5 ニコチアナ
ニコチアナの花言葉「孤独が好き」
孤独が好き。それは自分を守るための、哀しくて優しい嘘だった。それに気づいた執事レイは、涙に濡れる令嬢に自分の気持ちをそっと贈る。言葉にすることも、触れることもできない関係。それでも、伝えたくなってしまった――。
七月二十七日 火曜日
今日は、とても辛いことがありました。
孤独には慣れていたつもりだった。
でも、悲しいと思ってしまった私は、
心のどこかで、誰かの温もりを求めていたのかもしれません。
でも、辛いことだけではありませんでした。
一冊の古い本が、凍えた私の心を一気に溶かしたのです。
思わぬ形で返ってきた、私の想い。
今日は、この本を抱きしめて眠りたいと思います。
「お嬢様」
朝陽の差し込む窓辺。
太陽のように明るい笑顔で、声で、アナが駆け寄ってくる。
「見てください、ほら。お庭のカスミソウが綺麗に咲いていたので摘んできました。お嬢様のお部屋に飾ってもよろしいですか?」
アナの手には、 可憐なカスミソウの束が握られていた。
その花を、嬉しそうに私の前へ掲げる。
白く小さなその花は、「感謝」や「清らかな心」の象徴とされる。
まさに、アナそのもののようだった。
アナはレイほど洗練された立ち居振る舞いではないけれど、そこが親しみやすくて安心する。
若い女性が苦手な私は当初、彼女のことも少し苦手だった。
けれど、こうして気さくに話しかけてくれる彼女に、私は少しずつ心を開いていった。
「まあ、アナ。ありがとう。今飾っている花が枯れそうなので、ちょうど新しいものに替えようと思っていたの」
「それは丁度良かったですわ。では、お部屋のお花と取り替えておきますね」
アナはパタパタとスカートを靡かせて廊下を駆けてゆく。
優雅に歩くレイとの対比が可笑しくて、私は思わず笑みを零す。
「お嬢様。ご機嫌が麗しく見受けられますが、何か素敵なことでも?」
カップに注がれる紅茶とともに、レイのやさしい声が降り注ぐ。
私はテーブルの花瓶に生けられたカスミソウに視線を送る。
「ふふ。アナがね、このカスミソウを私にくれたの。良い人ね。私、彼女が好きになってしまったわ」
「それは、何よりにございます」
レイはふわりと微笑んだ。
彼は自分の過去を話してから、少しだけ感情を乗せた微笑みを見せるようになった。
それが私は、とても嬉しい。
午後。私はお気に入りのブラウスを持ってアナを訪ねた。
アイロンがけをしているアナの邪魔をしてしまうのではないかと、声を掛けるのを少し躊躇う。
「あら、お嬢様。私に何かご用ですか?」
私に気づいたアナは手を止め、アンティークの鉄製アイロンを立てた。
「お忙しいのに邪魔をしてごめんなさい。これ……袖のところがほつれてしまったの。あとで直してもらえますか?」
「かしこまりました、お嬢様」
アナはブラウスを受け取ると、それを丁寧に畳んでテーブルへ置く。
私はつい、聞いてみたくなってしまった。
その言葉を、アナの横顔に投げかけてみる。
「アナは、どうしてそんなに良くしてくれるの? 私、初めて会ったころとても暗かったでしょう? 貴 女ともあまりお話できなくて、目も合わせられないで……」
アナは少しの間、驚いたように私を見つめていた。
そしてそれは笑顔に変わり、鈴のような声で笑う。
「まあ、お嬢様ったら。私は、お嬢様が本当はお優しい方だって分かっていますよ。ですからご安心ください」
「ありがとう、アナ」
――嬉しかった。
レイの他にも、私を分かってくれる人がいた。
それは、小さな双葉がそっと心に根を張るような、やさしいぬくもりだった。
その日の夕食は、なんだかいつもよりも美味しく感じた。
舌平目のムニエルが、まるで口の中で踊っているかのように広がってゆく。
相変わらず、母や妹と会話を楽しむことはない。
けれど、心が弾んでいるとこんなにも食事が愉しくなる。
舌平目の余韻を感じながら、グラスに注がれた白葡萄のジュースを口に含む。
甘やかで優しい香りが、私の心をそっとほどいていった。
空になったグラスに新たに注ごうと、レイがボトルを傾ける。
それを私は、そっと制止した。
「あの……レイ」
レイの手がぴたりと止まる。
少しだけ、いつもと違う自分を味わいたかったのかもしれない。
「今日は……少しだけ、ワインをいただいても、よろしいかしら」
一瞬の沈黙。
そして、レイは柔らかな口調で答えた。
「かしこまりました。では、シャブリの一等畑を少し……。こちらは、バターとレモンの香りを持つムニエルに、きっとよく寄り添います」
ボトルを持つ手が、洗練された所作で傾けられる。
その手はまるで、私の心の揺らぎを汲み取るように慎重で、優雅だった。
グラスの縁に静かに触れる白ワインが、琥珀色の旋律を描く。
一滴ごとに、音もなく注がれる想い。
レイの手元から静かに注がれるそれは、もはやただの酒ではなかった。
清らかな夜にささやかに響く、聖なる祝福。
それはまるで、静謐なカナの婚礼。
誰にも知られず、小さく祈るように注がれた、神の奇跡のワインだった。
レイが注いだ琥珀色の一滴を、私はしばし見つめた。
手にしたグラスは軽やかなのに、何故か少し、重たく感じられた。
心地の良い浮遊感に、私の足取りは羽根のように軽かった。
少し火照った体を外の冷気で鎮め、玄関の階段から二階へ上がる。
部屋へ向かう途中で、母の部屋から声が漏れていることに気づく。
普段なら気にも留めないのだが、今日は少し気になって、私はそっと耳を澄ませた。
聞こえてきた、母とアナの声。
その声が口にする、私の名前。
私は胸の奥がざわめくのを感じた。
「お嬢様のお相手をするのは本当に疲れますわ」
太陽のような声。今朝、彼女を見てそう思った。
でもこのアナの声は―冷たく、鋭い棘を孕んでいる。
「奥様、聞いてくださいまし。お嬢様のお部屋へ花を持って行ったとき、私見てしまったんです」
楽しそうにクラスメイトの陰口を言う、学生のような声音。
「お嬢様の机にあった原稿。何て書いてあったと思います? 愛だの希望だの、歯の浮くような台詞ばかり。まあ、お友達がひとりもいらっしゃらないんじゃ、現実逃避したくなるのにも頷けますけれど」
「これ、アナ。そのように言っては可哀想よ。お友達ならいるじゃない。あの、どこぞで拾ってきた汚らしい猫が」
嘲るような笑い声。
私は、これを知っている。
学生の頃、毎日のように聞いてきた、侮蔑の声。
――吐き気がした。
強い頭痛と、乱れる心音。
目の前が、歪んでゆく。
私はその場から動けなかった。
少しして、部屋からアナが出てくる。
アナは私に気づくと、一瞬狼狽したあと、すぐに笑顔の仮面を張り付けた。
「お、お嬢様。このようなところで何を……? ご気分でも優れませんか?」
「……なん、で」
それが私の精一杯だった。
血管が大きく脈打ち、頭の中に重低音が響き渡る。
私に聞かれていたことを察したアナは、仮面をつけるのをやめた。
明るい笑顔が瞬く間に消え去る。
「あーあ。聞いてらしたんですね。盗み聞きなんて“お嬢様”のすることではないでしょう。そんなんだから、お友達ができないんじゃありません? 陰気で、周りに合わせられない、群れから外れた憐れなひと。お嬢様には孤独がお似合いよ」
――静寂が、世界を覆った。
嬉しそうにカスミソウを持ってきてくれた、あのアナと同一人物だとは思えなかった。
彼女の瞳は、どこか冷たい光を帯びている。
「どう、して……。だって、お花……」
「あんなの、ただの仕事よ。メイドとして、お嬢様のご機嫌を取っていただけ。まあでも、もう良いわ。旦那様に言うなりレイに言うなりして私をクビにすればいいわ。さようなら、可哀想なお嬢様」
またひとり、私のもとから去ってゆく。
こうなることが怖くて、私は人と関わることを避けてきたはずなのに。
何も考えられなくなって、気がついたら庭へ出ていた。
ガーデンライトがやさしく照らすガゼボで、私は泣いた。
白猫のステラがどこからともなくやってきて、私の足元にそっと寄り添う。
その小さな体を抱き上げ、そっと腕の中に包む。
「……あたたかい」
メトロノームのように正確に刻まれる鼓動に耳を当てる。
アナの言葉がまだ耳に残っているのに、ステラは何も言わず、ただ静かにそこにいる。
その毛並みに顔をうずめると、微かに陽だまりの匂いがした。
辛いとき、いつもステラは私を慰めにきてくれる。
まるで、恩返しをしてくれているみたいに。
ステラとは去年の夏、この庭で出会った。
その日は嵐で、外は雨風が吹き荒れていた。
その様子をサロンの窓から眺めていたら、庭に白くて小さい何かが蹲っていて。
それが風に攫われた薔薇でも袋でもないと分かった瞬間、私は外へ飛び出した。
震える小さな体をそっと抱きしめて、家の中へ連れて帰った。
嵐のなか、ひとりぼっちで震えているこの子を見たら、なんだか自分を見ているようで放っておけなかったのだ。
ステラは私を蔑むことも嘲笑することもしない。
だから私は、この子の前でなら何でも言えるし、涙を見せることも出来る。
私の大切な、ただひとりのお友達。
――そう。
お母様が言っていたことは本当だわ。
私にはこの子しかいない。
いいえ、この子さえいてくれれば、私はそれだけでいい。
他には誰も――。
頭ではそう思う。
でも、胸にぽっかりと穴が開いたような、この喪失感は何だろう。
大人しく抱かれていたステラが、何かに反応して私の腕をすり抜けてゆく。
振り返ると、ガゼボの入り口に、レイが静かに佇んでいた。
足元にライトがあるとはいえ、この暗がりではきっと、私の顔ははっきりとは見えないだろう。
泣いていたと、知られるのが恥ずかしかった。
私は何でもないふりをして笑顔をつくる 。
「レイ。どうしたのですか?」
声がほんの僅かに、震えていたかもしれない。
どうか、気づかないで――。
「わたくしは門の施錠に……。お嬢様はこのような夜更けに、いかがなさいましたか? お加減でも悪い のでしょうか」
一歩、レイがこちらへ近づく。
「こ、こないで!」
レイはぴたりと止まり、その場で私を見つめる。
つい、失礼な言い方をしてしまった。
でも、近づけば涙の跡に気づかれてしまう。
そう思ったら、口から拒絶の言葉が滑り落ちていた。
彼は、立ち去ろうとも近づこうともしない。
ただ、黙ってそこに立っている。
「話してごらん」と言われているようで、なんだかまた、泣きたくなった。
彼はいつも、的確な助言をしてくれる。
私に必要な言葉をかけてくれる。
だから今回も、この思いを彼に、委ねてみたくなったのかもしれない。
「私……私また、独りになってしまった。私は彼女を傷つけてしまったの? だから私から離れてゆくの ? ……分からない。言われたの。私には孤独がお似合いだって。でも……」
今にも零れ落ちそうな涙が、かろうじて瞼にしがみついている。
「でも、その通りだわ。別にいいの。私は独りが好き。自分で望んで、独りになったのだから……」
言葉とは裏腹に、膨れ上がった涙は一気に頬を駆け抜ける。
強がりだった。
でも、レイには、弱い自分を見せたくなかった。
それなのに、彼は一歩、また一歩。
ゆっくりと歩を進める。
「こないで、レイ。いま、私は」
「はい」
私の言葉を、あのレイが遮る。
彼は俯いたまま私の前まで来ると、その場で片膝をついた。
「はい……ですから、わたくしはこうして目を伏せています。けれどどうか、その手に触れることを許していただけますか?」
返事を待たずに、レイは私の手を取る。
彼にしては強引だが 、私はそれを咎める気にはなれなかった。
手袋越しに伝わる、彼の体温。
指の先が、熱くなるのを感じた。
レイは私の顔を見ない。
ただ、そっと重なった指先を見つめながら――
そこに宿る痛みと祈りに、静かに寄り添おうとしているようだった 。
彼は気づいているのだ。
私は恥ずかしさと少しの安心が混じったような、そんな不思議な気持ちだった。
レイがそっと、口を開く。
「お嬢様。辛いと……どうぞ仰ってください。独りが好きと言う貴女の声は、どこか寂しげに感じられま す」
「辛いと言って何になるのです。何も変わらないのなら、余計に虚しくなるだけ」
辛いと言ったところで、私が独りなことに変わりはない。
誰かが手を差し伸べてくれるわけでもない。
ただ、自分が弱い人間なのだと認めるための言葉。
レイの指先に、少しだけ力がこもる。
「わたくしが、ここにおります」
たったひと言。
それはとても力強くて、やさしい響き。
ひとつ、ふたつ。
涙がしとど落ちる。
それは手の甲に吸い寄せられて、小さく弾けた。
声にならない声が、貴方の名を呼んでいる。
それでも、唇は動かせなくて――
それでも、心は、貴方を――。
「たす、けて……」
ほとんど、声にはなっていなかったかもしれない。
でも、レイは顔をあげ、まっすぐに私の目を見つめた。
その澄んだ瞳に見つめられるのが、今は少し、心地良い――。
昼には一人で、夜には独り。
私はいままで、そう思っていた。
実際、ずっとそうだった。
でも今は違う。
彼は、決して私を裏切らない。
侮蔑の目で見ることも、嘲り笑うこともない。
真剣に、私と向き合ってくれる。
そう私は確信していた。
震える指先にそっと触れたその手が、今はこんなにもあたたかいのに――
どうしてだろう。ほんの少しだけ、怖くなった 。
ずっと、この手を離したくないと、強く思った。
翌日、私はペンのインクが切れそうなことに気づき、執務室へ向かう。
あれから彼の顔をまともに見ていない。
今朝、彼が朝の挨拶に来たときも、私は思わず目を逸らしてしまった。
昨日の今日で話すのはとても気恥ずかしい。
だが、原稿を進めなくてはいけないため、インクを切らすわけにはいかなかった。
覚悟を決めて、ドアをノックする。
緊張から、最初の一回が少し強くなってしまった。
次は慎重に叩く。
少しの間のあと「どうぞ」と声がして、私はドアを開いた。
「お嬢様……いかがなさいましたか?」
一度、ハナミズキを届けるために誰もいない執務室へ入ったことがある。
でも、こうして彼がいるときに訪ねるのは初めてだ。
「あの……インクが、なくなりそうで」
反射的に目を逸らしてしまった。
気分を悪くさせていないだろうか。
彼は、いつもと同じ、やさしい声で微笑む。
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
「はい……お願いします」
視線が泳ぐ。
ふと、机の上に置かれた古い本が目に入る。
濃紺に金の箔押しが施された、魔導書のような本。
「……それは?」
つい声に出してしまい、我に返って言葉を止める。
レイは静かに本を手に取り、微かに微笑んだ。
「外国の、古い童話集でございます。もし宜しければ……お嬢様に、きっとお楽しみいただけるかと」
「いいのですか?」
「もちろんでございます」
その短いやり取りに何故か、心があたたまるのを感じた。
思わず彼の目を見つめてしまって、私は本を受け取ると逃げるように その場を去った。
部屋へ戻って、借りてきた濃紺の表紙をそっと撫でる。
童話作家として、外国の童話集が気になったというのは本当だ。
でも、本当は――。
「貴方の持っているものに、触れてみたかっただけなのかもしれない」
彼の温もりを宿した本に向かって呟く。
頁を捲ったところで、ふと本の真ん中あたりに栞が挟まっていることに気づく。
私はその頁を静かに開いた。
頁の間から、そっと現れた花の影。
指先に触れた瞬間、胸の奥で何かが、音もなく崩れ落ちた。
やさしくて、切なくて、嬉しくて――。
心に差し込んだその一輪が、私のなかの何かを、そっと溶かしてゆく。
あの夜、月に願った想いの、返歌。
私が贈ったハナミズキ。
栞の上に美しく結ばれているのは、彼を想いながら選んだ、あのロイヤルブルーのリボン。
ふと、栞の裏を見て、私は込み上げてくる何かを抑え込むように口を覆った。
“the 8th of May”
この日付は、あの日、私がこの花を贈った――。
名前を書かずに渡したメッセージカード。
でも、彼が気づいてくれたようで。
私の想いを大切にしてくれているようで。
とても、嬉しかった。
まるで「ありがとう」が自分に返ってきたような気がした。
栞の頁には、ひっそりと綴られた、童話の一節。
“小鳥はいいました
「きみの言葉はとても美しいよ」
ウサギはいいました
「あなたの笑顔はとても素敵よ」
蝶々はいいました
「泣きたいときは、私がそばで舞ってあげる」
少女はやさしい仲間たちに囲まれて
森で幸せに暮らしました”
七月二十七日 (火) 薄曇り
感情を抑えることが、私の使命であり、存在意義だった。
感情を抑えることは、何よりも得意としていた。
だが、たったひとりの、たったひと言で、
私の築き上げてきたものは跡形もなく崩れ落ちた。
もう、この感情をなかったことにはできない。
気づかなかった過去には戻れない。
私は、私を救ってくれた貴女を――。
その一滴がカップに注がれる瞬間、アールグレイの華やかな香りが部屋に満ちた。
湯気の向こうの、お嬢様の顔がとても晴れやかで、私は思わず尋ねた。
「何か素敵なことでも?」
彼女は少し照れたように微笑みながら、テーブルの上のカスミソウを見つめた。
アナから貰ったものなのだと、嬉しそうに お話になる お嬢様。
このところ暗い顔をなさることが多かったから、彼女が笑えていることが私にとっても嬉しい。
夕食の席。奥様と、二人のお嬢様。
いつもの光景。
しかし、ひとつだけ違うことがある。
舌平目の余韻を感じながら、彼女が笑う。
その笑顔を、私はただ見つめていた。
食事の時間が苦手だと言い、いつも辛そうに召し上がっていたお嬢様が、柔らかな表情を浮かべている。そのことが、奇跡のように思えてならなかった。
ムニエルをひとくち。
そして、白葡萄のジュースをひとくち。
グラスが空になると、私はすかさずお嬢様の横へ。
ボトルを傾けた、そのとき――。
「あの……レイ」
少しだけ緊張の気配を帯びた声が私を止める。
「今日は……少しだけ、ワインをいただいても、よろしいかしら」
普段あまりお酒を召し上がらないお嬢様が、ワインを所望された。
いつもと違う夜。
その特別な瞬間に相応しい、上等なシャブリを。
それはまさしく、王道にして至高。
私は神聖な儀式を司るかのように、丁寧に、敬意をもって、グラスにその一滴を注ぐ。
一部の隙もない、洗練された所作。
それは、他でもない、お嬢様ただおひとりのために。
今日の貴女をやさしく祝う、奇跡のワインとなりますように。
お嬢様はその琥珀の雫をひとくち含み、瞳を閉じた。
その表情ひとつで、私の儀式は完成されたのだ。
古い童話集を開き、私はひとつ、息を吐いた。
私はしばしば、この本を“読むため”ではなく、別の用途で開く。
頁の間の、花びらの形を指でなぞる。
「お嬢様……」
日報を書いて、屋敷の施錠に向かう。
その僅かな時間にこうしてふと本を開いては、またひとつ、大きな息が漏れる。
彼女に自分の過去を話してから、なんだか身体が軽くなったような気がした。
「貴方が感情を露わにしても、どんなことを言っても、傷つかないから」
その言葉を、私は何度も心の中で反芻する。
抑えていた怒り、悲しみ、悦び――。
その全てを、曝け出しても良いのだろうか。
“感情は毒”
そう教えられてきた。
私が感情を出せば、誰かを傷つけてしまう。
貴女を、傷つけてしまう。
そう思って、私は自然と自分の感情に蓋をしてきた。
けれど、「傷つかない」と貴女ははっきり言った。
それは私にとって救いだった。
道具や、執事としてではない。
私自身を見てくれているようで、それがとても、心地良かった。
この人を裏切ってはいけない。
あの主のときのようになってはいけない。
今度こそ、何があっても揺るがぬ忠誠を、彼女に。
そっと本を閉じ、机に置いた。
施錠確認の時間だ。
屋敷内の施錠を済ませ、あとは外の門だけ。
小さなキャンドルランタンを片手に庭へ出る。
ガラス越しの淡い火が夜の庭を幽かに照らし、足元にやさしい光を落とす。
揺れる炎が、私の心の奥に灯った感情のように、静かに、しかし確かに燃え
ていた。
門の手前、ドーム型のガゼボの中に佇む、ひとつの人影。
お嬢様が、ステラを抱きしめて泣いている。
顔が見えたわけではない。
ただ、彼女は泣いているのだと、そう思った。
私に気づいたステラがお嬢様の腕からするりと零れる。
私は、その場を動けずにいた。
「レイ。どうしたのですか?」
明るい声を装ってはいるが、その微かな震えの温度を、私は強く感じ取ってしまった。
胸に、鋭い何かで貫かれたような痛みが奔る。
今日は朝から笑顔でいらっしゃることの多かったお嬢様。
つい先ほどの夕食の席でも、彼女はやさしく微笑まれていた。
それなのに何故、暗い庭でひとり、貴女は泣いておられるのだろう。
彼女の涙は、私のなかに眠る“何か”を強く揺さぶる。
「お加減でも悪いのでしょうか?」
一歩、お嬢様へ近づく。
「こ、こないで!」
慌てた声。
ここからでは、彼女の表情までは見ることができない。
何が彼女を苦しめるのか、知りたかった。
でも尋ねることはしない。
ただ黙って、彼女が話してくれるのを待つ。
少しして、 お嬢様は口を開いた。
彼女は傷ついていた。
また独りになったと、誰かを傷つけたかもしれないと。
そして言われた、心無いひとこと。
そのことに、深く傷ついている。
しかし、続けてお嬢様は仰った 。
「私は独りが好き。自分で望んで、独りになったのだから……」
それを嘘だと、見抜けない私ではない。
ただ、どんな言葉をかけたらいいのか、それが分からなかった。
涙を含んだその声が、私の胸に反響する。
キャンドルランタンを足元に置き、私は一歩、また一歩。
お嬢様のもとへゆっくりと歩く。
「こないで、レイ。いま、私は」
「はい」
貴女の許可なしに、私はその涙を見つめたりはしない。
ただこの手の温もりを、そっとお渡ししたいだけ。
力なく落ちている彼女の手を取り、指の先をやさしく包む。
「お嬢様。辛いと……どうぞ仰ってください」
そう言ってくれれば、私は彼女を支えることができる。
けれど、彼女が「大丈夫」と言えば、私はそれ以上、踏み込むことはできない。
たったひとこと。
それで、私は何でもしよう。
しかし、彼女の口からでたのはその言葉ではなかった。
「辛いと言って何になるのです。何も変わらないのなら、余計に虚しくなるだけ」
その言葉には、痛みと、苦しみと、強さと――。
幾重もの感情が揺らめいていた。
どうしてこの方は――
こんなにも脆くて、儚くて、それでいて誰よりも強くあろうとするのか。
辛くないわけがない。
ただ、彼女には「辛い」と言える相手も、場所もなかった。
救われないと知りながらその言葉を口にするのは、とても――
とても、悲しいのだと思う。
きっと、心が抉られるような痛みを伴うのだ。
過去の貴女はそうだったのだろう。
でも今は――。
「わたくしが、ここにおります」
手の甲に落ちた涙が指の間を伝い、震える指先に滲んだ。
「たす、けて……」
葉擦れの音に搔き消されてしまいそうなほどの、小さな声。
でも確かに、はっきりと、私の耳にその声は届いた。
その瞬間、私は気づいてしまったのだ。
ずっと、胸の奥底に燻っていたものの正体。
彼女への誠意、敬愛、忠誠心――そんなものでは、なかった。
そんなに簡単なものではなかった。
私のなかで、なにか張りつめていた糸が切れたような、儚くも強い音がした。
私は顔をあげ、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
溢れる涙に抗うこともせず、彼女の瞳もまた、私を捉えていた。
「辛い」ではなく、「たすけて」と彼女は言った。
それは、ただの慰めの言葉ではなく、私自身を求めてくれているようだった。
私は、貴女の「たすけて」に応えても、良いのだろうか。
貴女を苦しみから救いたい。
貴女の傍に、ずっといたい。
私は貴女に――
仕えたいのではなく、守りたいのだ。
この世界でたったひとり、私を“レイ”として見てくれる人がいる。
私はその人のためなら、すべてを差し出しても、構わない。
震える手が、私の指に縋りつく。
その想いに応えるように、私は両手で彼女の手を包んだ。
翌日、お嬢様は執務室へいらっしゃった。
あれから彼女は、私と目を合わせようとしない。
私と会話をしながらも、視線は常に下を彷徨っている。
ふと、その視線が何かを捉えた。
「……それは?」
視線の先には、机に置いたままにしていた古い本。
それを見る彼女の目が、少し輝いて見えた。
「もし宜しければ……お嬢様に、きっとお楽しみいただけるかと」
私はこのときを望んでいたのかもしれない。
本を仕舞い忘れたのではない。
私は、お嬢様の目に留まってほしくて、敢えて机に出したままにしておいたのだ。
気づいてほしかった。
言葉にできぬ感情を、貴女への感謝を、その栞に託した、私の想いを――。
昼食の準備が整ったことを知らせに二階へ向かう。
奥様に伝え、その隣のアリサお嬢様の部屋へ。
ドアを叩くが、返事はなかった。
もう一度叩き、声を掛ける。
しかし、やはり返事はない。
部屋にいないのだろうか。
ゆっくりとドアを開ける。
アリサお嬢様はこの時間、いつもファッション雑誌を眺めているか、鏡の前でアクセサリーを合わせていることが多い。
しかし部屋の中に彼女の姿は見当たらなかった。
部屋を出ようとしたところで、微かにアリサお嬢様の籠った声が聞こえる。
声のする方へ視線を向けると、ベッドの上の布団が大きく盛り上がってい た。
「お姉様。ご、ごめんなさい! ……よし、これでいいわ」
布団を剥いで、中からアリサお嬢様が現れた。
彼女は私に気づくなり叫びをあげる。
「きゃあ! なによ、勝手に入ってこないで!」
「申し訳ありません。お声がけしたのですが、お返事がなかったので何かご気分でも優れぬのではと、 案じてしまいまして」
「…………いたの?」
彼女は布団に包まりながら口籠る。
私はそれを聞き取れず、聞き返した。
「だからっ……き、聞いたの? さっきの私の……」
私を睨みつけながらも、その頬は赤く染まり、唇は震えていた。
「聞いておりません、とは申し上げられませんが……わたくしはただ、お嬢様の素直なお心を大切に受け取っただけです」
お嬢様に歩み寄ろうとする彼女の心に触れ、私はただ、嬉しかった。
あの言葉がお嬢様に届く日を願って、私はそっと、瞼を閉じる。
瞼の裏で、貴女があたたかく微笑んでいた。




