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12 ミズバショウ

ミズバショウの花言葉「美しい思い出」

二月二十九日。四年に一度しか訪れないその日は、まるで“確かに存在したのに、誰にも証明できない幻”のように儚く、そして美しい。

 二月二十九日 火曜日

   

   ――本当に、そうかしら?


 今日、私は死ぬでしょう。

      でもまだ私はここにいる。


 私は、生きていたい。

        生きていた。


 これは夢でしょうか。


 貴方を愛していた。

   この先もずっと、愛しています。


 愛しています。




私の誕生日。

あの日から私は、少しレイと自然に話せるようになった。

「好き」とは言っていない。

けれど、きっと彼は気づいているだろう。


結局、私の覚悟とは脆いものだった。

彼を傷つけたくないと思いつつ、あのとき彼が戻ってきてくれたことが嬉しかった。

私の変化に気づき、誇りである優美さを捨ててまで飛び込んできてくれたレイ。

たとえそれが“執事”としての務めであっても、私には十分すぎるほどの幸福。


「どんな貴女も、貴女」

 

その言葉が、私を絶望の淵から蘇らせた。

こんな私でもいい。

貴方を好きでもいい。

そう言われているような気がして、なんだか安心した。


今年は閏年。

四年に一度だけ訪れる、奇跡のような日。

今日という日は来年には存在しない。

だからこそ、今日は何か、特別なことが起きる予感がする。


「お姉様」

アリサの呼ぶ声に、私は少し、身体が強張る。

一度は彼女と少しだけ、打ち解けられたような気がした。

けれど、私がレイを好きだと知られてから、アリサはまた、以前のように冷たくなってしまった。

アリサがレイをどう思っているか、私は知っている。

だってレイを見つめる彼女の瞳は、私と同じ色をしていたから。


「お姉様。私とお母様は出かけてくるわ。帰りは明日の朝になるから、よろしくね」

「ええ……いってらっしゃい」

いつもなら私にそんな報告をすることなんてないのに、今日はどういう風の吹き回しだろう。

彼女は少し、機嫌がよさそうに見えた。


エマは体調を崩していて、二日前から休んでいる。

ジョーはほとんど厨房から出てこないから、実質、今日は私とレイの二人だけ。

そう思うと、少しだけ鼓動が駆け足になった。

部屋へ戻り、机の上の原稿に手を伸ばす。

 

 “魔女は低い声で囁いた

 「右へ行けば幸福が待っている

 けれど、その道のりは険しいものになるだろう

 左へ行けば絶望が待っている

 けれど、その先には必ず、希望もあるだろう」

 旅人は――”


ペンを持つ手が止まる。

旅人は、どちらの道を選ぶだろうか。

私なら、どちらを選ぶだろう――。


ドアをノックする音が聞こえる。

どこかあたたかいその音は、まるでレイの声そのもののように優しく耳に残る。

「お嬢様。紅茶をお持ちいたしました……おや、執筆中でいらっしゃいましたか」

「ええ。……ねえ、貴方ならどちらを選ぶ?」

私は書きかけの原稿を指さす。

少し前かがみになったレイの影が、私の上にふわりと落ちる。


空気の揺らぎに乗って香るアールグレイは、カップから流れるものではなかった。

「僭越ながら……」

レイは姿勢を正す。

それに合わせて影もふっと離れ、私は少し、寂しくなった。

「わたくしの拙い意見をお伝えいたしますと……わたくしでしたら、左を選びます」


少し、意外だった。

幸福が約束されているのなら、たとえどんなに険しい道でも進むのだと、貴方は言うと思っていた。

「左……。それは、何故?」

「はい、お嬢様。幸福とは、与えられるものでございます。それに対し、希望とは自分で見出すもの。たとえ絶望が待っていようとも、絶望は“分かち合う”ことができます。そして希望は“共に見る”ことができる。ですからわたくしは、左の道を歩みたいと存じます」


絶望を分かち合い、共に希望を見る。

「素敵な考え……」

思ったことがそのまま口から零れた。

紅茶のカップがすっと目の前へ置かれる。

「希望は、どこからか香り立つ風のようなものでございます。お嬢様の心にも、新しい風が吹きますように」


ベルガモットの清々しい香りが鼻腔をくすぐる。

それをひとくち含むと、爽やかで優しい風が、私の心を撫でていった。

「希望とはこのように、ささやかなものなのかもしれないわね」

レイは微笑んだ。

その瞳が、なんだかいつもよりも少し、きらきらしているように見えた。


 

午後十時。

大粒の雨が屋根を打ち付け、木の枝が窓を叩く。

バルコニーの窓の前。

私は、どこか不気味な笛鳴りに身を震わせていた。

「お嬢様。こちらは少々冷えます。どうぞ、お部屋でお休みくださいませ」

窓に映るレイを見つめる。

立ち方、礼の角度、手の位置、つま先の向き――。

彼はいつも、寸分違わぬ姿勢で私の傍に控える。


貴方のことを知りたい。

貴方の本当の声を聞きたい。

貴方のすべてに、触れてみたい。


レイはただ静かに私を見つめている。

いつものように凪いだその瞳で、彼は何を思っているのだろう。

雨音がいっそう強く降り注ぐ。

月も星もない、真っ黒な空に吸い込まれそうになる。


私はレイのほうを向く。

「……では、そろそろ休みます」


穏やかな一日。激しい雨。

穏やかな眼差し。高鳴る鼓動。


「おやすみなさいませ、お嬢様」

穏やかな声――込み上げる、熱情。

「おやすみなさい、また明日」

もう二度と言うことはないと思っていた「また明日」を、こうして今日も伝えることができる。


それは優しくも苦しい言葉。

己の明日を相手に捧げるための、誓いの言葉。

それを口にした瞬間、私の心はすでに、明日を失っていたのかもしれない。

風が壁を叩き、泣き声のような軋みが響いた。



ベッドに横たわる。

けれど、なかなか眠れなかった。

窓を打ち付ける雨音は好きなはずなのに、何故か今日は胸がざわめく。

目を閉じたら闇に呑まれてしまいそうで、私は天井を見つめた。


ふと、一階から微かに物音が聞こえる。

風で窓が揺れた音かしら。


いや、違う。


床が軋む音、ドアの金具が鳴る音が確かに聞こえた。

誰かがいる。

レイ――は、もう自室で休んでいる時間だ。

不安が身体の中を一気に駆け上がってくる。


行かなきゃ。

レイのところへ、行かなきゃ。


物音を立てないようにベッドから立ち上がり、そっとドアを開ける。

部屋を出て右の奥。

レイの部屋へ向かおうとしたそのとき、彼も部屋から出てきたのだ。


視線の先に互いを見つけ、私たちは静かに駆け寄った。

二人の部屋の中間、バルコニー前。

身を屈める。


一階では絶えず足音が鳴っている。

家の中を物色しているようだ。

「お嬢様、お逃げください。少々危険ですが、バルコニーからトレリスを伝えば下へ降りられるでしょう」

レイは声を潜めてバルコニーに視線を送る。

「でも、貴方は……?」

「わたくしは時間を稼ぎます。貴女が無事に逃げおおせたら、わたくしも」

「だめよ!」

あくまでも小声でレイの声を遮る。


私は何度もかぶりを振った。

「そんなのだめ。貴方を置いてはいけない」

足音は左から右へ移動した。

その先には、二階へ上がるための階段もある。


レイは僅か、眉間に皺を寄せた。

「お嬢様。時間がありません。早く……」

「いやよ。貴方が残るなら私も動かないから」

私は精一杯の我儘をぶつける。

けれど、レイは首を縦には振らなかった。


彼は何か考えるような素振りをして、低い声で言った。

「……お嬢様。わたくしは……貴女のそういうところが、ずっと嫌いでした。我儘で、聞き分けがなくて、わたくしを困らせる」

窓の隙間から漏れる風が冷たく頬を滑る。

けれど風の音も雨の音も、今は聞こえない。

ただレイの無機質な声だけが何度も頭の中で響く。

「なに……言っているの、レイ」

彼の顔にいつもの微笑みがない。

指の先の感覚がなくなってゆく。

「……迷惑なんです」


いつものあの丁寧すぎる口調はどうしたの。

柔らかな声音はどうしたの。

へりくだった視線はどうしたの。


心臓が大きく、強く、私の胸を叩きつける。

僅かに、階段の軋む音がした。

もう、すぐそこまで迫ってきている。


レイはバルコニーの窓を少し開く。

「足手まといです、お嬢様。早く外へ」

開いた窓から雨が吹き込む。

風が強くなり、カーテンが音を立てて大きく靡いた。


その間も階段を上る音はゆっくりと、でも確実に近づいてくる。

「早く……!」

レイが私の身体を強く押す。

後ろへ体勢を崩した私は、そのままバルコニーへ押し出される。


目の前で窓が閉まってゆく。

閉まる直前、レイが何かを言ったような気がした。

でも風の音に遮られ、何も聞こえなかった。

ただ、唇だけが何か言葉の形をつくっていた。


窓が閉まる。

内側から、鍵が掛けられる。

中がどうなっているのか、カーテンが邪魔をして分からない。

風に混じって微かに中から音がする。


空に稲妻が走った。

稲光に照らされて、カーテンの向こうが透ける。

レイと、レイよりも大きい影が二つ。

その手に、ナイフのようなものを持っていた。


また、見えなくなる。


レイはどうなったの。

あの二人は誰なの。

中で、何が起こっているの。


遠くで雷鳴が轟いた。

もう一度、稲光がカーテンを照らす。


振り上げられたナイフが、レイに向かって振り下ろされた。


また、見えなくなる。


でも。


ああ、でも――!


カーテンの隙間、僅かに覗く窓ガラス。

黒い液体が幾重もの筋となって下へ下へ、流れてゆく。


次に稲光が走ったとき、それが黒ではなく赤であることに気づいた。

鮮やかな赤。

鮮やかな――。


雨が弱まってきた。

風も止んだ。


窓の向こうで、男たちの叫ぶ声が聞こえる。

私を探している。

私の名を叫んでいる。

どこかの部屋で、勢いよくドアの開く音がする。


彼らはすぐにここへ来るだろう。

逃げなければ。


――どうして? 

彼がいないのに、どこへ逃げるというの。


それでも、逃げなければ。

彼は私に逃げろと言った。

最後くらい、執事の願いを聞いてあげなければ。

いつも私の願いばかりで、貴方は自分の願いなど、何ひとつ口にはしなかったのだから。


逃げなきゃ。

彼が言ったように、トレリスを伝って。

バルコニーのすぐ下、蔦の覆う、アーチ状のトレリス。

雨を含んだ服が重たく身体に纏わりつく。

それでも、なんとかトレリスの上部に足を掛けた。



私がレイの姿を目にしたのは、その翌日のことでした。

バルコニーの窓を塞ぐように倒れていた彼。

乾いた血だまりのなか微笑む彼はまるで、ヒュアキントスの血から咲いた、一輪の花のよう。


――これは、夢でしょうか。




 二月二十九日(火) 雨


 雨上がりの午後。

 お嬢様はいつものように、

 ガゼボでひとり、思案なさっていた。

 私は紅茶をお淹れする。

 お嬢様の好きなアールグレイを、

 お嬢様の好きなグリーンのカップで。

 後ろ姿に声をかけると、

 お嬢様はこちらを振り返って微笑まれた。

 その姿はまるで春の精。

 微笑みひとつで、私の心に花を咲かせておしまいになる。

 私の名を呼ぶその声が、雨のひと雫のように、

 優しく胸に沁み入った。

 今日も変わらずお嬢様の傍でお仕えできる、その奇跡に

 深く、深く感謝しよう。




「お嬢様。紅茶をお持ちいたしました」

窓に心地良い雨音を感じながら、お嬢様は静かに執筆されている。

お嬢様は私にお尋ねになった。


幸福が待っているが、その道のりは険しい右の道。

絶望が待っているが、その先に希望も約束された左の道。


私は、迷わず左を選んだ。

お嬢様が絶望に沈むとき、私はそれを分かち合いたい。

そして願わくは、共に希望を見たい。


「素敵な考え……」

そう言ってお嬢様は微笑まれた。

少し胸の奥がくすぐったいような、不思議な感覚だ。

私は紅茶のカップを差し出した。

この澄んだ香りが、お嬢様に希望を運んでくれますように。

お嬢様はそれをひとくち啜る。


「希望とはこのように、ささやかなものなのかもしれないわね」

その瞬間、私のなかをあたたかい風が吹き抜けた。

ありふれた日常のなかに希望を見出すお嬢様の姿が、なんとも尊く私の目に映った。



午後十時。

バルコニーの手摺から、お嬢様は夜の庭を眺めていらっしゃる。

午後に雨は上がったとはいえ、手摺にはまだ所々に雨の名残があった。

私は白いハンカチで、そっとお嬢様の手と手摺を拭う。

「ありがとう」

何を見ていたのか、何を考えていたのか。

私はお尋ねしなかった。


お嬢様もまた、何も仰らない。

けれどこうして二人、バルコニーに立っている。

それだけで、どこか通じ合えたような気がした。


声のない会話。

黙っていても、私にはお嬢様のお考えが手に取るように分かる。

冷たい風が吹き始めた。

お嬢様の肩が、小さく震える。

「お嬢様。こちらは少々冷えます。どうぞ、お部屋でお休みくださいませ」

お嬢様は少し、寂しげに微笑まれた。


――ええ、お嬢様。

私も同じ気持ちです。

ですが、私たちには明日があります。


そんな私の心の声に応えるように、お嬢様は小さく頷かれた。

「……では、そろそろ休みます」

その柔らかな眼差しは、風の冷たさを忘れさせる。

「おやすみなさいませ、お嬢様」

「おやすみなさい、また明日」

その澄んだ声は、夜空を駆ける星のようにまっすぐ響く。

「また明日」が、祈りのように沁みわたる。



屋敷が寝静まったころ、私は自室でひとり、本を眺めていた。

読書をしていたわけではない。

私の誕生日、お嬢様がくださったイリサ・タラッサの詩集。

その間に挟まれた、ハナミズキの栞。

私のための、一篇の詩。


「貴女が窓辺に灯をともすなら、私はどんなに離れていようと、必ずその灯を見つけて手を差し出します」

頁の向こうの、お嬢様の面影に向かって誓う。

明日も朝は早い。

そろそろ休まなければと本を閉じたその瞬間、一階で微かに物音が聞こえた。


お嬢様がお部屋を出られた様子はない。

奥様とアリサお嬢様は外泊、ジョーは数時間前に退勤した。

では、一体――。


嫌な予感がした。

私は足音を忍ばせ、静かにドアを開ける。

同じタイミングで、お嬢様もお部屋から出てこられた。

私たちは顔を見合わせ、静かに、でも衝動的に、互いのもとへ駆け寄った。


バルコニーの前。

お嬢様は怯えた瞳で私を見つめられる。

私はお嬢様の手をそっと引き、バルコニーの窓を僅かに開いた。

「お嬢様、お逃げください。少々危険ですが、バルコニーからトレリスを伝えば下へ降りられるでしょう」

私は声を絞り、お嬢様に告げた。


お嬢様の瞳が揺れる。

「でも、貴方は……?」

「わたくしは時間を稼ぎます。貴女が無事に逃げおおせたら、わたくしもすぐに後を追います」

「そんなのだめよ……」

お嬢様の指先が私の袖を掴む。

その震えが、私の腕にも痛いほどに伝わった。

「お嬢様。わたくしを信じてくださいませ。ほんの少し、逃げるための時間を稼ぐのみ。危険なことはいたしませんから……」

子供を宥めるように優しく、優しく囁く。


奥の階段が軋む音がした。

足音は二つ。

賊は私たちのいる二階へ向かってきている。


開いた窓から風が吹き込み、カーテンが大きく揺れた。

その風はお嬢様の長い髪を攫い、スカートの裾を攫い、駆け抜けてゆく。

足音はゆっくりと上へ、上へ。

確かに近づいてきている。


廊下の向こう、真っ暗な壁に淡い光が揺れた。

「お嬢様。さあ、こちらへ」

窓の隙間にお嬢様の細い身体を滑りこませる。

「レイ……必ず来て。約束よ」

「ええ、お嬢様。わたくしは、嘘をつきませんから」

お嬢様がバルコニーから降りられるのを確認すると同時に、奥で人影が揺れた。


私はジャケットの内ポケットからチェーンのついていない銀時計を素早く取り出す。

足音が、ランプの明かりが、こちらへ向かってくる。


カーテンの後ろに身を潜め、その隙間から銀時計を投げた。

時計は音を立て、玄関へ続く正面階段を転がり落ちてゆく。

「おい、あっちだ!」

男の叫びが響く。

足音が階段の下へ吸い込まれていった。


私は窓の外へ出た。

蔦の絡まるトレリスを伝い、私を待つ貴女のもとへ。

貴女の、もとへ――。


 

今日もお嬢様は微笑まれる。

私はその傍ら、紅茶をお淹れする。

貴女のためだけの紅茶。

私のためだけの笑み。

交差する視線。

それが私の、唯一無二の幸せ。




 二月二十八日 閏日のこと


 一年前の明日。

 この日は、あなたたちが生きた証。

 でもその明日は、今年にはない。

 二月二十九日。

 それは、私が忘れてはならない罪の日。

 

 こんなつもりでは、なかった。

 それは、私の中に芽生えた小さな嫉妬だった。

 私の憧れだった彼は、私の知らない顔でお姉様を見る。

 私を理解してくれたお姉様は、私から初恋を奪っていく。

 ただ、ほんの少し、意地悪をしたかっただけ。

 二人が愛し合っているとお母様に告げ口して、

 叱られてしまえばいいと、そう思っただけ。

 

 冷静に考えればわかったはず。

 お母様がただ“叱る”だけで済ませるはずがないことを。

 私の醜い嫉妬のせいで、大切なひとを失ってしまった。

 

 これは、私が一生背負っていかなければならない大罪。

 四年に一度しか訪れないその日を世界が忘れようとも、

 私だけは、覚えている。


 あの日、二人は寄り添うように倒れていた。

 無数の傷、床に広がる血。

 でも、それがどうしてか、とても美しかった。

 絵画のようだと思った。

 

 レイは、お姉様は、苦しんだだろうか。

 二人の表情は、苦しさから解き放たれたかのようだった。

 誰も知らないあの日の真相。

 もしかしたら、こうだったのかもしれない――。




「ねえ、貴方ならどちらを選ぶ?」

彼女は書きかけの原稿を従順な執事の前に差し出す。

右の道をゆくか、左をゆくか。

旅人は迷っていた。

彼女もまた、その旅人の気持ちを汲むことができずに悩んでいた。


彼女は小さく吐息を漏らす。

しかしそれは、筆が止まったことによる苦慮のため息ではなかった。

執事の纏う紅茶の香が、彼女のすぐ隣で揺れたからだ。

「わたくしでしたら、左を選びます」

執事は言った。

その声には、あたたかさが帯びていた。


令嬢と執事の、他愛もない光景。

誰の目にもそう映るだろう。

彼女のなかに燻る純愛を、彼のなかに渦巻く激情を、知る者はいない。



午後十時。

外では雨が、風が、轟轟と吹き荒れていた。

バルコニーの前。

彼女は窓の向こうを眺めていた。

「お嬢様。こちらは少々冷えます。どうぞ、お部屋でお休みくださいませ」

彼女は窓に映る執事を見つめる。

その瞳は、どこか寂しげに揺れていた。


「冬が……もうすぐ終わる」

「……切ないと、お感じですか?」

窓越しに合わさる視線。

彼女はすっと目を逸らした。


「春が訪れるとき、私の心は冬と一緒に朽ちてしまうの」

「では、わたくしが春の陽気から貴女をお守りいたします。その陽射しに、貴女の心が溶けてしまわないように」


少しの沈黙。

再び、窓の向こうで視線が絡まる。


彼女は振り返った。

今度はまっすぐに執事の瞳を見つめる。

静けさと、少しの憂いを湛えたダークグレーに近いブルー。

深い、夜の湖のような瞳。


「……では、そろそろ休みます」

執事の誓いに、彼女は答えなかった。

けれど、その微笑みが、彼女の言葉の代わりなのだろう。

執事は微笑み返す。

まるで、誰も知らないところで二人、会話を愉しんでいるように。


「おやすみなさいませ、お嬢様」

「おやすみなさい、また明日」


ほんのひととき、風が止んだ。

静寂が、この静かな約束の証人になった。



雨粒の打ちつける音が重たく響く、午後十時三十分。

侵入者は裏口のドアを開けた。

蹴破るなんて粗暴な真似はしない。

彼らは、鍵を開けて軽やかに侵入してみせた。


ひとつひとつ、部屋のドアを慎重に開いてゆく。

裏口を入ってすぐ右手。

配膳室、厨房――誰もいない。


廊下に出て、隣の食堂へ。

広すぎる食堂。

ここにも、誰もいない。


執務室、応接室、サロン――

侵入者は首を横に振った。


サロンの目の前、二階へ通じる階段。

一歩踏みしめると、階段は苦しそうに鳴き声をあげた。

侵入者はタクティカルナイフをその手に握りしめる。

一歩、二歩。

ゆっくりと階段を上がってゆく。

半分くらいきたところで、風の流れるのを感じた。

彼らは急ぐ。



階段の軋む音がした。

どんなときも冷静沈着であることを美徳としていた執事は、その瞳に僅かな焦りを宿していた。

「お嬢様、お逃げください。少々危険ですが、バルコニーからトレリスを伝えば下へ降りられるでしょう」

執事は極限まで声を落とし、バルコニーの窓を少し開く。

「でも、貴方は……?」

彼女は執事を見上げた。

いつもより、少し近い距離。

「わたくしは時間を稼ぎます。貴女が無事に逃げおおせたら、わたくしも」

「だめよ!」


窓の隙間から雨が吹き込み、彼女の頬を濡らす。

「いやよ。貴方が残るなら私も動かないから」

雨粒は頬をまっすぐに落ちてゆく。

それが本当に雨であったかは、この暗さでは分からない。

「……お嬢様。わたくしは……貴女のそういうところが、ずっと嫌いでした」

執事は唇を噛みしめた。

鉄の味が口内に滲む。


「なに……言っているの、レイ」

「……迷惑なんです」

彼にできる、精一杯の冷たさを孕んだ声。

眉毛の間に刻まれた深い陰影を、彼女は知らない。

階段の軋みは上段のほうまできている。

執事は彼女の腕を掴み、窓の外へ押しやった。


彼女は、放心していた。

ただ、その大きな瞳で、執事を見つめていた。


執事は彼女の目の前で窓を閉める。

閉まる直前、彼は彼女に向かって呟いた。

けれど、それが声になることはなかった。


鍵を閉めようと手を伸ばす。

その瞬間、窓が開く。

その隙間から彼女の白い手が伸びる。

手は、執事の手首を掴んだ。


強い力で掴まれた袖口に、深い皺が刻まれる。

「な…ぜ……」

執事は狼狽した。

あれほど訓練してきた平静が、繕えなかった。

 

 “魔女は低い声で囁いた

 「右へ行けば幸福が待っている

 けれど、その途のりは険しいものになるだろう

 左へ行けば絶望が待っている

 けれど、その先には必ず、希望もあるだろう」

 旅人は――”


「旅人は……右の道を進んだ」

彼女は呟く。

その瞳には、覚悟の色が宿っていた。


彼女の手に力がこもる。

「お嬢様、何をして……」

「貴方は……私に嘘はつかないと言った。貴方は、私を嫌わないと言った。だから私は、その言葉を信じます」

執事は動くことができなかった。

彼女の瞳から、目を逸らすことができなかった。

けれど、辛うじて言葉を絞りだす。


「きら…い、です。だから、どうか……」

「嘘よ」

「きらいだ……きらい、きらい……嫌い」

「完璧な執事のくせに、嘘が下手ね」


彼女は笑った。

でもその瞳には、溢れんばかりの涙を湛えている。


執事は泣いた。

彼の涙を、彼女は初めて見た。


「貴女は…馬鹿だ……」

彼女は掴んだ手を引き、執事をバルコニーにいざなった。

「見て……。トレリスが、この風で倒れてしまったの。これでは、下へ降りられない」

「ま、さか……」

執事は手摺の下を覗いた。

バルコニーに届くほどのトレリスが、そこにはなかった。


「旅人は、右の道を進んだ。たとえその道が険しくとも、貴方と同じ道に立てるのなら。貴方とふたり、幸福になれるのなら」

「……死んでしまって、貴女は幸福になれるのですか?」


雨が弱まった。

窓の向こうで、足音が強く響いた。


彼女は、微笑んだ。

「……死は終わりではないわ。私たちは、この世から離れて初めて平等になれる。貴方に……今まで言えなかったことがやっと、言えるようになるのよ」


諦めの笑みではなかった。

彼女は、心から微笑んでいた。

「……わたくしも、同じことを考えておりました。ですが」

窓が勢いよく開かれる。

大柄な男が二人、そこに立っていた。

「そう簡単に、お嬢様のお命を奪われるわけには参りません」


男はナイフの先を彼女に向けた。

ランプの光に照らされた刃先が鈍く光る。

「あんたが“お嬢様”か? 依頼主から金をたっぷりもらってるんだ。悪く思わないでくれよ」

「依頼主……?」

男は嗤った。

口元の髭が歪む。

いやらしい、下卑た笑みだ。


「酷いよなあ。自分の娘を殺すなんて。ああ……義理の娘、だったか?」

男はナイフを振り翳す。

執事は彼女と男の間に割って入り、勢いよく振り下ろされた腕を受け止めた。

押し返し、組み付く。

「はっ、細っこい執事にしてはなかなか力があるじゃねえか。だけど“執事はなるべく傷つけるな”って依頼されてんだ。大人しくしてればあんたには手ぇ出さねえからよ」

「無理に決まっているでしょう」

執事は男の重心を後ろに傾け、側面から足首を払う。


男が倒れた瞬間、バルコニーが大きく揺れた。

執事は男の手からナイフを奪う。

しかし――。


「レイ!」

背後からもう一人の男が飛び出し、彼の背中にナイフを突き立てた。

ナイフの刃が抜かれると同時に、何かが勢いよく吹き出す。

それは、彼女の白いガウンを赤く染めた。

執事に駆け寄る彼女の胸に、ナイフが吸い込まれてゆく。


いつしか雨は止んでいた。

濡れたバルコニーの上、二人は、手を伸ばせば触れられる距離に倒れている。


「お嬢、様……」

執事は、彼女の胸から広がる鮮血に手を伸ばす。

彼女はその手から白手袋をゆっくりと剥がした。


剥き出しになった指に自分の指を重ね、その手は彼の顔に伸びる。

血の気が引いてゆく頬に、彼女は慈しむようにそっと触れた。

「ようやく……貴方に、触れられた」


彼女は微笑む。

頬に触れた手の上に、執事は自らの手を重ねる。

「ええ。ようやく……」


流れ出る血は徐々にバルコニーを染めあげ、同時に彼女の意識は薄れてゆく。

瞼が僅かに傾いた。

執事は彼女を触れる手に力をこめる。


「愛して、います……」


その声は涙に濡れ、震えていた。

「愛しています。愛しています。愛しています……!」

彼女の手が、彼の頬からするりと落ちる。


瞼が閉じる直前、ひとすじの涙が頬を伝った。

執事は最後の力を振り絞り、彼女のもとへ爬行する。

眠りにつく瞬間のように美しく微笑む頬を撫で、そして――。


「――……」


執事は彼女の名前を囁いた。

“お嬢様”ではない、呼ぶことを許されなかった、彼女の本当の名前。

その声が彼女に届いたのか、確かめる術はない。


執事は彼女に寄り添うように倒れ、そのまま、瞼を開くことはなかった。

 あのとき彼女は言った。


「春が訪れるとき、私の心は冬と一緒に朽ちてしまうの」


その彼女の肉体は朽ちた。

しかしわたしは思う。

愛を知った彼女の心は春を越え、夏を耐え、秋を揺蕩い、永遠に生き続けるだろう。




 それが、私の考える“あの日”の真実。

 もしも彼がお姉様の名を呼んだのなら

 それをお姉様が聞いていたのなら

 彼女は死を前にして初めて

 「ここに存在していいのだ」と

 確かめることができたのかもしれない。

 

 四年に一度しか訪れないこの日。

 まるでこの恋そのものが

 “確かに存在したのに、誰にも証明できない幻”のよう。

 それでも二人はきっと幸せだったのだと思う。

 幸せであってほしい。

 私の願いも、祈りも込めて。

 

 けれど、本当は誰も知らない。

 私も、お母様も、レイも。

 そして、お姉様も――。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

令嬢と執事。それは決して愛し合ってはいけない運命。

それでも芽生えてしまった愛に二人は苦しみ、想いを告げることも触れることも許されないまま、運命の日を迎える。

二人は死を前にして初めて触れ合うことが叶った。けれど、それは真実だったのか。二人が亡くなったいま、真実を知る者は誰もいない。


令嬢がみた二月二十九日は夢だったのか、妄想だったのか――。

執事がみたその日は、きっと彼の願望。

アリサの想像するその日は、きっと彼女の祈り。


そのどれが真実なのか。それとも、どれも真実ではないのか。

二人は幸せだったのか。

答えは、あなたの中に宿っているのです。

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