3 ハナミズキ
ハナミズキの花言葉「感謝、返礼」
いつも良くしてくれる執事レイ。彼に、なにかお礼がしたい。でも直接伝えるのは恥ずかしい。内気で人付き合いの苦手な令嬢が選んだ、感謝を伝える方法とは――?
そして、それを受け取ったレイのなかに、何かが芽生え始める。
五月八日 土曜日
今日は、幼馴染のケントが訪ねて来ました。
まだ私がこんな性格になってしまう前、
幼い頃からの付き合い。
学校に行けなくなってから、ケントとは距離をおいていた。
でもケントは数カ月に一度、こうして遊びに来るのです。
私の態度にも、嫌な顔ひとつせずに接してくれる。
私は相変わらず顔を見て話すことはできないけれど
彼の前では少しだけ、素の自分でいられるような気がします。
「お嬢様」
ドアを優しく叩く音。
続いて、レイの柔らかな声がふわりと届く。
「お嬢様。ケント様、と仰る方がお見えになっておりますが」
「ああ……ケントさんは私の幼馴染なのです。ありがとう、すぐに行くわ。それと……お茶は外のティーテーブルに運んでいただけますか?」
ケントが来るのは何カ月ぶりだろう。
学生の頃は毎週のように訪ねてきていたが、大人になってからは仕事が忙しいようで、あまり会うことはなくなっていた。
私はできるだけ人と会いたくはないのだが、何だ彼だケントのことは断れずにいる。
待合室にいるケントを連れて庭へ出る。
上品な白いアイアンのティーテーブル。
緑に囲まれ、陽の光に映えるその姿は、まるで時を忘れる午後のために存在するかのよう――。
私ひとりなら、間違いなくそんな素敵な時間を過ごせただろう。
だがケントは、優雅とは程遠い、賑やかな性格なのだ。
賑やかな人は苦手。
でも、ケントは不思議と、嫌な賑やかさではないのだ。
「久しぶりだな。元気してたか?」
緩いくせのある赤毛に陽の光が透けて、まるで見ごろの紅葉のように燃えている。
また少し、頬のそばかすが増えたようだ。
「ええ。貴方も元気でしたか?」
ケントはこの数カ月の出来事を矢継ぎ早に話す。
私は紅茶を飲み、時折り相槌を打ちながらその話に耳を傾けた。
――ああ、ケントがあまり苦手でない理由が分かったかもしれない。
彼は自分の話をするとき、あまり私に返事を求めない。
ただ頷いているだけで良いのだ。
意見や感想を強要されない感じが、私には心地良いのかもしれない。
ただ、叶うなら少しだけ、声の大きさを抑えて欲しいとは思う。
「そうそう、本題を忘れるところだった」
「本題?」
ケントはジャケットの内ポケットから封筒を取り出すと、それを私に手渡す。
薄い黄色の封筒。
表には、「招待状」と書かれていた。
「俺の誕生日パーティーの招待状。予定、空けておけよな」
「ケントさんの誕生日なら……たしか八月ね。でも私、パーティーなんて……」
そう。私がパーティーだなんて社交的な場所に行けるとは思えない。ケントも知っているはずなのに、どうして――。
「大丈夫。友達は誰も呼んでないんだ。みんな仕事で関わってる大人たち。しかもほとんど年上のおじさん、おばさんばっかだ。それなら多少は平気だろ? お前、一度も俺の誕生日パーティーに来てくれたことないからさ。今回はお前の苦手な人は誘わな かったんだ」
「え、私のために友達を誘わなかったの? どうしてそんな」
私は驚きのあまり、思わず椅子から立ち上がりそうになる。
テーブルに両手をついた拍子に、紅茶が小さく波を立てた。
「そりゃあ、お前に祝ってほしいじゃん? なあ、いいだろ? 今年だけでもいいからさ」
ここまで言われてしまっては、断るに断れない。
「……分かったわ。少しだけ、なら」
「よかったー! 断られたらどうしようって不安だったんだ」
心から嬉しそうに、大きな口で、大きな声で笑うケント。
本当ならそういうタイプは苦手なはずなのに、何故かつられて、私も笑みがこぼれる。
不思議だ――。
レイの前ではあんなに緊張するのに、ケントの前ではこんなに自然に笑ってしまう。
「じゃ、ダンスの練習しとけよな」
ケントは紅茶を一気に飲み干すと、せわしなく立ち上がる。
「え、待って。ダンスって……」
「誕 生 日 。 ダ ン ス パ ー テ ィ ー だ か ら 。 招 待 状 に 書 い て あ る ぜ 」
そう言ってケントはケラケラと笑った。
私が封を開ける前に約束を取り付けるなんて。
と、彼のしたたかさに少しの怒りと感心を覚える。
「お嬢様」
ケントが帰ったあ と、私は少しの間、庭に咲く花を眺めていた。
行くと言ってしまった以上、約束を違えるわけにはいかない。
だが、ダンスは苦手だ。
もちろん、教育の一環として幼い頃に習ってはいる。
でも家に籠るようになってからは、ダンスなんてもう何年も踊っていないのだ。
そんなことを考えていると、不意にレイの呼ぶ声がする。
彼がすぐ近くまで来ていたことに気づかず、驚きのあまり肩が跳ねた。
「カップをお下げしてもよろしいでしょうか」
たったひと言。いつもの会話。
なのに、やはりケントのときと違って身構えてしまう。
「あ、はい。お願いします。すみま……あっ」
謝りかけて、私は慌てて口を押えた。
レイに、この癖を直すように誓ったばかりなのに。
どうしても、その言葉は流れるように口からこぼれてしまう。
そんな私の様子を見て、レイは柔らかく微笑んだ。
「お嬢様。わたくしには謝罪も感謝の言葉も不要でございますが、もしお嬢様が“変わりたい”と望まれるなら……」
レイは静かに片膝をつき、あくまで礼儀の範疇で私を見上げた。
だがその眼差しは、どこまでもまっすぐで、儀礼の仮面を超えたもののように思えた。
俯く私の顔を、否応なしに見つめられてしまう。
すべてを見透かす、その深い湖のような瞳で――。
心臓が、大きくうねる。
「どうか、“すみません”の代わりに、“ありがとう”と仰ってみてください。そうすれば、貴女の世界は忽ち、鮮やかに色づくことでしょう」
どうしてだろう。
ケントと目が合っても、ケントの笑顔を見ても、こんなに苦しくなることはなかった。
レイを見るだけでこんなにも苦しくなるのは、なぜ――。
私は口を覆っていた手を下ろし、レイの目を見つめる。
「あ……ありがとう、レイ」
彼の笑顔が一層柔らかく、明るくなったような気がした。
レイはいつでも私に正しい道を示してくれる。
否定することは決してなく、こんな私を受け入れてくれる。
その優しさに、何かお礼をしたい。
言葉で感謝を伝えるのが一番良い方法だとは思う。
だが私にはそれが難しい。
花を眺めながら、屋敷の横を通って裏庭へ向かう。
屋敷の表、メインの庭には季節の草花が色とりどりに咲いている。
一方裏庭には、ハナミズキ、ハクモクレン、ミモザなどの花木が植えられていて、私はこちらの方が好きなのだ。
ひとりで考え事をするときは、必ずこの裏庭を散策する。
ふと風に乗って、爽やかな香りが辺りに満ちてゆく。
ハナミズキ――。
私は思い立って剪定鋏を取りに行く。
花と葉が美しくついている枝。
その枝の根元を斜めに切り、余分な葉を間引く。
「これだけでは、少し寂しいかしら」
部屋へ戻り、ラッピング用のリボンを纏めた箱を取り出す。
赤、白、青――。
あの人は、どんな色が好きなのだろう。
箱の中に所狭しと並んだ数十種類のリボンに指を滑らせる。
ふと、深みのあるロイヤルブルーに指が止まった。
気品に溢れ、レイの優美さと静けさに通じる色。
ハナミズキの白にもよく映える。
太すぎず、細すぎない。
そのロイヤルブルーのサテンと、隣にある同系色のオーガンジーを手に取った。
サテンの上にオーガンジーを重ね、ハナミズキの枝に蝶結びをする。
リボンの端は、まるで燕尾のように優雅に、斜めにカットをして。
机の引き出しからレターセットを出そうとして、思い直す。
長々と手紙を書いてしまうのは、どこか違う気がした。
小さなメッセージカードを一枚。
そこに、ひと言だけ感謝の気持ちを綴る。
“貴方の優しさに、いつも救われています”
“気づかぬところで支えてくださる貴方へ。感謝を込めて”
何を書いたら私の感謝を伝えることができるのか。
ペンを持った手がぴたりと止まる。
言葉にすれば、嘘になってしまうような気がした。
だから、そっと添えるだけにした。
私が、彼に一番伝えたいこと。
それは――。
午後六時。
この時間、レイはいつも夕食準備のため、配膳室にいることが多い。
私はハナミズキの枝とカードを持って、一階の執務室へ。
直接会って渡すのはまだ恥ずかしい。
だから、彼がいない時間を狙って、執務室の机にそっと置いてくる。
初めて入る執務室。
無駄なものは一切置かず、しっかりと整理整頓された机。
その中央に、ハナミズキを一枝。
そして、枝に隠れるように控えめにメッセージカードを置く。
名前は書かなかった。
なんだか気恥ずかしくて、でも、感謝は伝えたくて。
ひと言だけ添えたメッセージと、ハナミズキの花言葉。
私の気持ちを、少しでも彼に伝えることができたなら――。
彼の香りが残る空間をそっと見渡し、私はその場を離れた。
午後七時。
レイが、夕食の時間を知らせにやってくる。
いつものように丁寧なノックの音。
ドアの隙間から彼の姿が見えた瞬間、私は思わず視線を逸らしてしまう。
贈り物に気づかれてはいないだろうか。
彼があの部屋に入るのは、きっと夕食のあと。
だからまだ、ハナミズキを見ていないはず。
そう、自分に言い聞かせる。
「お嬢様。夕食のご用意が整いました」
「……ありがとう。すぐに行くわ」
彼は一礼し、何も言わずに去ってゆく。
気のせいかもしれない。
けれど、その背中が、どこか――いつもより少し、柔らかい気がした。
フォークの先が、皿の上の子牛のソテーを押さえたまま止まっていた。
熱々だった料理の湯気がいつの間にか薄れている。
私は、ナイフを動かすことも、視線を戻すこともできずにいた。
視線の先には、給仕として静かに控えるレイ。
彼はいつも通りの所作で皿を下げ、静かに歩く。
でも――。
あの花に、気づいたのかしら。
気づかれていないのかしら。
問いかけがぐるぐると頭を巡り、味覚すら遠のいてゆく。
舌の上に広がるはずだったソースの香りも、心までは届かない。
まるで、胸の奥で何かが詰まったような感覚だった。
「お味は、いかがでしょうか」
レイのいつもの問いかけ。
けれど、今日はそれが、何かの“確認”のように聞こえてしまう。
私の贈り物に気づいて、その上でこの問いかけをしているのだとしたら――。
私は僅かに頷き、「美味しいです」と言うのがやっとだった。
でもその答えは、料理の味ではなく、彼の声に返したものだったのかもしれない。
午後十時。
彼はきっと、もうあの花を見ただろう。
私からだと気づくだろうか。
もし気づかなくても、感謝の気持ちだけ伝わればいい。
“誰かが貴方に感謝しています”と、それさえ伝われば。
――嘘。
やっぱり、気づいてほしい。
直接は伝えられなかったけれど、私は確かに感謝しているのだと、貴方に知ってほしい。
名前を書かなかったメッセージカード。
私からだと知られるのが恥ずかしかった自分と、それでも知ってほしいと願う自分。
私は、矛盾している。
私はそっと窓辺へ行き、 外を見上げ た。
下弦の月が、雲に隠れて仄めいている。
私のなかの靄がかった感情が、静かに、ゆっくりと、月に吸い込まれてゆくような気がした。
このまま、ハナミズキに託した想いも月に流れ、その光が貴方のもとへ降り注げばいいと、そう願った。
五月八日(土) 快晴
本日、お嬢様の幼馴染であるケント様がいらっしゃった。
彼は静謐なお嬢様とは反対に、快活な方だった。
ケント様に対するお嬢様の微笑みは、
とても自然で柔らかいものだった。
夕食の前、執務室に戻ると、
机にハナミズキの枝とカードが置かれていた。
差出人の名はなかった。
だが、私にはすぐに
それが誰からのものか、分かってしまった。
太陽が僅かに傾きはじめた午後三時。
お嬢様を訪ねて、幼馴染のケント様がお見えになった。
お嬢様に命じられ、庭先のティーテーブルまでお茶をお持ちする。
抜けるように澄んだ青空。
少し金色を帯びたやわらかな日差し。
草木の匂い、土の香りが、風に混じって鼻を掠めてゆく。
白いアイアンのティーテーブルが、光を受けてきらきらと輝いていた。
私は歓談の邪魔にならぬよう、そっとカップを置き、静かに一礼してその場を去る。
背中に、お嬢様の笑い声がまるで、窓辺に跳ねた光のように弾ける。
ケント様の隣で、ほんの少しだけ――いつもより、声が柔らかかった。
そんな彼女を、私は初めて見たのだ。
たまらず目を伏せる。
それが、どれほど自分にとって眩しく、そして遠いものだったか、私は知ってしまった。
石畳にほんの僅か、靴音が鳴ってしまう。
それを悟られぬように、私は平静を装って歩き出す。
柔らかな灰色の影が、地を撫でるように寄り添ってきた。
けれどその影すらも、今の私には遠く思えた。
「あ、レイさん。ただいま戻りました」
買い物に出ていたアナが両手に袋を抱えて帰ってくる。
「ご苦労様です、アナ。こちらの食材はわたくしが厨房へ運びましょう」
「ありがとう。では、私はバルコニーの掃除をしてきますね」
私は一体、どうしてしまったのか。
掃除に向かおうとするアナを呼び止め、私らしからぬ行動に出る。
「アナ。少し手が空きましたので、バルコニーの掃除はわたくしがいたします。貴女はお嬢様方のお部屋をお願いできますか?」
「え、ええ。分かりました」
何故、私は見ようとしてしまうのか。
バルコニーの手摺に布を当てる。
視線の先にあるのは塵でも汚れでもなく――。
陽だまりのなか、ふと零れた貴女の笑顔だった。
何故だか気になる。
それは、私の知らない表情だからか。
それとも――。
我知らず手摺を握りしめていた。
手のひらと手摺に挟まれ、布がくしゃりと 皺 を 寄 せ る 。
「お嬢様」
ケント様のいなくなったティーテーブルで、彼女はスズランを眺めていた。
ひっそりと佇むその姿が、私の目には、可憐で玲瓏なスズランそのもののように映った。
声を掛けると、お嬢様は驚かれた様子で目を見開く。
「カップをお下げしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい。お願いします。すみま……あっ」
彼女は慌てて口を覆った。
「 す み ま せ ん 」 「 ご め ん な さ い 」
お嬢様の口癖だ。
長年染みついた癖というのは、努力してすぐに直るものではない。
だが彼女は、申し訳なさそうに視線を落とす。
私が以前助言申し上げたことを、彼女なりに愁苦しているのだ。
お嬢様の前にそっと膝をつき、俯いたその顔をやわらかく見上げる。
失礼のない視線で――。
そう思っても、彼女の歯痒さに歪んだ表情を見てしまった私は、その瞳から視線を逸らすことができなかった。
心臓が一拍、 確かに乱れた。
すぐに息を整え、何事もなかったかのように微笑む。
「どうか、“すみません”の代わりに、“ありがとう”と仰ってみてください」
その瞬間、膝に落ちていた彼女の視線がまっすぐ私を捉える。
「ありがとう、レイ」
少し照れながら眉を顰める。
それでも、私の目を見て離さない。
このときの私は、あれほど磨いてきた整然たる微笑の仮面を、何故かつけることができなくなっていた。
執事としてではない、ただの“レイ”としての笑みが零れる。
午後六時。
私は配膳室で夕食の準備を進める。
前菜はホワイトアスパラガスの冷製ムース、生ハムを添えて。
スープはさっぱりとヴィシソワーズを。
メインには柔らかな子牛のソテーを、レモンバターソースで。
そしてデザート。お嬢様の好きな、レモンのタルトレット。
食器はホワイトで統一し、それぞ れの料理を引き立たせる形状のものを丁寧に選ぶ。
食事の時間を苦手とされているお嬢様に、少しでも楽しんでいただけたら。
そう思って、私は食器を並べる。
白地に金の縁が美しいデザート用のプレート。
置きかけて、やはり棚に戻す。
お嬢様の気分を華やかにしてくれる食器。
それなら、こちらの方が良いだろう。
選び直した、淡い黄色の花柄のプレート。
この食器を見つめる彼女の姿を想像して、静かに、慈しむように、プレートを重ねた。
午後六時四十分。
思いのほか早く夕食の準備が整ったため、一度執務室へ戻る。
ドアを開けると、微かに流れてくる、上品な香り。
――ハナミズキ。
机にぽつんと置かれた、白く清らかなハナミズキの一枝。
それを結わう、ロイヤルブルーのリボン。
添えられていたカードを手に取って、その指が、微かに震えた。
小さなカードに書かれていた、たったひと言。
“ただ、ありがとう。心から”
名前は書かれていない。でも――。
「お嬢様……」
私はその筆跡を指でなぞる。
カードを丁寧に、机の引き出しへ仕舞う。
そして剪定鋏を取り出し、ハナミズキの枝をそっと手に取った。
切り口を、迷いのない手つきで斜めに切り直す。
枝先が、私の手の中で小さく鳴いた。
まるで感情の在り処を教えるように。
アンティーク風の、銀製のフラワーベースに枝を生ける。
白いハナミズキを支える小坪型のそれは、まるで神聖な神器のように、光を淡く反射した。
午後七時。
お嬢様の部屋の前。
ドアを静かにノックする。
「お嬢様。夕食のご用意が整いました」
「……ありがとう。すぐに行くわ」
短いやり取り。
けれど彼女の声が、どこか緊張していた。
私はただ、何も触れずに一礼して去った。
彼女の想いを、軽んじたくなかった。
心に残る、あの一言――。
“ただ、ありがとう。心から”
たったそれだけの言葉に、溢れるほどの想いが込められている気がして。
胸の奥に、静かに灯りがともるのを感じていた。
それは熱くはないけれど、ずっと消えずに燃えていそうな、小さな灯。
メイン料理。子牛のソテーは、お嬢様の好物のはずだ。
しかし、ナイフを握る手が止まっている。
「お味は、いかがでしょうか」
子牛は上等なものを用意し、火の入り具合も完璧だ。
だが。
「美味しいです」
そう呟いた彼女の瞳が揺れ、視線が手元に落ちる。
嗚呼、この方は――。
その視線の揺らぎに、私は胸の内がさざめくのを感じた。
どれほどの想いで、どれほどの勇気を振り絞って、この方は執務室のドアを開けたのだろう。
カードに文字をしたためるとき、ハナミズキの枝を手折るとき、彼女は震えていたに違いない。
緊張、含羞、不安。
それでも、伝えようとしてくれる熱意。
私は込み上げてくるものを必死に抑え、一礼する。
その短い礼の中に、心よりの敬意と感謝を込めて。
午後十時。
執務室へ戻り、日報を書く。
ふと机に飾ったハナミズキが目に留まる。
『感謝・返礼』
ハナミズキの花言葉。
そして、カードに書かれた「ありがとう」。
目を閉じ、その言葉を噛みしめる。
「……感謝しているのは、私のほうです」
私は生けた枝から、小ぶりの一輪をそっと摘む。
それを丁寧にペーパーの間に挟み、重しの本を乗せる。
この大切な思い出を、なにか形として残したかった。
施錠の確認を終え、自室へ。
明かりをつけようとして手が止まる。
窓から差し込む白い月明かりが、私を呼んでいる気がした。
窓を開けると、風に乗ってハナミズキの香りが流れ込む。
見上げれば、あの花びらのように、やさしく輝く下弦の月。
この光が、お嬢様の優しい心をそっと、包みこんでくれますように。
そう願って、静かに窓を閉じる。
五月十五日。
厚みのある本を、両手で慎重に持ち上げる。
綺麗に乾燥したハナミズキの一輪。
折れはなく、変色もしていない。
私はそれをピンセットで摘み、上品なライラックの台紙に乗せた。
台紙の裏。右下に、小さく記す。
“ t h e 8 t h o f M a y ”
その特別な日を、栞として残す。
ハナミズキの枝に結ばれたロイヤルブルーのリボン。
それをヒートカッターで細く整え、ラミネートした台紙に結ぶ。
彼女から贈られた花とリボンが、読書の時間にそっと寄り添う。
それは、ふたりだけの、静かな約束。
お気に入りの古い本。
濃紺に金の箔押しが施されたそれに、そっと栞を挟む。
だが、その頁を読んでいたわけではない。
ただ彼女を想いながら開いたその頁に、この“約束の栞”を忍ばせていたかっただけだ。
本を閉じ、ハナミズキの横へ。
やさしく寄り添うように置く。
目に入るたび凍てついていた感情が少しずつ、音をたてて解けてゆく。
何年もかけて凍りつかせてきた感情、欲望。
それらが、たったひとりの女性のために崩れてゆく。
それが空恐ろしくもあり、少し――心地良い。
そう思ってしまった自分に、また胸がざわめいた。




