4 トリトニア
トリトニアの花言葉「そんなに熱くならないで」
人間はみな、同調を求める。「普通」を語る人々が群れ、少しでも「普通」から外れる者がいれば、その者を排除し、攻撃する。けれどその「普通」になれなかった令嬢は、傷つき、自分を責めてしまう。そんな彼女に、執事レイが手を差し伸べる。
六月九日 水曜日
私は自分が嫌い。
何かを言っても、何も言わなくても
結局、相手を不快にさせてしまうから。
今日、改めてそのことを思い知りました。
私は妹を、傷つけてしまったのでしょうか。
私は自分が嫌い。
そう言ったら、レイが私に、少しだけ声を荒げた。
初めて聞いた、彼の感情的な言葉。
それほどに私という存在を、
大切に思ってくれているという事なのでしょうか。
でも、貴方は――。
今日、母は社交界の用事で一日外出していて、家には私とアリサだけ。
そのアリサに、彼女の従兄が訪ねて来た。
少ししか顔を見なかったけれど、その男はどこか下品な顔をしていた。
いいえ。顔の造りではなくて、笑ったときの表情、視線、雰囲気。
それが、何故か冷たく背筋を撫でるような。
明るく溌溂としたアリサが、その男の前では終始笑わなかった。
僅かに揺れる瞳と、力の入らない笑み。
彼女の心が、少しだけどこかに逃げようとしているように見えた。
その日の夕食。
広い食堂、大きなテーブルに、今日はふたりだけ。
赤ワインソースが美しい、鴨のローストが運ばれてきた。
鴨の皮目は香ばしく焼かれ、ナイフを入れると柔らかく血の気を帯びた赤が覗いた。
向かいの席、アリサが私を鼻先で笑う。
「お姉様って、いつもそうやって上品ぶってるのね。あの幼馴染の前でもそうだった。どうして、男の 前であんなに平然としていられるわけ?」
ナイフを持つ手が止まる。
皿に広がる赤ワインソースが、まるで言葉の棘の余韻のように滲んでいった。
私は彼女の言葉の意味が理解できなくて、ただ無言で見つめることしかできなかった。
そんな私に苛立った様子で、アリサは言葉を続ける。
「幼馴染とはいえ、あなたも男なんて怖いと思うでしょう? 欲望の目で見られて、身体だけを求められて……」
ナイフが皿に触れて甲高い音を立てる。
アリサの顔は、泣いているのか、笑っているのか。
それとも、怒っているのか。
その表情を見ても、私には分からなかった。
「……わかりません。そういう経験は、ありません」
アリサがテーブルを叩いて、食器が音を立てて揺れる。
立ち上がった反動で、アリサの椅子は勢いよく倒れた。
「はあ? じゃあ何? お姉様は、自分は綺麗だって言いたいの? 私が汚れてるというのね。だから分か らないんでしょう? あの視線の意味も、触れられる痛みも!」
「そんな……そんなつもりじゃ……」
レイは静かに、倒れた椅子を元に戻した。
ただそれだけの動作に、彼の呼吸までもが沈黙に溶けてゆくようだった。
「なぜ……分かってくれないの。ただ、そうだよね。嫌だよね。って、そう言ってほしかっただけなのに 。だからあなたは誰にも好かれないのよ。あなたは普通じゃないわ」
目の前のアリサは、まるで罅の入ったガラスのようだった。
触れれば壊れてしまいそうで、それでも彼女の怒りを止めることはできなかった。
私は、また誰かを傷つけてしまったのかもしれない。
心の奥に、冷たい痛みが沈んでゆく。
アリサは食事の途中で席を立った。
彼女の皿には、手つかずの鴨が冷たく佇んでいる。
俯く私の横で、レイは静かに囁いた。
「お食事の続きを」
それでも私は、ナイフを持った手を動かすことができなかった。
「ごめんなさい。下げて……いただけますか」
私はひとり、サロンへ向かう。
広いサロン。 電気はつけない。
サロンの中央にはピアノが置かれ、その頭上には大きなクリスタルのシャンデリアが、光を反射して煌 めく。
鳴りやまぬ音楽と、それに合わせて踊る人々。
そんな賑やかなサロンが、夜にはこうして静まり返り、昼間の余韻を纏った空気が震えている。
この静けさが私は好きだ。
“お前に華やかな場所は似合わない。この暗闇と孤独だけが、お前の味方。お前の在るべき処”
そう言われているような気がして、なんだか少し、安心する。
いつもなら月明かりが差し込みピアノをやさしく照らす。
けれど、今日は雨。
サロンは、どこまでも闇だった。
窓辺のソファーに腰掛け、私は考えた。
あのとき、私は彼女に何というのが正解だったのか。
男の人の視線の意味――。
いくら考えても、私には分からなかった。
そのような視線を向けられたことはなかった。
それとも、私が気づかなかっただけなのか。
アリサは、その視 線に苦しんできたのだろうか。
私はまた、同じ失敗を繰り返す。
「なぜ分かってくれないの」
「あなたの意見なんて求めてない」
「ただ、寄り添ってほしかっただけなのに」
そうして私の周りからは、誰もいなくなった。
私が同調できなかったから。
私が、自分の意見を言ってしまったから。
私は、相手には思ったままを言ってほしい。
私に合わせるのではなく、その人の意見を聞きたい。
だから他の人もそうなのだろうと、当たり前のようにそう思っていた。
「そうだよね」って、口で言うのは簡単だ。
でもそこに心が伴っていなければ 、それは軽薄な嘘になってしまう。
それが私には、不誠実に思えて仕方がないのだ。
それでも、あの場では嘘をつく必要があったのかもしれない。
相手が何を求めているのか、私は感じ取らなくてはいけなかったのかもしれない。
私はこうして、また失敗を積み重ねてゆく。
周りとの溝が、もう見えないまでに深く、深くなっている。
窓に当たる雨粒の音だけが、サロンに寂しく響く。
不意に、ドアを叩く音が雨音に紛れて滲むように響いた。
その音に、声より先に気配を感じる。
間違えようのない、彼の存在――。
私は返事をしなかった。
「失礼します」と声がして、ドアは静かに開いた。
暗闇のサロン。
レイは、電気をつけることはしなかった。
窓辺に私の気配を感じ取り、まっすぐこちらへ向かってくる。
私は窓の外を見つめる。
レイは私の前で止まり、静かに言った。
「お嬢様。お食事はそのまま取ってございます。お嬢様の気が向かれた折に、いつでもお申しつけください」
やはり、私は返事をしいない。
失礼だとは分かっていても、何故か言葉が、喉に張り付いて出てこなかった。
ただ、窓を打つ雨を眺める。
ガラスに落ちた雨粒が、迷いのない軌跡を描いて消えてゆく。
その雨粒にすら、私よりも確かな意思があるようで――。
レイは、何も言わずにそこにいる。
私を、静かに見つめている。
自分でも何故だか分からない。
でも、誰かに言ってしまいたかったのかもしれない。
レイに、聞いてほしかった。
窓を見つめたまま、私は語る。
それはレイに向けたものでもあり、そして独り言でもあった。
「私は間違ってしまった。昔から、何も変わらない。私には皆の望む答えが分からないのです。同調できない者は、群れから排除され、攻撃の対象となる。私のような少数派は、異端とみなされる。普通であることを求められる。普通とは何でしょうか。自分の心に正直でいることが、罪になるのでしょうか。自分に嘘をついてでも、笑い、涙し、共感しなければいけないの? 私は、周りに合わせることのできない、 欠陥品なの? 私は……自分が 、嫌い」
「そのようなこと!」
レイが大きな声をあげる。
吃驚して、私は思わず彼を振り返った。
レイは決して、声を荒げたりはしない。
いつも冷静で、やさしい声音で、狂いのない微笑を湛えている。
完璧な仮面を纏った、隙の無い執事。
そのレイの眉は少し寄り、声には熱がこもる。
「……申し訳ありません。ただ……そのようなこと、仰らないでください」
彼はもう、落ち着きを取り戻していた。
けれどそれは“取り戻した”というよりも――そ う。
“押し込めた”もののように思えた。
「お嬢様。人が同調を求めるのは、たぶん安心したいから。多くの人と同じ意見を持っていれば、拒絶されることも、孤立することもない。だから無意識に“異なるもの”を警戒し、ときに排除しようとさえしてしまう。でも……それは“正しさ”ではなく“恐れ”からくる行動です。恐れが多数を作り上げ、その多が“普通”を装って、少数を異端と みなす。けれど本当は、普通なんてものは、どこにも存在しません。お嬢様 の持つ感性は、きっととても繊細で、深く、美しい。それが“普通”でないと扱われてきたのは、周囲が貴女の感性に気づけなかっただけ。或いは、気づくことを恐れたのかもしれません。見慣れた価値観が壊れてしまうことを。ですからお嬢様。貴女は今のままで良いのです。自分に嘘をつかない。それが、どれほど難しいことか。お嬢様はそれをやっておられるのです。どうか、ご自分を責めてしまわないでください」
レイの言葉は、静かに私の心に沁みわたる。
今まで、何度も考えてきた。
何回、何十回と考えて分からなかった答えを、レイはこんなにも簡単に教えてくれる。
彼は静かに私を見つめている。
一度だけ見せた、苦しそうな顔。
熱を帯びた声。
私はそれが嬉しかった。
執事としての義務ではなく、ひとりのレイとして言ってくれているような気がした。
それなのに何故、貴方はそうやってすぐに平静を装うことができるのだろう。
まるで自分の感情など存在していなかったかのように、いつも同じ微笑を浮かべ、同じ声音で緩やかに 話す。
「貴方は……感情を抑えてしまうのね」
ぽつり。
口から滑り落ちる。
少しだけ、寂しかったのかもしれない。
「どうして? さっきの貴方は、私を思ってくれていると分かって、嬉しかったのに」
知りたかった。
彼はどうして自分を抑えてしまうのか。
どうやったら、こみ上げる感情を律することができるのか。
私も自分の感情をコントロールすることができたなら、こんなに悩み、苦しむこともなくなるのかもしれない。
でも、感情を出さないというのは少し、悲しいことだと思う。
自分が自分でなくなってしまうような。
自分がそこに存在していないかのような。
レイは、そうではないのだろうか。
知りたい。
彼の事を、私は知りたい。
レイの顔に視線を向ける。
彼は少し俯いていて。
その睫毛は、僅かに震えていた。
その姿がなんだかとても切なくて、私は膝の上で拳を握る。
手のひらに巻き込まれたスカートが、渦のように皺を寄せ た。
「わたくしは……」
少し上擦るレイの声。
それでも、その優美な姿勢は崩れない。
「わたくしは、感情を表に出すなと、言われました。喜びも、怒りも、悲しみも、嬉しさすらも。お前の感情など、誰の役にも立たない……。そう、教えられてきました 」
「まるで、他人の事のように話すのですね」
淡々と語られた言葉はどこか遠くて、知らない人の話を聞いているようだった。
「貴方の過去が知りたい。誰が貴方に、そのような酷いことを強いたのか。もし、話せることなら……」
レイは少し驚いたような顔をして、でもすぐに微笑んだ。
六月九日 (水) 雨
私は今日、お嬢様の心の内を聞いた。
彼女の悲痛な叫びが聞こえたような気がして、
私の感情を封じていた蓋が、瞬く間に砕け散った。
だが、それではいけない。
感情を抑えなければ、
私はまた、主を裏切ることになってしまう。
すぐに取り繕ったつもりだった。
だがその脆い仮面は、彼女のたったひと言で崩れて落ちた。
生涯、誰にも話すことはないと思っていた自分の過去。
それを私は、お嬢様の前で曝け出す。
それは、執事としてあってはいけないこと。
私はこれほどまでに脆い人間だったのかと、思い知らされる。
この日、二人のお嬢様は夕食をほとんど残してしまわれた。
あとで召し上がられるよう、取り分けておく。
お嬢様のことが気がかりだ。
しかし、個人的な感情で動くことは許されない。
そう、思っていたのに。
自分の意に反して、足が勝手に動く。
部屋のドアを叩く。
だが、返事はない。
中からお嬢様の気配はしなかった。
それならばと、私は階段を降り、サロンの前へ。
お嬢様はひとりになりたいとき、昼間なら裏庭へ、夜ならサロンへ向かわれる。
サロンに明かりはついていない。
しかし、微かに彼女の気配がした。
ドアを開く。
お嬢様は、こちらを見ることも話すこともしなかった。
ただ、窓の外を眺めておられる。
雨の音だけがしっとりと響くこの空間で、私は足音を殺して彼女の前に歩み寄る。
「お嬢様。お食事はそのまま取ってございます。お嬢様の気が向かれた折に、いつでもお申しつけく ださい」
口からでた、形式的な台詞。
私はそんなことを言うためにここへ来たのではない。
本当に言いたいことは、もっと別にある。
だが私は、常に執事としてあらなければならない。
今の私には、この定められた台詞を口にするのがやっとだった。
お嬢様は、やはり何も答えない。
私はそれ以上話しかけることも、立ち去ることもせず、ただじっと、彼女を見つめた。
ただ見つめることも、罪になるのだろうか。
いつもの私なら、静かに立ち去っていただろう。
けれど今は、この暗闇が許してくれるような気がした。
都合の良い、手前勝手な解釈だ。
こんな感情を持つこと自体が、私には罪だというのに。
「私は間違ってしまった」
お嬢様は、窓に向かって話した。
それは、まるで自分に言い聞かせているかのように。
自分に、問いかけているかのように。
私はただ黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
お嬢様は、多くの人とは違う感性を持ち、それに誇りを持ちながらも、酷く迷っているように思えた。
どこまでも自分に正直であろうとする。
それが例え、他者との関係に溝ができる行為だと分かっていても。
それでも、自分に正直であった結果、他者を傷つけてしまう。
そのことに彼女は、深く傷つき、自分を責めておられる。
誰かと関わろうとするとき、どちらも傷つかない道など存在しないのかもしれない。
自分に正直であれば、相手を傷つけることになる。
しかし、相手を思って自分に嘘をつけば、その心が傷ついてしまう。
その痛みの螺旋から逃げ出した彼女を、どうして責めることができるだろう。
お嬢様は仰った 。
“私は欠陥品なのか”
“私は自分が嫌い”
冷たい声。
その冷たさに、自らが凍えてしまいそうなほどだった。
窓に映る彼女の顔。
その頬に伝ったのは、涙か、それとも窓に流れる雨粒だったのか。
この暗さでは、分からない。
その瞬間、私の口から叫びにも似た声が発せられる。
何故だろう。
私はどんな時でも、感情を抑えられるように躾られてきた。
それなのに、こみ上げてくるその言葉を飲み込むことができなかった。
腹の底で沸々と湧き上がる感情が、声となって口から溢れ出す。
その熱に、喉が焼けるような痛みを感じた。
怒りを感じるのは愚か者のすることだ。
悲しみを感じれば身を滅ぼすことになる。
感情を表に出す。それは、破滅を意味する。
私は蠢く感情に再び蓋をし、平静を取り戻す。
「……申し訳ありません」
お嬢様の視線は窓から私へ移り、その顔は驚きを隠せないようだった。
見開いた目が、まっすぐ私を捉える。
その睫毛が濡れているのを、私は見逃さない。
お嬢様をお慰めしなければ。
それは執事として? それとも――。
分からなかった。
この感情が何であったのか。
ただ私は、飾らない言葉で、思うままを彼女に伝えた。
「貴方は……感情を抑えてしまうのね」
その言葉には、優しさと、少しの寂しさが滲んでいた。
続く言葉に、私は突き刺すような衝撃を受ける。
「どうして? さっきの貴方は、私を思ってくれていると分かって、嬉しかったのに」
嬉しい――?
自分が感情を出せば相手に迷惑がかかる。
感情に従えば、大切なものを壊してしまう。
だから、ずっと抑えてきた。
なのに。
私が感情を見せたことで、お嬢様は「嬉しい」と仰った。
分からない。
何が正しいのか、私にはもう、判断できなくなっていた。
私は何かに縋るように、つい自分の事を話してしまった。
執事であろうと努力してきた私は、このときばかりはただの“レイ”として、お嬢様と向かい合ってしまう。
そんな私を咎めることはせず、 彼女は私を「知りたい」と言う。
私は驚きを隠せなかった。
お嬢様といると、私は封じてきた感情が少しずつ綻んでしまうのを感じる。
そして、それを彼女に預けてみたくなる。
自分を誰かに知ってほしいと、私は生まれて初めて思った。
だが過去を話せば、彼女は私から離れていくかもしれない。
それほどまでに、私の過去は醜く穢れている。
それでも――。
私は、私を知りたいと言ってくれた彼女の気持ちが嬉しくて、自然と笑みが零れた。
「わたくしは……」
私はそっと語り始める。
それは、誰にも語ったことのない、私のすべて。
――わたくしは幼い頃に両親を事故で亡くし、孤児となりました。
そのわたくしを拾い育てたのが、以前の主なのです。
主はある邸宅の主人で、大きな財力と権力を持つ方でした。
体裁上、養子としてその家に入りましたが、実際は主の手足となって働くために拾われたのです。
わたくしは幼少の頃より、「笑うな」 「泣くな」 「目を逸らすな」「相手の欲する言葉を見極めろ」そういった命令のもとで、失敗すれば重い罰、監禁を強いられてきた。
食事すらも「無言で適切な礼儀を守らなければいけない」と教え込まれ、わたくしは“知的で礼儀正しい子供”を演じさせられました。
その結果わたくしは、人の顔色を読み、最も求められる表情を演じる術を、皮膚の下に刻みつけられるように身につけました。
それは“技術”などではありません。
“生存のための本能”でございました。
主は貴族間や資産家同士の“信頼”を利用した詐欺を働いており、商談の場にわたくしを同席させることで、相手を油断させていたのです。
時には、わたくしに重要な書類を偽筆させることもありました。
それは二十年以上続き、大人になる頃にはわたくしは、感情を持たず主の命を忠実に遂行する、完璧なアンドロイドとなっていたのです。
――その家を出るきっかけとなったのは、主から命じられた、ある子供を犠牲にする行為でした。
それは“命令”でした。しかし ――。
ほんの僅かに残っていた、人としての何かが、命令を拒絶したのです。
わたくしは逆らい、主の手によって暴力を受け、命からがらその屋敷を逃げ出しました。
そして彷徨い、行き着いた先で、今の旦那様に拾っていただいたのです。
執事という職は、冷静と礼節を重んじる。
わたくしにとって、それは自らを保つための理想でございました。
けれど――感情に従えば、また何かを壊してしまう。
だから誓いました。
“今度こそ、ただ誰かのために生きよう”と。
語り終わって、初めて気づいた。
私は、知らずのうちに拳を握りしめ、震えていたのだ。
悲しいのではない。私は、嬉しかった。
「お嬢様が、知ろうとしてくださったから……わたくしは、ようやく語ることができました」
誰かに――彼女に、自分を知ってもらえることが嬉しかった。
そして彼女の涙が、私の心をあたたかく溶かしてゆく。
「苦しかったでしょう? ずっと……ずっと、貴方は苦しんできた。私のためにあんなに感情を見せてくれたのに、自分のことには何故そんなに冷静でいられるの? もっと怒ったっていい。悲しんでもいい。嬉しいときには笑ってほしいの。貴方は、執事である前にひとりの人間なのだから」
私は、震えを止める術を知らなかった。
このように感情を露わにするなんて、生涯ないと思っていた。
お嬢様は私をやさしい眼差しで見つめ、微笑まれる 。
「レイ。私は……貴方が感情を露わにしても、どんなことを言っても、傷つかないから」
全身が震えた。
そのひと言が、私にとってどれほど意味のある言葉だったか。
「ありがとう」
そのひと言が、喉元まで込み上げた。
でも、声にはならなかった。
だからせめて、今夜のこの沈黙が、彼女への礼となることをそっと願った。
六月二十一日。
この日は、アリサお嬢様が社交界の集まりでお召しになるドレスの仮縫いが行われていた。
一流の仕立て屋を迎え、奥様とアリサお嬢様は籠りきりでドレスを合わせている。
私は紅茶を命じられ、応接室へ運んだ。
その折、アリサお嬢様の声がドアを突き抜けるように響いた。
「なんですって! ドレスが合わないのは私が太ったからでも姿勢が悪いからでもないわ! この仕立て屋 の腕が悪いのよ!」
その直後、ドアは勢いよく開かれ、仮縫い中のドレスを身に纏ったアリサお嬢様が怒りを露わにした様子で出てくる。
前を見ずに歩いていた彼女は、角を曲がったところで誰かと接触し、尻もちをついた。
駆け寄ると、アリサお嬢様と接触したのが、裏庭の散策から戻られたお嬢様であることが分かった。
「お嬢様方、お怪我はございませんか?」
私は二人に手を差し出す。
アリサお嬢様は私を一瞥したあと、その鋭い視線をお嬢様に向けた。
「あんたのせいでしょ! どこ見て歩いてんのよ! ほら、ドレスの裾が破けちゃったじゃない!」
アリサお嬢様は縫い目の破けたスカートを指で摘み、お嬢様へ詰め寄る。
その指が微かに震えていたのを、お嬢様も気づかれたようだ。
お嬢様の視線は指から顔へ移る。
私はそれを追うように、アリサお嬢様の顔を見つめた。
少し紅潮した頬には、消えかけた涙の跡。
「ごめんなさい。でも……それ、仮縫いだったのでしょう? 大事にならなくて良かったわ」
その言葉に返事はない。
代わりに、アリサお嬢様の瞳に涙が滲む。
彼女は波立つ瞳で、お嬢様をじっと睨んでいた。
その視線に何かを感じ取ったのか、お嬢様はやさしい口調で問いかける。
「誰かに……何か、言われたの?」
「……あんたに関係ない」
涙を堪えるその声は少し震えていて。
それでも彼女は、どこか気丈に振舞おうとしていた。
お嬢様は彼女に手を差し伸べる。
「関係あるわ。妹が、こんなに苦しそうにしているんだもの」
差し出されたその手を、アリサお嬢様は戸惑いの目で見つめている。
彼女は手を取ることなく、ひとりで立ち上がった。
「ドレスが……」
「え?」
アリサお嬢様は口籠る。
唇が何かを伝えようとして、何度も開いては、そのたびまた閉じる。
それを何度か繰り返して、ようやく彼女は呟いた。
「ドレスが、似合わないって。私が太ったせいだとか、姿勢が悪いせいだって、お母様が責めるの。大事な集まりだから、完璧な見た目でなくちゃダメだって……」
「まあ……それは辛かったでしょうね。そのドレス、私は似合っていると思うわ。存在感のあるフリルが、華やかな貴女にぴったりよ」
「……なによ。笑わないの? そんなことでって、呆れないわけ?」
アリサお嬢様は両手を握りしめる。
その手がドレスの布を巻き込み、深い皺を刻んだ。
「笑わないわ。だってドレスを選ぶのって、一大イベントだもの。“そんなこと”なんかじゃない。女の子 にとっては、とても大切なことよ。そうでしょう?」
お嬢様はやさしく微笑みかける。
いつかの夕食で二人に不穏な空気が流れてから、彼女たちは会話もなく、視線すら交わさなくなっていた。
アリサお嬢様のあれは――はっきり言ってしまえば、お嬢様に対する八つ当たりだった。
しかし、お嬢様はこうして彼女に手を差し伸べる。
その情の深さに、私は心の中で静かに頭を垂れた。
少しの沈黙のあと、アリサお嬢様はくるりと背を向けて言った。
「さっきは……ごめん」
お嬢様には見えていないだろう。
しかし、私にははっきりと見えてしまった。
涙を湛え、紅潮した頬。
でも唇は、嬉しさを嚙み殺すように、きつく結ばれていた。
お嬢様の優しさ、思いやりがアリサお嬢様の心に確かに届く。
それを受け取った彼女の眼差しがほんの少し、柔らかくなったように思えた。
それからアリサお嬢様は、お嬢様に対する態度が少し、変わられたように思う。
ぎこちないけれど、すれ違えば挨拶を交わし、お嬢様に嫌味を言うこともなくなった。
しかし、二人が笑顔で会話をするには、まだ少し、時間がかかりそうだ。
私はそれを、陰からそっと見守ってゆきたいと思う。
私はこのとき、まだ知らなかった。
振り向けばすぐそこまできている七月の息吹。
その月が私を、もう後戻りできないところまで深く、深く沈めてゆく。
七月は、静かな心に火を灯す。
それは蝉の声に似て、最初は遠く、やがて煩く、
けれどどこか、懐かしく胸に響く。
熱く乾いた風は心の燻りを火に変え、
強い日差しは隠していた想いを照らし出し、
盛夏の始まりに、閉じ込めていた感情が一気に溢れ出す。
七月。
それは、感情がひときわ濃く揺れる、情熱の月。




