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11 ローズマリー

ローズマリーの花言葉「あなたは私を蘇らせる、私を思って」

自分の存在が、愛する人を傷つけると知ってしまったら――。令嬢の誕生日。彼女はレイを守るため、ある決断をする。

 一月四日 火曜日


 明日は私の誕生日。

 グランドフィナーレに相応しい、特別な日。

 貴方と出会ってから私のなかには

 いつも音楽が流れていました。

 視線が交差すればガヴォットが。

 思わず手が触れればタランテラが。

 貴方の真心を知ればエレジーが。

 そして、いま私に流れているのは―

 それはレクイエムではなく、悦びのカンタータ。

 それを奏で終わるとき、私は私に

 喝采をおくるでしょう。




私は冬が好きだ。

この静けさが、冷たさが、私を綺麗にするから。

人々が着込み暖をとるとき、私はこの冷気に肌を晒す。

ガゼボで過ごすこのときは、私の大切な時間。


ひとり、自分を見つめ直していると、貴方は必ずやってくる。

温かな紅茶を手に、私を気遣いながらも「中へ戻れ」とは決して言わない。

ほら、今日もやっぱり、貴方は私を見つけてくれた。


「お嬢様、お寒くはありませんか?」

レイは銀のトレイに乗ったカップを差し出す。

このやり取りを、冬になってから毎日のように繰り返している。

「本日は特に冷え込みが厳しくなっておりますゆえ、ジンジャーティーをご用意いたしました」

「ありがとう、レイ」

彼の吐く息が白い。

でも、寒そうな顔ひとつしない彼は、本当は人間ではなく冬の精なのではないかしら。

ふと、そんなことを思った。


カップを包むように持つ私の手を、レイはリネンで優しく覆う。

私は彼の顔を見つめた。

その視線に気づいた彼は、そっと微笑む。

「お手が、かじかんでいらっしゃるようにお見受けしましたので……」

言われてみれば、紅茶とリネンに挟まれて、私の手はじんじんと温かさを取り戻していった。


穏やかだ。

風はこんなに冷たく肌を刺すのに、私の心は凪いでいた。

温かい紅茶のおかげだろうか。それとも、自分と向き合うことができたからだろうか。

こんなに心が穏やかな日は、レイと一緒にいても、ドキドキが私を支配することはない。

少し離れたところから自分を見つめていられる気がする。

「……そろそろ戻ります」

「かしこまりました」


今日は少し早めに切り上げた。

なんだか急に、物語を書きたくなったのだ。

明日は私の誕生日。

だからこそ、こんな日はきっと優しい物語が書けるような気がする。

 

部屋へ戻る途中、階段を上がった先の廊下で母とアリサが並んで立っている。

母は腕を組み、アリサは腰に手を当て、二人とも私をじっと見つめているようだった。

「あの…なにか……」

言いかけた私に、アリサはキッと眉を吊り上げる。

「お姉様、レイと一緒だったのね。随分と仲がよろしいようで、まるで恋人同士のようだったわ」

「そ、そんなこと……」

「お姉様ったらあのようにレイに甘えて……それに彼の方も、私とお姉様とでは態度が違うようだったわ」


どういう意味なのか、一瞬分からなかった。

アリサは何を見たのだろう。

私が、甘えて――。


思わず彼女から目を逸らす。

確かに、私は彼の優しさに甘えていたのかもしれない。

熱を出したときも、そして先ほどのリネンも、ただの執事に求める事ではなかったのではないか。

私がいつも甘えているから、彼は私に特別優しくしてくれているのでは――。


思考がぐるぐると回る。

そこへ、母の言葉が重なるように響いた。

「あなたはあの執事を惑わせているのよ。あなたのその甘えが、彼を困らせているということが分からないの? このままでは、何か間違いが起こる前に手を打たなければならなくなるわよ」

惑わせている。

困らせている。

私が、レイを――?


「私は、そんなつもりじゃ……」

「そんなつもりじゃないと言いたいの? 他人と関わるのが苦手だなんて言っていたけれど、男を誑かすのは得意なようね」

母の言葉に、アリサはクスリと笑う。

何故、二人は急にこんなことを言うのだろう。

私は、どうしたらいいのだろう。

「あの……手を打つとは、どういう……」


母の顔を見るのが怖くて、私は母の胸元に視線を落とす。

大ぶりのエメラルドが冷たく光った。

「あなたたちは主と執事。その関係を越えて親密になるなど、許されるわけがないでしょう? 必要なら、あの執事を解雇します。でももし、あなたたちが既にそういう関係なら……」

「いいえ!」

その続きを聞くのが怖くて、私は母の言葉を遮る。

その声が少し、震えていた。

「いいえ、お母様。私たちはそのような関係では……」


そんな関係ではない。

でも、私が彼を好きな気持ちは本当だ。

唇を噛みしめ、目を閉じる。

どんなに否定したところで、私にその気持ちがあるのならいずれ彼に迷惑がかかってしまう。


母はきっと本気だ。

冷酷なこの人なら、ただの解雇では済まないかもしれない。

「本当にそうならいいのだけれど。でも、少しでもその気配があれば……分かるわね?」

「……はい」

母とアリサは私の横を通り過ぎてゆく。

私は縺れる足をなんとか動かし、部屋へ入ると同時に崩れ落ちた。



それから私はずっと考えている。

アリサの言葉、そして母の言葉の意味。

二人は確かに、私の気持ちに気づいていてあんなことを言ったのだ。

私のせいで、レイの人生を奪ってしまうかもしれない。

私がいるから、彼は私を守ろうとする。

私がいるから、彼が苦しむ。


彼から離れなくては。

でも、どうやって――。


いつの間にか辺りは闇に包まれ、明かりのない部屋でひとり、私は膝を抱えていた。

コン――コン、コン。

静寂のなか、ドアを叩く音が響く。

「失礼いたします。お嬢様、夕食のご用意が整いました。……お部屋が暗いままですが、お加減などお悪いのでしょうか?」

形式的な台詞。

でも、その声にあたたかさが滲んでいる。

「いいえ。何でもないわ。今いきます」

いつもより、少しだけ低い声で返事をする。


彼を意識してはいけない。

彼はただの執事。

ただの執事。

ただの――。


ただの執事――だなんて、どうしたって思えるわけがないのに。

涙が込み上げるのを堪え、食堂へ向かう。


大理石のテーブルの上。

銀食器に映る蝋燭の火が、今日はなんだか、私を責める業火のように思えた。

皿の中央に佇む鹿肉のロースト。

何故か一瞬、それが虚ろな鹿の顔に見えて息をのむ。


「どうぞお召し上がりください」

レイのあたたかな声に促され、美しく磨かれた銀のナイフを手に取る。

しっとりとした鹿肉にナイフを入れると、赤い筋が徐々に断面を染め上げる。

その色は、私の中に確かに流れているものと同じ――。


肉の感触がいやに生々しい。

深い赤ワインソースと肉汁が、皿の上で混じり合う。

命をいただくことは、誰かを生かすための行為。

では、私の命は――誰かを、生かせるのだろうか。


ナイフを一気に入れ、その命を断ち切る。

鹿が、私の方を向いてほくそ笑む。

銀のナイフが鈍く光った。

この刃は命を切り分けるためのもの。

それなら私を切り分けることも、きっとできる。


口の中に広がる、血と肉の濃厚な味。

皿の上の命を平らげ、残された赤ワインソースに誓う。

あなたは私の糧となった。

次は、私の番よ。

私は、その銀の刃をそっと皿に伏せた。



私は静かに鏡台の引き出しを開ける。

レリーフの銀細工が美しい、小ぶりのナイフ。

細やかな花の模様が施されたそれは、昨年、お父様が私の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。

――明日。

誕生日の夜に、このナイフで逝こう。


手を伸ばしかけたところで、ドアをノックする音が響く。

私は慌てて引き出しを閉め、姿勢を正した。

「お嬢様、お茶をお持ちいたしました。本日はラベンダーを主に、レモンバームとカモミールを合わせております。お嬢様のお心を深い森の静寂のように落ち着け、良き夜をお過ごしいただければと存じます」

レイのその心づかいが、今は少し苦しい。


彼の淹れてくれたお茶を飲むのも、あと数回。

私は五感のすべてでそのお茶を味わった。

「では……おやすみなさいませ、お嬢様」

「ええ。おやすみなさい、また明日」

いつものやり取り。

でも、貴方の「おやすみなさい」を聞くのも明日で最後。

悲しくなんかない。それで貴方を、救えるなら。



翌日。

誕生日の朝は何等いつも通りに始まった。

母もアリサも「おめでとう」なんてひと言も言わない。

もしかしたら私の誕生日なんて忘れているのかもしれない。

けれど、貴方だけは言ってくれるんじゃないかって――少し、期待してた。


貴方の声で「おめでとう」を聞きたかった。

自分から誕生日を伝えたことはない。

でも、執事なら当然知っているはず。

だからきっと、朝の挨拶の前、やさしく微笑みながらその言葉を囁いてくれると思っていたのに。


「馬鹿みたい」

自分を嘲笑する。

レイはいつも通りに、ただ挨拶をして、今日の予定を聞いて。

それだけだった。

「最期くらい、甘い夢を見させてよ」

そこにいるはずのない彼に向かって呟く。

 


午後三時。

いつものように、私はガゼボで風を感じていた。

そろそろレイが紅茶を持ってこのガゼボを訪れる時間。

私は心の中で呟いた。

――ほら、早く来て。

じゃないと私、凍えてしまうわ。


私の祈りが届いたのか、ただの偶然か。

玄関のドアが開き、彼が出てくる。

銀のトレイに紅茶を乗せ、まっすぐに私のもとへ歩いてくる。


一礼して、カップを覆うリネンをそっと外し、向きを整えて――。

私はその所作を目に焼き付けるように見つめた。

どんなに小さな動きも余すことなく、すべて覚えていたいから。

「本日は冷え込んでおりますので、いつもより少し華やかな香りを選びました。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」


ふわりと漂う、薔薇の香り。

ダージリンにローズペタルをブレンドしたもの。

「……今日だけの香りね」

胸いっぱいに湯気を吸い、ほぅっと息を吐く。

ローズ。彼は今まで、あまり薔薇を使ったことがなかった。

今日だけの、特別な香り。

自然と、笑みが零れた。



午後八時三十分。

メイン料理には鴨のロースト。

それに合わせる、蜂蜜とバルサミコのソース。

甘酸っぱい香りが胸に広がる。


最後の晩餐。

私は一口ひとくち噛みしめた。

鴨肉。特別な日を祝う料理。

もしかしたら、私のための――そう思うのは、自惚れだろうか。


けれどデザートが出てきた瞬間、これは偶然ではないのかもしれないと思った。

苺のタルト。

私がレイに語った、お母様との思い出のケーキ。

それが彼からのお祝いの言葉のような気がした。

鴨もタルトも、そしてあの薔薇の紅茶も。


ふとテーブルの上の花瓶に視線を移す。

白い、ポインセチア――

クリスマスはもう、終わったというのに。


“祝福”

“慕われる人”

“聖夜”


貴方からの祝福。

それと同時に、私にとっては少し、皮肉なもの。

今日は聖夜ではない。

でも貴方がそう言うのなら、イエスが誕生したとされる日に、私は散るのだ。

けれど、私にとってこれは悲劇ではなく、貴方の幸福を願う祈り。

だから、聖なる夜というのはもしかしたら、今日という日にぴったりなのかもしれない。

少しだけ可笑しくなって、人知れず笑みを零した。



「お嬢様」

少し低く響く優しい声。

私の、好きな声。

「お休み前のお茶をお持ちいたします。本日はどのようなものをご用意いたしましょうか」

レイの淹れる、最後のお茶。

ダージリンもアールグレイも好き。

でも、いまは――。

「よく……眠れるものを」

言葉にした瞬間、泣きそうになった。


本当は、この言葉の意味を、貴方が気づいてくれたらいいなって、心のどこかで思ってた。

目が醒めるようなお茶を持ってきてくれたなら――って、少しだけ、期待した。

「かしこまりました」

それだけ言って、レイは部屋を出る。


レイを待つ時間はとても長く感じた。

その間私は、テーブルの上に蝋燭を灯し、ロザリオを胸に下げ、聖なる夜に相応しく装った。

まもなくレイは戻ってきて、テーブルの上、細身のキャンドルホルダーに灯る蝋燭を見つめた。

「蝋燭……でございますか」

「ええ。特別な夜に…したくて」

レイはふっと柔らかく微笑んだ。


やはり、彼は私の誕生日を知っていたのだ。

カップが目の前にそっと置かれる。

「本日はお嬢様の安らかな眠りを願い、カモミールを基調に、リンデンとレモンバームを合わせております。ほのかにラベンダーを添えてございます。夜の冷気で強張ったお心を、優しくほどけさせる一杯です」


安らかな眠り――。


それが何故か“赦しの言葉”のように聞こえた。

何も知らないはずなのに、何もかも見通すようなその瞳で、彼は静かに私を見つめる。

私はカップから立ち昇る湯気を眺めた。

湯気の向こうに甘くやわらかな花の香りが揺らめき、それだけで心を落ち着かせる。


ひとくち、ゆっくりと口をつける。

少し蜂蜜を思わせるリンデンの甘さと、カモミールのほっとするまろみ。

そして最後に、レモンバームの清涼感が私のなかを駆け抜けてゆく。

このお茶はまるで、私の前に現れた貴方のようだと思った。


私の最期を飾るのに相応しい、特別なハーブティー。

「ありがとう。……おいしい」

声が揺れる。

涙が溢れそうになる。

でも、私は笑う。


レイは何か言いかけて口を開く。

けれど、声にはしないまま、何かを飲み込んだ。

「おやすみなさいませ。お嬢様が美しい夢を見られますように」

――ああ、なんて素敵な別れの挨拶。

「おやすみなさい……」

“また明日”はもう、言えなかった。




 一月四日(火) 曇り


 本日、お食事を召し上がるお嬢様のご様子が

 どこかいつもと違っていた。

 何かを恐れているような、迷っているような。

 けれど最後には、覚悟を決めたような。

 その瞳が強く、私の胸を支配した。

 どこかで不安を感じていた。

 どこかで違和を感じていた。

 しかし、私にはその正体が、分からずにいた。

  



穏やかな午後。

この時間お嬢様は、ガゼボでご自分を見つめ直しておられる。

凍てつく風に負けてしまわれないよう、私はそっと、温かい紅茶をお持ちする。


私の日課。

私の、秘めやかな安らぎの時間。

ジンジャーティーをトレイに乗せ庭へ出ると、ドアを開けた瞬間に乾いた冷気が肌を刺す。

この寒さのなか、お嬢様は身を震わすことなく佇んでいる。

「お嬢様、お寒くはありませんか?」

その唇から漏れる息は白いのに、彼女の頬は開きかけた薔薇のように、薄く色づいていた。

けれど、カップを包む指先は少し強張っていて。


私はそっとリネンを掛けた。

お嬢様は不思議そうに私を見つめられる。

その眼差しが愛しくて、切なくて。

私はただ微笑んだ。


紅茶を含んだ口角が僅かに上がり、瞳を閉じてその余韻を感じているような表情。

それが、何とも形容しがたい美しさで、私は言葉を失った。

最後のひとくちを飲み終え、お嬢様は静かにカップを置く。

「……そろそろ戻ります」

いつもは、もう少しごゆっくり過ごされるのに――。


私のなかで“寂しい”という感情が蠢いた。

しかしその感情は私が持ってはいけないもの。

小さく息を吸い、私はそれを鎮めた。

「かしこまりました」

なんとか絞り出した言葉は冷気のなかを漂い、儚く消えた。


 

使用済みのカップを洗い、夕食の準備のために食堂へ向かう。

その途中、どこからか視線を感じて顔を上げる。

階段の上から、アリサお嬢様が私に刺すような視線を注いでいた。

怒っているような、でも今にも泣き出しそうな。

そんな瞳で私を見据えている。

私は軽く一礼し、その場を去った。


テーブルを整え、お嬢様のお部屋へ向かう。

ドアの隙間からはただ闇が漏れていた。

お部屋にいらっしゃらないのだろうか。

そっとドアを叩き、様子を窺う。

「失礼いたします。お嬢様、夕食のご用意が整いました」

仄かな月明かりに照らされ、ベッドの上で膝を抱えておられるお嬢様。

心を空虚にしているような、悲しげな雰囲気を纏っている。

「お部屋が暗いままですが、お加減などお悪いのでしょうか」

「いいえ。何でもないわ」

その声の奥で、何かが叫んでいるような気がした。

けれど私には、それを追求することは許されない。

 


鹿肉のローストを前にしたお嬢様の瞳が、微かに揺れる。

奥様とアリサお嬢様は黙したままお食事を続けられていて、お嬢様だけがひとり、ナイフを手にすることなく皿を見つめていた。

「どうぞお召し上がりください」

そっと声を掛ける。

お嬢様の指先がぴくりと小さく跳ね、その手が優雅にナイフを取る。


鹿肉にゆっくりとナイフを入れ、切り進める。

そのたび、赤が断面を這うように滲む。

まるで静謐な儀式のように、そのナイフは音もなく肉の間を滑る。

彼女はそれを憐れむように、慈しむように、唇で包む。


私はお嬢様から目が離せずにいた。

彼女が鹿肉を口に運ぶたび、泣きそうな表情をなさるから。

その涙が形になってしまわないよう、私は祈ることしかできなかった。



お嬢様の、お休み前のお茶を用意する。

今日のお嬢様はどこか心が遠くへ行ってしまっている気がして、それが少し気がかりだった。

ラベンダーに、レモンバームとカモミールのブレンド。

この香りがお嬢様の心をそっと包み、癒してくれるように。

願いを込めて丁寧に淹れる。


お部屋のドアを叩く。

一瞬の沈黙のあと、少し慌てたようにお嬢様の声が跳ねた。

お茶を味わうお嬢様は、やはりどこか、いつもと違う。

まるでほんの少しの衝撃で壊れてしまいそうなガラスを扱うように、全神経を研ぎ澄まされているような――。


その不安を抱きしめたいのに、触れることすら叶わない。

「では……おやすみなさいませ、お嬢様」

お嬢様がひとくち含まれたのを確認して、私はそっと下がる。

「ええ。おやすみなさい、また明日」

すっかり私の日課になった、この短いやり取り。


「また明日」と言われるたび、私がお傍に仕えることを許してくれている気がして安堵する。

お嬢様の優しさが滲むひと言だ。

私はその言葉を噛みしめ、部屋を後にする。



翌日。

お嬢様のお誕生日。

しかし、彼女は自らそれを口にはせず、パーティーを開かれることもない。

もしかしたら、他人に祝われるのが苦手でいらっしゃるのかもしれない。


それなら、私から祝いの言葉を述べるのは控えるべきだろう。

しかし、言葉にはせずとも、何か祝福をお贈りしたい。

私の、心許りの祈りを――。

 


午後三時。

お嬢様は今日もおひとり、この時間をガゼボで過ごされている。

私はいつも通り紅茶を用意する。

オレンジピールに伸ばしかけた手を止め、少し迷った末、ローズペタルの瓶を取った。


今日は特別な日。

それに相応しく、薔薇の香る紅茶にしよう。

お嬢様には薔薇がよく似合う。

もちろん、それを口にしたことはない。

口にすれば、その薔薇が散ってしまうような気がして、その想いは胸に秘めたままでいるのだ。


カップに優しくリネンを掛け、ひとり凍えているお嬢様のもとへ向かう。

駆け寄りたい衝動を抑え、ゆっくりと、優美に、軽やかに。

「今日だけの香りね」

そう言ってお嬢様は微笑まれた。


そう。

貴女の誕生を祝うための、今日だけのブレンド。

私からの――メッセージ。


この日、お嬢様はいつもより少し長い時間をこのガゼボで過ごされた。

そして庭に咲く草花をゆっくりと眺めてまわり、玄関へ入る前、名残惜しそうに庭を振り返っている姿が印象的だった。

お嬢様は、何を思っていらっしゃるのだろう。



午後八時三十分。

テーブルにメイン料理を並べる。

お嬢様のために選んだ、鴨のロースト。

奥様もアリサお嬢様も、何も仰らない。

アリサお嬢様のお誕生日とは、まるで違う。


誰からも「おめでとう」と言われない誕生日を、お嬢様はどのような気持ちで過ごしていらっしゃるのか。

私だけは、言うべきではなかったのか。


お嬢様は鴨をゆっくりと食べ進める。

このように味わって召し上がるのは珍しい。

本当に、今日はどうされたのだろう。


デザートには、お嬢様が以前お聞かせくださった、思い出の苺タルトをご用意した。

クリスマスではないが、今日という特別な日に召し上がっていただきたくてシェフに依頼したのだ。

お嬢様の表情も、少し柔らかくなられたように感じる。


私はテーブルの上のポインセチアに視線を移す。

私からの“祝福”は伝わっただろうか。

もしそうなら――この上ない幸せだ。



「お嬢様。お休み前のお茶をお持ちいたします。本日はどのようなものをご用意いたしましょうか」

お嬢様がこの日最後に口にされるものを私の手でお淹れする。

このひとときが、私にとって至福の時間なのだ。 

お嬢様のご気分に合わせて茶葉を選ぶその瞬間も、湯気の香りに和らぐ表情も、「おいしい」と心から漏れる声も、すべてが愛おしい。


「よく……眠れるものを」

お嬢様は目を伏せられた。

私は配膳室へ向かい、茶葉に手を伸ばす。

安眠効果のあるものを――そう、カモミールがいい。

それとリンデンにレモンバーム、香りづけのラベンダー。

お嬢様が、優しい眠りにつけるように――。


私は少しの違和を感じた。

寝不足のご様子はないように思えた。

お嬢様は何故、あのようなことを仰ったのだろう。

伏せた目、睫毛が微かに震えていた。

何か、お悩みがあるのだろうか。


ハーブティーを手に、お嬢様の私室へ戻る。

ドアを開けた瞬間目についたキャンドルホルダー。

シンプルだが気品のあるアンティーク。

その先に揺れる、蝋燭の火。

「蝋燭……でございますか」

思わず声が漏れた。


お嬢様は普段からランプの淡い光を好まれるが、蝋燭をつけたところは初めて拝見する。

「ええ。特別な夜に…したくて」

嗚呼、そうか。

お嬢様はご自分で誕生日を祝われているのだ。

それなら私は、その特別な夜に、特別な一杯を。


私はそっとカップを差し出す。

お嬢様のお好きな、薄いグリーンのカップ。

縁の金色に蝋燭の火がちらりと光る。

「本日はお嬢様の安らかな眠りを願い、カモミールを基調に、リンデンとレモンバームを合わせております。ほのかにラベンダーを添えてございます」

立ち昇る湯気を眺めながら、お嬢様は優しく目を細められた。


カップにそっと唇をつけ、琥珀色の液体を静かに含む。

「ありがとう。……おいしい」

微笑んでいるのに、その声は小さく揺れていて、眉間に淡い翳りが走る。

「何故……」

言いかけて口を開いた。

けれど、声になることはなかった。


踏み込んではけない。

そう自制し、一度深呼吸をする。

「おやすみなさいませ。お嬢様が美しい夢を見られますように」

お嬢様の瞳が僅かに揺れた。

けれどすぐに柔らかく微笑み、私の目をまっすぐに見つめられる。

「おやすみなさい……」

それは、そよ風の囁きのように優しく響いた。


なのに――

ドアを閉めた瞬間、何かが冷たく剥がれ落ちた。


――ない。

 

「また明日」が、ない。


その言葉を言わないお嬢様など、想像したこともなかった。

当たり前のように毎日、私にその言葉をくださるから――。


足が止まった。

今日の出来事が鮮烈に甦る。

庭を眺めていた、あの視線。

一口ひとくち噛みしめるように召し上がっていた鴨のロースト。

蝋燭。

揺れる瞳。

震える声。


「よく……眠れるものを」


お嬢様の声が頭の中で反響する。


嗚呼――

まさか、そんなはずは――。


耳鳴りのような沈黙が、私を呑み込む。


音が消えた。


屋敷の静寂すら、今は聞こえない。


気づけば私は走っていた。


けれど、足音がしない。


絨毯を踏みしめる感触だけが、恐ろしく鮮明だった。


ドアノブを握る指が震える。


何かを壊すように押し開ける。

 

その一瞬も、まるで音がない。


視界が白く滲んだ。


ただ、その手に握られたものだけが、はっきりと見えた。


「お嬢…様……」

喉に張り付いた声をなんとか絞り出す。

胸のロザリオに寄り添うように突き立てられた、銀のナイフ。

 

「なぜ……」

蝋燭の傍ら、お嬢様は狼狽の目で私を見る。

「なぜ、戻ってきたの……」

嗚咽にも似た声。

唇が震えている。

ナイフの先、その胸元に赤い血は滲んでいなかった。


――間に、合った。


全身の力が抜け、崩れ落ちそうになる。

それをなんとか耐え、一歩、二歩、お嬢様のもとへ歩を進める。

足が地を蹴っている感覚がない。

お嬢様までの距離が、果てしなく遠く感じた。


やっとの思いでお嬢様の傍らへ辿り着き、片膝をつく。

ナイフを握った彼女の手を包み、ゆっくりと指を剥がしてゆく。

人差し指、中指、薬指――

力のこもらないその指は、簡単に銀から離れてゆく。


熱をもったナイフが私の手に移る。

ようやく、私の世界に色彩が戻った。

「お嬢様、何故……」

何度も飲み込んできた“何故”を、今だけは押さえることができなかった。


お嬢様の手のひらは、ナイフがまだそこにあるかのように軽く握られたまま動かない。

「私は……貴方に、迷惑をかける。私の…せいで、貴方が……」

涙に濡れた声は雨のように、ぽつり、ぽつりと私に降り注ぐ。

「……どなたに、そのようなことを言われたのです」

私もまた、声が震えていた。


お嬢様は小さく首を振る。

「私は貴方を不幸にしてしまう。私は貴方にとって、毒になる……私の、存在が……」

呪文のように繰り返すお嬢様を、私はただ見つめるしかなかった。

今すぐ抱きしめてしまえたら、どんなにか楽だろう。

こんな時でさえ、私の理性は働いている。

廊下を駆けだし、ノックも忘れてドアを開けたあの瞬間だけは、考えることをやめていたのに。


お嬢様は、ご自分のせいで私が傷つくとお思いだ。

それならば生きていない方がいいと、自らナイフを取った。

「死ぬな」と言うのは簡単だ。

しかし、何故か私にはそれが言えなかった。


彼女にとって「死」とは、きっとそんなに単純なものではないのだろう。

それは救いであり、祈りであり、希望であったのかもしれない。

それを否定することは、彼女自身を否定してしまうようで、安易に言葉にできなかったのだ。


「お嬢様は……お優しい方でいらっしゃいます」

「……優しい?」

お嬢様の瞳がおおきく揺れる。

「貴女はご自分のせいで私が不幸になるとお考えになった。私のために、貴女はご自身を犠牲にしようとなさった。貴女は優しすぎるのです」

お嬢様は決意してからずっと、私を守ろうとしていたのだ。


それなのに私は――。

私はどうして、気づけなかったのだろう。

苺のタルトなんか用意しなければよかった。

ポインセチアなんか飾らなければよかった。

安眠効果のあるお茶なんか淹れなければよかった。

「安らかな眠りを」

あんなこと、言わなければよかった。


私が祈りを込めたものがすべて、お嬢様をこの世から解き放つための儀式にしてしまったのだ。

誰よりも愛している方を、この手で葬ろうとしていた。

膝の上で手を握りしめる。

「…………ない」

あまりにも小さな声でお嬢様が何かを囁いた。

私はその顔を静かに見つめる。

「……優しくなんか、ない」


悲しみ、申し訳なさ、そして少しの苛立ち。

それらすべての感情が凝縮されたような響きだった。

「私は自分を守っただけ……。貴方のいない世界など、私が耐えられないから。自分の手で貴方を苦しめるのが辛かったから。それなら……死んでしまったほうが、楽だと思っただけ。だから、優しくなんか……」


嗚呼、そうか。

貴女は――。


「貴女は“優しい”と言われるたびに、きっと苦しかったのですね。それは優しさじゃない。誰かのためなんかじゃない。ただ……怖いだけ。けれどお嬢様。その選択を、一体誰が責められるでしょう。貴女はただ、優しかった。自分が傷ついてでも、私を救おうとなさった。その結果がすべてではありませんか?」


“お優しいですね”と、言うたびに彼女は少し、悲しそうな表情をされることがあった。

誉め言葉だと思っていた。

けれど、貴女にとってそれは、責苦の言葉だったのですね。


「私、は……」

しとどに落ちる涙は頬を駆け抜け、乾いた唇を濡らしてゆく。

「私は、嫌な人間です……。貴方が思うような、綺麗な心なんて持っていない。自分が傷つくのをなにより畏れ、他人と向き合うことから逃げ、貴方に甘え、迷惑をかけ、結局死ぬことすらできなくて……でも、ほっとしてしまっている自分がいて。こんな私は、嫌われて当然の人間なんです。貴方にも……でも……」


涙に乱れた面差しを、そっと両手でお隠しになる。

その隙間から、お嬢様の胸の奥に眠っていた本心が漏れた。

「嫌わ…ないで……」

消えそうなほど小さな声。

けれど、その奥に悲痛な叫びが聞こえた気がした。

「お嬢様を嫌うなど、わたくしには決して、できはしません」

声が詰まりそうになる。


ただの慰めではなかった。

私の、紛れもない本心だ。

嫌いになれるはずがない。

それどころか、お嬢様の傷に触れるたび、私の愛はより深くなってゆく。


「本当に……?」

「はい、お嬢様。わたくしが貴女に嘘をついたことがあったでしょうか。わたくしは、お嬢様のことを嫌いになどなれないのです。ご自分の心に素直で、繊細な感性をお持ちで、お優しくて、たまにご自分を責めてしまわれる。けれど、どんな貴女も、貴女であることに変わりはございません。お嬢様のせいでわたくしが傷つくことなどあり得ないのです。ですからどうか、今日も、明日も、その先もずっと……“また明日”と、わたくしに仰ってください」


お嬢様は、お声を張り上げるようにお泣きになった。

そのお姿は、私には酷だった。

私はハンカチでお嬢様の頬をそっと拭う。


こんなにも近い。

なのに、私とお嬢様の間にはいつも、手袋という境界線がある。

薄い布一枚で隔てられたこの距離が、とても遠くに感じられる。

その涙に、頬に、手に、境界線を越えて触れてしまえたなら。


指先に力がこもり、純白のハンカチに皺が寄った。

部屋にはただ、お嬢様の声にならない声だけが、静かに響いていた。


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