13 外伝
本編は前回の第12話で完結しましたが、こちらは短い外伝になります。
悲しい気持ちで終わってしまった人が、これを読んで少しでも救われますように。
目が覚めると、そこは白い光に包まれた庭園だった。
マグノリアの木の下、白いベンチに私は仰向けで横たわっていたのだ。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
なんだかとても──
とても長い夢を見ていたような気がする。
優しくて、あたたかくて、でも少し、切なくて。
「お嬢様」
柔らかな声が光とともに降り注ぐ。
視線を声の方へ送ると、銀のトレイに紅茶を乗せて微笑むレイの姿があった。
彼は、重たげに瞼を開く私を見つめて優しく目を細める。
「紅茶をお持ちいたしました。お嬢様のお好きな、アールグレイを」
ゆっくりと身体を起こす。
アールグレイの華やかな香りが風に乗って鼻を掠める。
「いい香り……」
受け取ったカップを両手で包み、紅茶をひとくち含む。
レイと私の、いつものやりとり。
誰にも邪魔されず、私たちはずっとこうして穏やかに──。
穏やかに?
ずっと?
本当に、そうだったかしら。
なにかあったような──
なにか、心がざわめくような。
「お嬢様……? ご気分でもお悪いのでしょうか?」
ふと我に返る。
見上げると、レイが心配そうに私の顔を見つめていた。
眉間に浮かんだ微かな翳りが彼の美しさを際立てているようで、思わず頬が緩む。
「いいえ……大丈夫よ。きっと夢のせいだわ。目が覚めてから、少し胸がさざめくの。何か大切なことを
忘れているような、私たちに何か良くないことが起きたような、世界が黒い霧に覆われていくような……そんな漠然とした不安が過るのよ」
レイは微笑みを湛えたまま私の前に跪いた。
膝の上に置いていた手を、彼の手がそっと掬う。
純白の手袋越しに伝わる温もりと優しさ。
指先に力を込めるわけでもなく、ただ、私の手を乗せているだけの大きな手のひら。
少し低く響く心地のよい声でレイが囁く。
「大丈夫です、お嬢様。何もありません。わたくしたちは毎日、こうして穏やかな日々を送って参りました。これからも……ずっと、この日々は続いてゆくのです」
レイに「大丈夫」と言われると、本当にそう思えてしまう。
いつも、彼の言葉は魔法のように私の心を落ち着かせてくれる。
「そうよね。大丈夫よね。だって、貴方が傍にいてくれるのだから」
「ええ、お嬢様。わたくしは、いつでもここにおります」
白い光はやがてオレンジに色づき、庭園はあたたかな温もりに包まれた。
マグノリアの花も、清らかな白から艶やかな橙に染まる。
「そろそろ、夕食のお時間でございます。どうぞ食堂へ」
レイは私の手を引いたまま立ち上がり、食堂までエスコートする。
──いけないわ、レイ。
こんなところ、誰かに見られたら……。
誰か?
誰かって、誰かしら……。
お母様?
いいえ、お母様は私が幼い頃に亡くなったわ。
では、お父様?
いいえ、お父様はずっと海外にいるはず。
それなら、妹──。
私ったらどうしたのかしら。
私には妹なんていないのに。
なぜか、妹がいたような気がして……。
「この屋敷には、お嬢様とわたくし、二人だけでございますよ。今までも、そして……これからも」
私の心を読んだかのように、レイはそう言って微笑んだ。
柔らかな眼差しに、私の心臓が小さく跳ねるのを感じた。
夕食は鴨のロースト。
それに合わせる蜂蜜とバルサミコのソースの、甘酸っぱい香りが胸に広がった。
そしてデザートには、苺のタルト。
苺のタルトは、クリスマスにお母様が毎年作ってくれていた思い出のケーキ。
この話を、レイにしたことがあったかしら?
それとも、偶然なのだろうか。
鴨のローストに苺のタルト。
この晩餐を、私は知っている気がする。
どこか懐かしい香りがして、何故か切なさが心を覆う。
「お嬢様……? お口に、合わなかったのでしょうか?」
レイは白いハンカチを私に差し出す。
自分でも知らぬうちに、私は涙を零していたらしい。
「あれ……私、どうしたのかしら。とても美味しかったの。でも、口にした瞬間……これが最後の晩餐のような気がして」
得体の知れぬ不安と焦燥。
レイの顔を見るたびに感じる、愛しさと胸の痛み。
この正体は一体、なに──。
「お嬢様。本日は、もうお休みになられた方がよろしいのでは……? わたくしが、お部屋までご案内いたしましょう」
「ええ、そうね」
幾つものランプが灯る私の部屋。
でも、今日はランプではなく──。
「蝋燭……ですか?」
細身のキャンドルホルダーに白い蝋燭を立て、火をつける。
その様子をレイは不思議そうに見つめていた。
クリスマスでも、誕生日でもない。
けれど、今日はこの蝋燭の前で祈りたい気分だったのだ。
「レイ。眠る前にお茶をお願いできますか?」
「かしこまりました。どのような香りにいたしましょうか?」
私は少し考えて、そしてレイの瞳をまっすぐに見て言った。
「よく……眠れるものを」
少しして、お茶の入ったカップを手にレイが戻ってきた。
湯気の向こうに、甘く柔らかな香りが揺らめく。
カップにそっと口をつけ、ひとくち啜る。
少し蜂蜜を思わせるリンデンの甘さと、カモミールのほっとするまろみ。
そして最後に、レモンバームの清涼感が身体の中を駆け抜けてゆく。
「……おいしい」
この優しさは、レイの囁きにどこか似ている。
仄かに甘く、そして心をくすぐるあの響きに。
──ねえ、レイ。
知っている?
私、貴方のこと……好き、なのよ。
「それでは、わたくしは下がらせていただきます。おやすみなさいませ。お嬢様が美しい夢を見られますように」
「おやすみなさい。また、明日」
いつもの挨拶。
貴方に“明日”を捧げるための、誓いの言葉。
明日も、明後日も、その先もずっと──
私たちはこうして、ささやかな幸福を生きてゆく。
それが、私の願い。
私の、祈り。
柔らかな白い光が窓から差し込む。
小鳥の鳴き声、どこか遠くで響く鐘の音、そして──
扉を叩く、愛しい気配。
貴方と生きる世界が、今日も始まる。
「おはようございます、お嬢様」
これはいつかの令嬢の夢なのか。
それとも、天国で目覚めた令嬢のみた景色なのか。
彼女の幸せには、必ずレイの存在がある。
現世でも、夢でも、天国でも――
そこに互いの存在があれば、二人は幸福なのです。