたのに」
一瞬、私は考えた。
今までの私なら、きっと逃げ出していた。
でも、もう後悔するのは嫌だから。
そのことに、彼が気づかせてくれたから――。
「私、貴女とお友達になりたいの。自分のダメなところは、少しずつだけど、ちゃんと直すわ。貴女も本音を言ってくれていいの……この間のように。だから、私と……お友達に、なってくれませんか?」
初めてかもしれない。
大人になって、私は初めてこの台詞を言った。
今まで何度も言おうとして、言えなかった言葉。
それを言うのはとても――勇気がいる。
断られたらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
呼吸が乱れる。
「お嬢様……私、あんなこと言ったのに。なのに、許してくださるんですか? ……でもお嬢様。私はメイドです。これからは誠心誠意、お嬢様にお仕えします。ですから、お友達にはなれません」
心臓が、大きく揺れた。また、失敗した。
俯く私を見て、アナはくすりと笑う。
「でも、お嬢様。メイドではなく、ただのアナとしてなら……私たち、きっとお友達になれますわ。なので私からもお願いします。お嬢様。私と、お友達になっていただけますか?」
顔を上げる。アナは――太陽のように、明るく笑っていた。
一日中レイがいないというのは、少し変な感じがする。
いくら原稿を書き進めても、食事やお茶を知らせるノックの音は聞こえてこない。
数カ月前までは、彼がいないことが当たり前だった。
でも今は、彼がいないと少し――調子が狂う。
それほどに私は、執事の存在に甘えてしまっているということなのだろうか。
まるで、乳離れできない幼子のようだ。
ふっ、とひとつ、笑みが零れた。
私はペンを置き、立ち上がる。
明日のパーティーに着ていくドレスを用意しなければと思い立ち、部屋の隣にあるクローゼットへ向かう。
私はほとんど家に籠りきり。
だから、ここにあるのはほとんど母とアリサのドレスだ。
隅のほうに数着、まだ数回しか袖を通していない私のドレス。
アイスブルー、ローズグレージュ、ミッドナイトブルー。
誰に見せるわけでもないのに、何故こんなにも胸が高鳴るのだろう。
少し躊躇って、私はミッドナイトブルーのドレスを手に取った。
オフショルダーに胸元のジュエルが美しい、ティアードドレス。
真夜中を映し出すその色が、私にはとても魅力的だった。
髪飾りには、月の涙のようなクリスタルのリーフを。
鏡の前でドレスを当ててみる。
数年ぶりのダンス。
足は覚えていても、心がついてこられるだろうか。
やはり、練習しておけばよかった。
クローゼットを出たところで階段を上がってきた男性と鉢合わせになり、私は驚きのあまり声をあげそうになる。
一瞬、誰だか分からなかった。
彼はいつも洗練された黒のタキシードに身を包み、微かに紅茶の香りを纏っていたから。
「レイ……びっくりしたわ。貴方は普段、香りを身につけないから」
目の前でほのかに揺れる、深く穏やかなサンダルウッド。
その奥に、ベルガモットの清々しさがひと雫。
それはまるで、早朝の森を駆け抜ける風。
どこまでも落ち着いていて、それでいて心を掻き立てる。
鼻腔を掠めたその一瞬で、胸の奥が高鳴った。
鼓動が香りに追いつけず、思わず手を胸に当てる。
「休日の、貴方の香りも……好きです」
そう言えたなら、どんなに楽だろう。
けれどその言葉は、喉の奥に絡めとられたまま、形にならなかった。
「お嬢様……このような格好で、失礼いたしました」
失礼なんて、そんな言葉では到底表せない。
見惚れて、息をするのも忘れていた。
ダークグレーのシャツに、ベストを重ねた控えめな装い。
それでもボタンの留め方、袖口の処理、立ち姿のひとつに至るまで、隙がない。
まるでその身体に「美しさ」が染み込んでいるかのようで、私は思わず目を逸らした。
「いいのよ。今日はお休みなのだから……」
「ありがとうございます。わたくしは自室におりますので、ご用の際はいつでも仰ってください」
気づいたら、一礼して去る彼の背中に叫んでいた。
「あの、レイ……!」
鼓動は収まるどころか、次第に速く、そして強くなって胸を打ちつける。
振り返ったレイの顔を、見ることはできなかった。
「レイ……ひとつ、お願いがあるの」
「はい、お嬢様。どのようなご願いでしょう」
手にしたドレスを握りしめる。
その手の震えを鎮めるように、深く息を吸って、ゆっくりと吐く。
「ケントさんの誕生日に出席するの。だから、少しだけ……ダンスの練習を、付き合ってほしいの」
「……かしこまりました、お嬢様」
鼓動が容赦なく襲いかかってきて、このまま身体がばらばらになってしまうのではないかと思った。
午後九時。
静まり返ったサロンの前で立ち尽くす。
ドアの隙間から漏れる明かり。
中に、もう彼がいる―そう思うと、ドアに添えた手がその先へ進まない。
ミッドナイトブルーのドレスに身を包み、髪飾りをつけ、私は本番と同じ装いでこの場へ来た。
この姿を見て、彼はどう思うのかしら。
覚悟を決めて、そっとドアを開く。
ピアノの横にしっとりと佇む後ろ姿。
私は息をのんだ。
普段はタキシードを着ているレイが、深い漆黒のテールコートを身に纏っている。
ほどよくフィットした肩口、ぴんと伸びた背筋。
そのシルエットがあまりに美しくて、まるでお伽噺にでてくる王子様のようだった。
彼はゆっくり振り返る。
純白のベストに並んだパールボタンが、シャンデリアの光を受けてそっと輝きを放つ。
全身がこちらへ向き直る。
踵を揃えた瞬間、エナメルのオペラパンプスが軽く音を立てた。
「まるで、夜の空に舞い降りた星のようでございます」
先に口を開いたのはレイだった。
いつもより、微かに柔らかくあたたかい声。
耳が、少しくすぐったい。
この夢のような空間でなら、私は少し、素直になれるような気がした。
「貴方は、まるで星空を統べるアストライオスのようだわ」
ほんの僅かな間のあと、レイは星の光を宿したその瞳をやさしく細める。
「では今宵、星々の軌道はすべて、お嬢様のために」
まっすぐに差し出された純白の手袋が眩しくて、私は一瞬、その手を取るのを躊躇った。
静かに始まるワルツの調べ――ショパン、華麗なる大円舞曲。
流れるようなピアノに背中を押され、私はその手を取る。
その瞬間、私の世界は、音もなく色を変えた。
一歩。二歩。
くるりと回転するたびに、空気が、光が、私を抱きしめてゆく。
ドレスの裾が波のように揺れ、レイの手はまるで水面に浮かぶ月。
優しく、でも決して離れない。
ひとつのステップに、ふたつの心が重なって。
音楽に乗せて告げられるのは、言葉にならない祈りのようなもの。
手袋越しのレイの手。
それは静謐で、けれど確かにぬくもりを帯びていた。
ほんの少し指先に力がこもると、それだけで心臓が跳ねる。
そして視線が交わったその瞬間、私は気づいてしまった。
私はレイに
――恋をしている。
気づいてしまった途端に、彼と出会ってからの光景が走馬灯のように駆け巡る。
私は一体、いつから彼を意識していたのだろう。
彼は、そのことに気づいていないだろうか。
足が縺れそうになる。
彼に気づかれてはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
せっかく築いたこの関係を、壊してはいけない。
恥ずかしさと恐れが交じり合って、足が地を蹴っている感覚がなくなってゆく。
ワルツが終わっても、心はまだ浮遊したままで。
怖くなって、私は窓辺へ駆け寄った。
二日月を過ぎた空に、まだ確かに幼い月がひとつ、人知れず、夜の端に息づいていた。
その淡い光は、触れれば消えてしまいそうなほど儚く、少しばかり、不安がよぎる。
十三日の金曜日。月。
「今日は……少し、胸騒ぎがします」
なんでもない日だと思っていた。
けれど、あのワルツは“何かの始まり”だったのかもしれない。
破滅への軌跡――。
それでも構わない。
それでも、いっそこの夜が、終わらなければいい。
レイの足音が私に向かって近づいてくる。
心地の良い、規則正しいリズム。
「踊っている間は、きっとその胸騒ぎも鎮まることでしょう。さあ……次のダンスを」
窓越しのレイの瞳が、妖しく光ったような気がした。
「失礼して、手袋を外させていただきます」
彼の、手袋を外すその細かな所作が美しい。
外された白手袋がピアノ椅子の上にそっと置かれ、初めて見る彼の指先から手首までが、まっすぐに私へ向けられる。
息苦しいほどの沈黙のなか、そっとその手に自分の手を重ねた。
――あたたかい。
ほんの僅かな接触が、炎のように全身を駆け上がる。
この鼓動が、貴方にまで聞こえてしまったらどうしよう。
そう思ったとき、もうすでに、私は逃げ場を失っていた。
静寂を食い破るように始まったタンゴのリズム。
私はこれから、どうなってしまうのだろう。
このタンゴは、私を戻れない場所へと連れてゆく。
けれどもう、怖がっている暇はなかった。
貴方の手が、私の心を攫って離さないから――。
八月十三日(金) 晴れ
本日より、奥様とアリサお嬢様が数日間ご不在となる。
私はその間、休暇を頂戴した。
久方ぶりの、屋敷の外で過ごす一日。
やりたいことは幾つもあったはずなのに、どれも心に響かず。
過ぎる時間だけが妙に味気なかった。
――休日が、これほどまでに空虚なものだったとは。
予定より少し早く、屋敷へ戻る。
その夜、私はお嬢様の
ダンスの練習相手を務めることになった。
彼女にとっては“練習”でも、私にとっては――。
煌めく夜空そのもののようなお姿が、
いまも目の裏に焼き付き、離れない。
左から右へ。
なめした皮の背表紙の並びを指でなぞる。
ふと指が止まった、赤味がかった茶色の本。
それを手に取り、そっと表紙を開く。
古い、異国の詩集。
綴られていたのは、愛を語る言葉の数々。
私には少し、甘すぎる。
本を閉じ、棚へ戻す。
老舗の洋書店。
休日、私はよくこの店を訪れる。
羊皮紙とインクの混ざり合った匂い。
一面本に囲まれたこの空間が、私の心を落ち着かせる。
あの古い童話集もこの店で求めたものだ。
いつもなら、詩集や小説を手に取っていただろう。
しかし、どうしてもその童話集が気になって仕方がなかった。
童話を目にすると――彼女の顔が、脳裏をよぎる。
好きなはずのこの静かな空間も、今日は妙に落ち着かない。
私は何も買い求めることなく店を出た。
レコードショップ、アンティークショップ、ミュージアム。
どれも、いつものような輝きを放ってはいなかった。
――いや、くすんでいるのは私の瞳だ。
この目に紗が一枚掛かったように、見えるもの全ての色彩が薄れている。
休日のはずなのに、何故か身体が重い。
シルバーの懐中時計に目をやる。
午後五時。
まだ陽は残っていたが、心がもう、宵闇のなかにいた。
屋敷へ戻り、自室へ向かう途中で、お嬢様がクローゼットから出てこられた。
深い、夜色のドレスを抱えている。
確か明日はケント様の誕生日。
これはそのためのドレスなのだろう。
何かがちくりと、胸に刺さったような感覚。
――心のなかで望むだけなら、許されるだろうか。
そのドレスに包まれた貴女の姿を、この目で見てみたい。
その姿を見るのが自分だけであればいい。
こう思ってしまうことが既に、罪なのだろうか。
貴女に会えない今日という日が空虚だった。
しかし、こうして目の前にいても、胸が苦しい。
私はそのドレスから目を逸らすように背を向けた。
後ろから、お嬢様が私を呼び止める。
「少しだけ……ダンスの練習を、付き合ってほしいの」
心臓が、軋む音がした。
先ほどの心の声が、口から出てしまっていたのではないかと疑った。
鼓動が、変拍子の主旋律を奏でる。
「……かしこまりました、お嬢様」
やっと絞り出したその声が、どこか遠くに聞こえた。
午後八時五十分。
約束の時間より少し早くサロンへ向かう。
部屋を出る前、鏡で何度も確認した。
けれどまた、窓に映る自分の姿を見てしまう。
ジャケットに皺はないだろうか。
白シャツに汚れはないだろうか。
カフスは、蝶ネクタイは、パンツのサイドシームは――。
静寂のサロンに、自分の心音が響いているようだ。
ふと、空気の流れが変わる。
そこにお嬢様の気配を感じながら、私はゆっくりと振り返った。
真夜中の空を纏った彼女の胸に、一等星の輝きを放つジュエル。
普段は布に覆われている肩のラインが、オフショルダーのドレスからひっそりと覗いている。
透き通る肌。
まるで――。
「まるで、夜の空に舞い降りた星のようでございます」
心の奥から漏れ出たその言葉は、自分でも驚くほどに感情が滲んでいた。
いつもの彼女なら、頬を赤く染め、目を伏せていただろう。
しかし、いま目の前にいる貴女は、まっすぐに私を捉えて微笑んでいる。
その瞳に、私は射貫かれそうになる。
「貴方は、まるで星空を統べるアストライオスのようだわ」
貴方が星で、私はその星を動かす神。
嗚呼――そのような恐れ多い考えを持つ自分が呪わしい。
けれど、いま、この瞬間だけ。
貴女の手を取り舞っている間だけは、私は星を導くことができる。
その儚くて清らかな星を壊してしまわないよう、慎重に手を差し出す。
そこへ貴女の手が重なった瞬間、私の身体は重力を取り払ったように軽く、自由になる。
軽やかに流れるワルツ。
まるで星の軌道をなぞるように。そっと手を取り、緩やかに回りながら、瞼を閉じれば、そこは月光に照らされた静かな舞踏会。
彼女のスカートが揺れるたびに星屑が舞う。
髪を飾るクリスタルのリーフが視界を掠めるたび、それが貴女の涙のように光る。
込み上げてくる、甘くも苦い感情。
これは――この世で最も艶やかで、この世で最も危うく、この世で最も甘美な、背徳のワルツ。
ワルツの優雅な旋律が終わり、場に漂う緊張が静かに解ける。
窓辺で貴女は、今にも消えそうな細月を見上げて囁く。
「今日は……少し、胸騒ぎがします」
このまま貴女までもが音もなく消えてしまいそうで、何か音を求めて私は蓄音機にレコードをセットする。
「失礼して、手袋を外させていただきます」
私の手は、ただ執事のそれであるべきだ。
けれど――今夜だけは貴女の手を、この指先で感じてしまいたい。
貴女が夜の闇に消えないように、しっかりと掴んでいたい。
タンゴのリズムが息を潜めて始まる。
――リベルタンゴ。
この旋律は、理性の檻を焼き切る焔。
躍動するバンドネオンの音色が「自由」の名を囁く。
体の奥底に眠っていた原初の衝動を呼び覚ますような、タイトに張りつめたリズム。
時に激しく、時に哀しく胸を締め付ける旋律。
理性と衝動の境界線でこの曲が、私の「本性」を暴き出す。
不意に交わる視線。
その視線は、まるで深紅の葡萄酒。
ひとくちで酔い、一滴で堕ちる、甘く、鋭く、魂を焦がす夜の酒。
眼差しひとつで心を撃ち抜き、吐息ひとつですべてを許してしまう。
そんな危うい距離で交わされる、言葉なき会話。
互いの心音が交差するその刹那――。
情熱のリズムに任せて、一歩、また一歩と、堕ちてゆく。
貪るように、拒むように。
そして、どうしようもなく惹かれ合う。
お嬢様は――久しぶりのダンスだと仰っていた彼女は、しっかりとこのリズムについてきている。
それどころか、少しの余裕さえ感じさせる笑みを浮かべて私を煽る。
情熱が理性を焼き尽くし、残るのは、ただひとつ。
お嬢様という存在への、絶対的な渇望。
リズムが終息へと向かうなか、彼女の体温が腕を通して微かに震えた。
嗚呼、このダンスが永遠に続けばいい。
けれど、音楽はやがて終わる。
夢から醒めるように、静寂が訪れる。
私は、まだ手を離したくはなかった。
言葉にならない想いをワルツが奏で、タンゴがそれを奪い去ってゆく――。
「レイ。貴方は……どの季節が、一番切ないと思いますか?」
タンゴの余韻が震えるサロンで、お嬢様はどこか悲しげな顔をしていた。
シャンデリアの光が、髪飾りに跳ねる。
「わたくしは……秋の終わりだと存じます」
夢のときは終わったのだ。
彼女の問いが、そう言っているように感じた。
私は、まだ熱を帯びている手に手袋をはめる。
「何故、そう思うの?」
激しい、情熱のリズム。
お嬢様の肩は、まだそのリズムを刻んでいるかのように上下している。
もの悲しげに、名残惜しそうに、先ほどまで舞っていたフロアを眺める彼女。
その瞳を、私はそっと見つめた。
「……色づいた葉が一斉に風にさらわれてゆく時、わたくしは何故か、誰かの記憶を失ってゆくような気がするのです」
晩秋。
色づく葉は、まるで誰かの温もり。
言葉。
微笑み。
それが音もなく舞い、風にさらわれて消えてゆく。
「美しさが頂点を迎えた瞬間、それが終わりを告げる。その静かな諦念に、わたくしは胸の奥が締めつけられるのです。わたくしにとって、切なさとは“何も言わずに過ぎ去るもの”でございます。秋の終わりは、そのすべてを優しく、静かに連れ去ってしまう。ですから、あの季節にだけは誰かの手を、強く握っていたくなるのです」
お嬢様が何故、そのような問いをなさるのか。
彼女は今、何を思っているのだろうか。
私も、聞いてみたくなった。
「お嬢様が最も切ないとお感じになる季節は、いつ頃でございましょうか?」
彼女は視線をあげ、静かに微笑んだ。
「私は、冬の終わりがたまらなく切ないの。冬の冷気は心を洗ってくれる。深く息を吸い、肺の中が凍っていくたび、澄んだ空気が私を綺麗にする。冬は、自分と向き合う季節。私は生きているのだと、実感する季節。風が春の気配を連れてくるとき、心に纏った薄氷が溶け、私の心は死んでゆくのだと実感する」
お嬢様の語る“冬の終わり”は、在るべきものが自分の中から消えてゆくような、無音のまま涙を流すような、そんな痛みと美しさを宿している。
「お嬢様は、春を拒まれるのですね。世界がまた、色を取り戻すその手前で……ご自分だけが白の中にとどまっている。けれど、わたくしは思うのです。白は、すべての色を含んでおります。貴女が見つめる“白の冬”は、まだ誰にも染められていない、可能性の余白なのではないかと」
彼女は僅かに目を見開き、その瞳に戸惑いの色を浮かべる。
けれどすぐに、それは慈しみのような色に染まった。
「私の冬の終わりと、貴方の秋の終わり。季節は違えど、どちらも“去りゆくものへの愛”のように思えてなりません」
彼女は窓の外を見上げる。
細く揺蕩っていた月は、雲に隠れて今は見えない。
「お嬢様……」
その背中が少し寂しそうで、私は思わず名を呼んだ。
「今は夏の終わり。それなら……この気持ちはきっと“切なさ”ではないわね?」
窓に映る、貴女の顔が泣いているように見えた。
私が感じている気持ちと、お嬢様が感じている気持ち。
それが同じであるはずはない。けれど。
今は夏の終わり。
貴女がそう仰るのなら、きっとこの気持ちは、切なさではないのだろう。
私のような者が、このひとときを過ごせたことが奇跡なのだ。
これを切ないと思うのは、あまりにも不遜で、あまりにも奢侈だ。
今はただ、このひとときの夢に感謝しよう。
窓越しの、彼女の瞳に言葉を送る。
「……はい、お嬢様。ですからどうか、この夢の終わりに、ただ微笑んでいてくださいませ」
彼女は微笑む。
その頬を、涙がひとすじ、撫でてゆく。




