2 クチナシ
クチナシの花言葉「優雅、洗礼」
「ごめんなさい」
それは、自分を守るためのおまじない。穏やかに生きるための防波堤。でも、その言葉は自分の心に対して不誠実なのだと教えてくれた人がいる。悪くないのに謝ってしまう癖を、令嬢は生まれて初めて、心から直したいと思った。そんなときに目にした、執事レイの優雅な佇まい。彼の洗練された所作のなかに、ほんの少しの切なさを見る。
四月一日 木曜日
今日から使用人が増えました。
メイドのアナと、シェフのジョーです。
今まではレイが全てひとりでやっていたので、
これで少しでも彼の負担が減るといいのですが。
そして今日、私は昼食のときに酷く傷ついてしまった。
アリサが、私の知られたくない過去を
皆がいる前で話してしまったのです。
私は恥ずかしくて、情けなくて、悲しくて。
でも、レイが私の傷をそっと守ってくれたような気がして。
それだけで今日は少しだけ、眠れる気がします。
「お嬢様。昼食のご用意ができております」
「ありがとうございます、アナ」
午前中にこの家へ来たアナは、レイから業務内容についての引継ぎを受けたあと、さっそく昼食の準備をするところから動いている。
アナは、私よりも少しだけ年上に見える。
長い髪を低い位置で一つに纏め、切れ長の目が凛とした印象だ。
食事の時間はあまり好きではない。
形ばかりの、家族団らん。
アリサは料理の皿が運ばれてくるたび、足をばたつかせて感想を述べた。
これは美味しそうだとか、これは良い匂いだとか、嬉しそうにはしゃいでいる。
「ちょっと!」
不意にアリサが大きな声をあげる。
「これニンジンが入ってるじゃない。私、ニンジン嫌いなのよ。こんなのいらないわ!」
アリサは皿をこちらへ押しやった。
その皿が私のグラスを倒し、水がテーブルに広がる。
「あら、ごめんなさぁい。手が滑っちゃったわ」
私は何も言わずにナプキンで水を拭った。
妹の嫌がらせにも、それを母が楽しんでいることにも慣れている。
ここで私が動じれば相手の思うつぼ。
それでも、こんなことが続けば少しだけ――神経がすり減ってしまう。
「……アリサお嬢様」
不意に、後ろに控えていたレイがアリサの耳元で小さく囁く。
「ナプキンはお膝の上におかけになった方が、より優雅にお召し上がりいただけます。……ああ、お気になさらず。ただ少々、気になりましたので」
優しいけれど、いつもより僅かに低い声。
注意されるなんて思ってもいなかったのだろう。
アリサは顔を赤らめ、でもそれを誤魔化すようにわざとらしく笑った。
「なによ。執事のくせに、私に命令するつもり? ばっかみたい」
レイは何も言わず、静かに私のグラスとナプキンを新しいものに取り替えた。
いつもと変わらない表情、手つき。
少し、怒っているように見えたのは、私の勘違いだったのだろうか。
それからアリサも母も何も話さなくなり、空気が悪いまま食事を終えた。
そして食後のお茶をいただいているとき、アリサは不意に笑い出す。
「そういえばさ。お姉様って学生の頃、お友達が一人もいなかったんですってね。誰とも話せず、いじめられて、最後には不登校になったとか。あはは、かわいそー」
アリサはこういう人。それは分かっていた。
でも――。
「いるよねぇ、そーゆーひと。何考えてるのか分からなくて怖 いのよね。ねえ、いじめってどんなことされてたの?」
ここには、レイもアナもいる。
彼らには――聞かれたく、なかった。
痛みや苦しみを我慢するのは得意だ。
でも、自分の意思とは関係なく、勝手に込み上げてくる涙を堪えるのは苦手。
これ以上追及されれば、私はここにいる全員の前で無様に泣くことになるだろう。
こうなったアリサはきっと、止まらない。
私は諦めていた。
ほんの少し、打ち解けることができたレイ。
でも過去の私を知られてしまった今、彼にどう思われているのか。
それを知るのが、どうしようもなく怖い。
私は顔を上げることができなかった。
どんな顔をしてアリサを、レイを見ればいいのか分からなかった。
「アリサお嬢様」
再び、レイはアリサに視線を向ける。
その声は少しだけ鋭く、私の耳を掠めていった。
「ご家族の間柄であっても、語られぬ過去には敬意を持つべきかと存じます」
「な、なによ。ただの冗談じゃない」
執事として粛々と振舞ってきたレイが家族の問題に口を挟むなんて、珍しいと思った。
同時に、私を庇ってくれたのではないかという考えが頭をよぎる。
――都合の良いように考えては駄目だ。
もし違っていたら、 傷つくのは自分なのだから。
それでも、レイはやはり他の人とは違う、無害な人なのだと思った。
「お嬢様」
レイが部屋のドアを開けると同時に、ダージリンの爽やかな香りが漂ってきた。
もう午後のお茶の時間らしい。
昼食のあと、私はずっと原稿と向かい合っていたけれど、ほとんど進まなかった。
アリサの言葉が、頭から離れない。
紅茶がカップに注がれる音。
この音は、なんだか落ち着く。
「お嬢様。本日は“嘘”をついてもよい日なのだとか」
レイは紅茶の入ったカップを私に差し出す。
四月一日。エイプリルフール。
彼に、聞いてみたいことがある。
直接聞くことを躊躇っていたけれど、嘘でいいのなら、口に出すことができるのかもしれない――。
「では、この茶葉の名前は……“私に失望した”……かしら」
「それは……“嘘”、でしょうか」
レイは困ったように眉を顰める。
そこに、いつもの微笑みはなかった。
私は、彼になんと言ってほしかったのだろう。
どちらにせよ、レイが答えられるはずがないのに。
私は取り繕うように微笑む。
「ごめんなさい。面白くない冗談だったわ。忘れてください」
紅茶をひとくち、飲み下す。いつものダージリンが何故か、少し苦かった。
四月十八日。
今日はアリサの誕生日。
友人らを招き、一日中パーティーをしている。
私は賑やかなところが苦手なので部屋に籠っていたいのだが、庭の花に水をやるために外へでた。
専属の庭師はいない。
水やりはレイやアナがやると言ってくれたが、私は花が好きなので自分でやらせてほしいと頼んだ。
ホールへ降りると、アリサの招待客が数人、立ち話をしている。
私はできるだけ気配を消して通り過ぎようとした。
だが、その甲斐なく声をかけられてしまう。
「あれ、あなた、アリサちゃんのご家族ですか? パーティーに は顔を出さないの?」
「え……と、私は……」
私は若い女性が苦手だ。
いつだって群れていて、周りに同調を求め、そこから外れる者があれば一斉に攻撃する。
嫌がらせも陰湿なものばかり。
動悸がする。息が苦しい。声が出ない。
「ちょっと、そこで何してんのよ」
アリサは私を睨みつけながら、苛立ちを含んだ歩調でこちらへ向かってくる。
「あんた、今日は顔を見せるなっていったわよね」
「あ……ごめ……なさい」
アリサは私の存在を恥だと思っている。
不思議ではない。活発なアリサの姉が、こんなに陰気な女だとは知られたくないだろう。
「アリサちゃん、この人は?」
「ああ。うちの使用人よ。役に立たないから今日は出てくるなって言っておいたのに。ほんと使えないんだから。ほら、そんなことより戻りましょう。お料理が運ばれてくる頃よ」
アリサたちはパーティー会場である食堂へ戻っていく。
「ごめん、なさい……ごめ……」
誰もいなくなったそこに向かい、私は謝り続けた。
クチナシ、シャクナゲ、スミレ――。
庭の花壇には、常に私の好きな季節の花が植えられている。
花を眺め、風に漂う香りに包まれている時間。
そのときだけは、私は嫌なことを忘れられる。
「にゃー」
「ステラ。今日はいいお天気ね」
白猫のステラ。
嵐の日にこの庭で体を震わせていた子猫。
雨が止むまでと思ってお世話をしていたら、 すっかり住み着いてしまった。
ステラとなら、私は自然体で話すことができる。
私の、唯一のお友達。
水やりが終わり、私はアリサに見つからないことを祈りながら部屋へ戻る。
階段の手前で、レイとアナが打ち合わせをしていた。
邪魔をしないように通り過ぎようと したが、アナは私に気づいて呼び止める。
「お嬢様。そろそろお食事のお時間ですが……食堂が使用中ですので、お部屋へお持ちいたしますか?」
「あ、そうね。部屋へ……お願いできますか? お手数かけてごめんなさい」
アナは私によくしてくれる。
なのに、やはり若い女性というだけで全身が強張る。
こんな態度では、 アナに失礼だと分かっているのに。
アナに不快な思いをさせてしまうのに。
どうしても、緊張が解けない。
申し訳なさと自分への怒りで消えてしまいたくなる。
「ごめんなさい……あの、では」
「いいえ、お嬢様。お食事、すぐにお持ちいたしますね」
アナは笑っていた。
それがまた辛くて、私は階段を駆け上がる。
食事を持ってきてくれたときも、アナは変わらず笑顔だった。
この人もレイと同じで、私を嫌だとは思わないのだろうか。
それともメイドとして、本心を笑顔の仮面で隠しているだけなのだろうか。
他人には期待しないと決めていたのに――私は前者であってほしいと、そう、願ってしまっていた。
私は午後のお茶の時間が好き。
もともと紅茶は好きだったけれど、レイの淹れてくれる紅茶は格別だ。
同じ茶葉を使っているのに、自分で淹れるときとは風味がまるで違う。
それに、 レモンやタイム、ミルク――
その日の私の気分、体調に合わせて仕上げてくれる。
でも少し、申し訳ないのだ。
自 分が飲むためのお茶を人に用意してもらうのは、未だに慣れない。
「お嬢様。本日のお茶は、アールグレイに少しだけレモンを落としてございます。お口に合えばよろしいのですが」
私は人の目を見て話すのが苦手だ。
だからレイと話すときも、私は彼の手をいつも見ている。
長くてすらりと伸びた指は、どんなときでも乱れることなく揃っていて美しい。
カップを私の前に置く。
その指先がソーサーの縁から離れる僅かな瞬間。
その一瞬にさえも、隙はまったく見られない。
「……ありがとうございます。わざわざ、すみません」
「お嬢様のための務めでございます。どうかお気になさらず」
私はレイの顔を見ない。
でも、 私の横顔に、微かに彼の視線を感じる。
人に見られながら食事をしたりお茶を飲むのには抵抗がある。
私はカップに描かれたスミレの模様を指で撫でた。
レイは、ただ静かに私の斜め後ろで控えている。
「あの……本当にすみません。いつも私のために、よくしていただいて。それに言葉もぎこちなくて……不愉快ではないですか?」
私はカップを見つめたまま彼の気配に向かって言う。
少しの間のあと、レイは静かに答えた。
「なぜ、謝られるのですか?」
私は人の顔を見て話すことができない分、声の気配には敏感だ。
僅かな声の揺らぎや言葉の裏に隠れた冷たさに気づいてしまうことが多い。
今のレイの声には、少し、悲しみの色が見えた。
「……私は昔から、誰といても、うまく話せません。以前の、ア リサの発言を聞いていたでしょう? 黙 っていても空気が重くなるし、話しても失敗する。だから、先に謝ってしまうんです。責められる前に……謝れば、少しは軽くなるから」
レイは黙ったままだ。
私は、また失敗したのだろうか。
こんな話を聞かされても、きっと困るだけだろうに。
私はこんな自分を変えたいといつも思っていた。
思っていただけで、行動に移すことはできずにいた。
でもレイなら、私を助けてくれるかもしれない。
そう思ったら、勝手に言葉が出ていた。
「レイ。私のこの癖……駄目だと思うでしょう?」
「お嬢様。わたくしは……」
何かを言いかけて、レイは言葉を飲み込む。
カップから、レイへ視線を移す。
いつもまっすぐに私の顔を見て微笑んでいるレイが、少し俯いていた。
執事という立場で、私に意見することを遠慮しているのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。彼はアリサのテーブルマナーを注意していた。
では、なぜ――。
「レイ。正直に言って。私は、自分を変えたいのです」
レイは顔をあげ、でもまだ少し戸惑いながら、私を見つめる。
「お嬢様。それは……長く、おひとりで耐えてこられた証かと存じます。けれども、もし悪くないのに謝 っておられるなら、それは、ご自身の誇りに対して、 ほんの少しだけ不誠実でいらっしゃいます」
「誇り……ですか」
「はい。お嬢様がどれほど繊細なお心をお持ちか、わたくしには少しずつ分かってまいりました。どうかその心を、ご自身が一番に守って差し上げてください」
謝ることに疑問を感じたことはなかった。
私が謝ることで場がうまく収まるのなら、たいした問題ではないと思っていた。
保身のために謝ることが、自分の誇りを傷つけることになるのだろうか。
彼の言ったことを全て理解できたわけではない。
でも、彼は私の心が繊細だと言ってくれた。
その心を守れと言ってくれた。
それなら私は――彼の事を少しだけ、信じてみたい。
「わたくしがこのように申し上げるのは、お嬢様を否定するためではございません。お嬢様が、これ以上ご自分を責めずにすむようになってほしいと、心から願ってのことでございます」
「分かっています。ありがとう、レイ。貴方の言う通りなのだと思います。すぐには難しいかもしれないけれど、私、頑張ってこの癖を直していきます」
レイは嬉しそうに微笑んだ。
視線が交差して、私は慌てて目を逸らす。
まだ、この瞳に見つめられるのは少しだけ怖い。
でもいつか、まっすぐにこの人の目を見てお礼が言いたい。
カップの中の琥珀に、私はそっと誓った。
その日の夜。私は眠れなくて、なんとなく部屋を出た。
私の誇りとは何だろう。
レイに言われてから、私はずっと考えている。
でも、答えは見つからない。
自分の誇りなど考えたことはなかった 。
どうすれば一番傷つかずに済むか。
どうすればこの場を切り抜けられるか。
もう何年も、そうやって生きてきた。
何も考えないというのは楽だ。
何をされても、何を言われても、何も感じない。
胸の奥の痛みにすら、気づかないふりをする。
気づかなければ、なんてことはない。
ただ感情を無にして、時間が過ぎるのを待つだけ。
誰にも気づかれることなく、自分にすら見捨てられて、私の感情はこうして、忘れられていくのかもしれない。
階段を降りてすぐのサロンのドアが開いていて、私はそっと中を覗き込 む。
こんな夜更けに誰がいるのだろう。
見つかるかもしれない恐怖心よりも、好奇心が少し勝る。
そこには――。
静かなサロンの中にひとり、レイがピアノの前で楽譜を整えている姿があった。
楽譜の埃を軽く払うように指を滑らせ、静かにページを捲る。
誰に見られているわけでもないのに、ごく自然に姿勢を正し、そっと鍵盤に手を置く。
ひとつも音は鳴らさず、ただそこに佇む彼の横顔が、どこか寂しげで凛としていて――。
私は静かにその場を離れた。
彼は、ずっと誰かのために、こんな風に生きてきたのだろうか。
洗練された身のこなしで、髪の毛一本でさえも優雅に。
胸の奥で、何かが小さく、弾けるような音がした。
私は思わず胸を押さえる。
けれど私は――いつものように、その音に気づかないふりをすることにした。
四月一日(木) 晴れ
本日、昼食の席にて些細な不穏があった。
アリサお嬢様が、お嬢様の過去に関わる話を口にした。
意図は不明だが、冗談とは思えぬ語気であったため、
礼儀を欠かぬ範囲で釘を刺す。
ご家族の事情に首を挟むのは執事としての職務を逸脱している。
だが、もしまた彼女が傷つけられるようなことがあれば――
いや、気を付けなければならない。 感情は、毒だ。
私は常に、冷静でなければならないのだ。
――カシャン。
アリサお嬢様の皿がお嬢様のグラスを倒す。
お嬢様は動じることなくナプキンで水を拭う。
早く新しいものをお持ちしなくては。
そう、思っていた。
だが足が止まる。
アリサお嬢様の悪びれない態度に少々腹が立った。
だが、それを悟られるようなことがあってはいけない。
かといって、放置するのも癪だ。
気がつけば私は、アリサお嬢様のもとへ向かっていた。
「……アリサお嬢様」
彼女のテーブルマナーは目に余るところがある。
それを、執事として、さり気なく――。
しかし、アリサお嬢様は激高された。
私は間違えてしまったのだろうか。
執事としてと自分に言い訳をして、本当はお嬢様が軽んじられたことに対して怒りを抑えられな
かっただけなのだ。
その結果、アリサお嬢様の機嫌を損ねてしまった。
あとで謝罪をしなければ。
このあとの時間は地獄のようだった。
重たく垂れこめた空気がもとに戻ることはなく、そのまま食後のお茶をお出しすることになっ
た。
しかしここでも、アリサお嬢様の不適切な発言は続いた。
私の知らない、お嬢様の過去。
このような形で私が聞いて良い話ではなかった。
ふとお嬢様に視線を向ける。
彼女の背中が、小さく震えていた。
膝の上で握りしめた手。
てのひらに食い込む爪の痛みが、静かに私に伝染した。
私は、自分の内に沸々と沸きあがるものを抑えることはできなかった。
ただ黙って涙を押し殺しているお嬢様を、傍観することなど私にはできない。
この私が、こんなことを思うはずがないのに。
アリサお嬢様に、再度声をかける。
あくまでも冷静に、失礼のないように。
だが、その声に僅かな怒りが滲むのを、自分ではどうすることもできなかった。
執事として、粛々と。淡々と。
いかなるときも礼を尽くして。
私の積み重ねてきたものが、どこかで崩れる音がした。
それでも、お嬢様の心がこれ以上、傷つかずに済むのなら――
私は、たとえ何を失っても構わない。
午後のお茶には ダージリンを用意した。
軽やかなファーストフラッシュ。
この香りが、お嬢様の心を少しでも柔らかくしてくれたなら。
祈りをこめて、丁寧に淹れる。
「お嬢様。本日は“嘘”をついてもよい日なのだとか」
なにか会話を。
そう思って、今日がエイプリルフールだと気づく。
彼女の気分転換になるのなら、話題は何でもよかった。
しかし、私はすぐに後悔した。
“私に失望した”
嘘という名の逃げ道をつくった、自嘲。
私はなんと答えるのが正解なのだろう。
肯定しようと否定しようと、今日が四月一日である限り、それは嘘にも真にもなってしまう。
そんな私の迷いを察し、お嬢様はすぐに「冗談」だと言う。
それが冗談でなかったことは、その表情を見れば一目瞭然だった。
結局言葉は見つからないまま、私は退室した。
「レイ」
その日の夜、私はアリサお嬢様に声を掛けられた。
「アリサお嬢様。本日は出過ぎたことを」
「それはもういいわ」
私の話を遮るようにかぶりを振る。
「十八日は私の誕生日パーティーをやるの。知っているでしょう? その飾りつけをあなたに任せるわ。盛大に祝う予定だから、思いっきり派手にしてちょうだい。いいわね?」
「……承知いたしました」
こうした切り替えの早さも、彼女の魅力のひとつなのかもしれない。
ただ一度――
一度でも、お嬢様に対して謝罪の言葉があったなら。
それが私は悲しい。
四月十 八日。
アリサお嬢様の誕生日当日。
普段、彼女はゆっくり朝を迎えるタイプだが、今日ばかりは早起きをされたようだ。
パーティー会場の様子を確認しに食堂へ向かわれた。
私は郵便の仕分けをする手を止めて彼女を追う。
「おはようございます、アリサお嬢様。飾りつけはお気に召していただけたでしょうか。お嬢様のお好きなピンクでまとめてみたのですが」
彼女は腰に手を当て、品定めをするような足取りで食堂を一周する。
その姿を私は、入り口でただ静かに見守っていた。
「ふーん。まあまあ良いじゃない。私のお客様が来たら、しっかりおもてなしも頼むわよ」
「承知いたしました」
そう言って、彼女は私の横を通り過ぎていく。
別に、気にはしない。
執事とはそういう仕事だ。
私がしたことに対して、感謝の言葉など求めてはいない。
ただ少し――ほんの少し。
胸の奥に、疲れが蓄積される。
パーティーには百五十人ほどが集まった。
シェフのジョーだけでは手が回らないため、この日は私とアナも厨房に立った。
アリサお嬢様はとにかく派手なものが好きだ。
だから料理にも華やかさが求められる。
色とりどりの食材、花で飾り付けた皿。
それを、リボンをふんだんにあしらったワゴンに乗せて。
パーティーには奥様も出席されている。
お嬢様だけは、自室に籠ったままだ。
この喧騒が、どうかお嬢様の部屋まで届いていませんように。
そっと、階段の上を見上げる。
料理を運ぶための導線を確保していたとき、ふとホールが騒がしいことに気づいて様子を窺う。
二人のお嬢様と、パーティーの出席者だ。
「今日は顔を見せるなっていったわよね」
強い語気のアリサお嬢様。
お嬢様は俯いたまま、何度も謝罪していた。
あろうことか、ご友人の前でお嬢様のことを「使用人」と紹介された 。
流石に止めたほうがいいだろうと思ったところで、アリサお嬢様とご友人がこちらへ向かってくる。
お嬢様は、アリサお嬢様の背に向かって 謝り続け ていた。
あまりに痛々しくて、私は目を逸らす。
お嬢様を慰めに行こうとは思わなかった。
きっと彼女は、今の姿を私に見られるのを望んではいないだろう。
あとで、彼女のためだけに紅茶を淹れよう。
その紅茶に私の思いを乗せてお持ちしよう。
小さく唇を噛みしめ、持ち場へ戻る。
パーティー用の料理は全て出し終わった。
私はアナと、パーティーの後片付けの手順について打ち合わせをしていた。
「お嬢様」
アナが私の言葉を遮る。
振り返ると、私の背後からお嬢様がこちらへ向かっていらっしゃる。
私は軽く一礼した。
アナが部屋まで食事を持っていくか尋ねると、お嬢様はまた、苦しそうな顔で謝罪の言葉を口にした。
午後のお茶の時間。
パーティー会場へは、少し早めにお茶とお菓子を出した。
ここからは、お嬢様のためだけに、心を込めて紅茶を お淹れする。
アールグレイに、主張しすぎないほどのレモンを。
お嬢様は読書をされていた。
気分が沈んでいるときは無理に原稿を進めず、読書をするのだと以前仰っていた。
その沈んでしまった心を、この紅茶が少しでも温めてくれることを願って、お嬢様の前にカップを差し出す。
「わざわざ、すみません」
ここでもお嬢様は謝られる。
なぜ――。
「本当にすみません」
「なぜ、謝られるのですか?」
彼女はいつも謝っている。
自分が悪いわけでもないのに、自然と「ごめんなさい」が口から滑り落ちる。
その響きが、なんだか悲しい。
だが少し、私にはその気持ちが分かるような気がするのだ。
彼女は言った。
上手く話せない自分は周りの空気を悪くしてしまっている。
だから、誰かに咎められるよりも先に自ら謝るのだと。
嗚呼、そうか――。
「ごめんなさい」は謝罪の言葉であると同時に、自分を守るためのまじないだったのだ。
そうして彼女は、優しくて脆いその心を誰にも傷つけられないように、必死に守ってきた。
「レイ。私のこの癖……駄目だと思うでしょう?」
貴女が必死に守ってきたものを、否定などできはしない。
ただ、それではあまりに悲しすぎる。
これからも謝り続ける彼女を想像すると、胸が千切れるようだ。
彼女は、自分と同じなんかではない。
「お嬢様。わたくしは……」
言いかけて、喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込む。
お嬢様がこれ以上苦しまなくてすむように、言って差し上げたいことがある。
けれど、それは彼女を否定することになるのではないだろうか。
アリサお嬢様への助言で私は失敗してしまった。
彼女を怒らせてしまった。
もし、お嬢様にも同じ思いをさせてしまったら――。
私は、ありのままのお嬢様を、受け入れるべきではないのか。
分からなかった。
私は何を、優先したら良いのだろう。
「レイ。正直に言って。私は、自分を変えたいのです」
そのとき 、私の迷いは綺麗に砕け散った。
変わりたいと望まれるお嬢様は、とても強く、美しい。
脆 い な どと、私の勝手な決めつけだったのだ。
私は本心を語った。
偽りの言葉は決して言わぬと、お嬢様に誓った。
もしこの言葉でお嬢様を傷つけてしまったらと思うと、少しばかり心が痛む。
だが彼女は、「ありがとう」と言った。
私の言葉を受け止め、感謝したのだ。
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分の思いを伝えることで誰かを救うことができる。
彼女はそれを教えてくれた。
私は、自分の心も救われたような気がした。
自分でも気づかぬうちに、頬が緩んでいたようだ。
私はそっと、整えられた微笑の仮面をつけ直す。
食堂の後片付けを終え、ひと気のないサロンへ向かう。
月明かりが静かに降り注ぎ、音楽の余韻を照らしていた。
ピアノに映るシャンデリアの光が瞬き、まるで妖精たちが、今もワルツを踊っているかのように――。
ピアノの上の楽譜を手に取る。
メフィスト・ワルツ。
お嬢様がよく、部屋で聴いている曲だ。
私は楽譜を広げ、その旋律を指でなぞる。
彼女の好きな曲を、頭の中で演奏する。
目を閉じれば、彼女の微笑みが瞼の裏に浮かんだ。
お嬢様だけは、私に「ありがとう」と言ってくださる。
それは執事として、ただ業務に励む者には必要のない言葉だ。
けれど――そのたびに、心の奥で、何かがあたたかく解けてゆくのを感じる。
私はそういう心の動きに、気づかぬふりをしてきたはずだったのに。
彼女の面影を宿した楽譜をそっと閉じ、窓の外を眺める。
この月明かりが、貴女のもとへも、優しく届いていますように。




