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10 カランコエ

カランコエの花言葉「あなたを守る、たくさんの小さな思い出」

クリスマスに熱を出して寝込んでしまう令嬢。そして、それを看病する執事レイ。熱に浮かされ、ほんの少し素直になってしまった令嬢に、レイは必死に理性を抑える。

 十二月二十四日 金曜日


 クリスマス・イヴ。

 そして、本当のお母様の命日。

 世界が祈りと祝福に包まれるなか私はひとり

 そっとお母様のことを思い出すのです。

 いつもは孤独を強く感じていたこの季節。

 今年は少し、心があたたかい。

 きっと貴方が、私の話にそっと、耳を傾けてくれたから。

 冬。それは、私が自分を見つめ直す季節。

 それは、私が最も生を実感する季節。




吐く息が白い。

庭を歩きながら、私は花壇で凍えている草花を眺めた。

ポインセチア、シクラメン、ビオラ、カランコエ――。

冷たい風が花びらを撫でるたび、彼らが震えているような気がして。

私は少し、感傷的になる。

灰色の空は重たく垂れこめて、今にも雪が降り出しそうだった。


静かな庭。

お気に入りのガゼボ。

私はひとり、指を組む。

遠くで、クリスマスを祝う歌や歓喜の声が微かに聞こえている。

その音を胸の奥に感じながら、私はお母様を想った。


ふと、人の気配がして振り返る。

「寒くは、ございませんか?」

レイは銀のトレイに乗せた紅茶を静かに差し出す。

湯気の向こうに揺れる彼の微笑みが、なんだか少し、切なそうに見えた。

「……お願いしたかしら?」

「いえ。ですが、お庭で長くお過ごしでいらしたので」

やさしくて、あたたかい声。

耳がじんわりと熱を持つ。

私は紅茶を手に取り、カップを両手でそっと包んだ。

「ありがとう、レイ。……あたたかい」


レイの気配が動く。

そっと、彼は踵を返して立ち去ろうとしている。

いっそその手をとって、引き留めてしまいたい。

でも、彼の名を呼ぶことはできなかった。

代わりに、私は静かに話し始める。


これは私の独り言。

でも、もし貴方がこの場に留まってくれるなら、私の言葉はただ貴方のために存在する。

「私の母は……私が幼い頃に亡くなったわ。病気だった」

紅茶の中にお母様の面影を映す。

レイは去ろうとしていた足を止め、私の方へ向き直った。

何を言うわけでもなく、ただ黙って私の声に耳を傾けている。


私は続けた。

紅茶を見つめたまま、彼を見ることはしない。

「父はいつも家にいなかったから、クリスマスは毎年、母とふたりきりだったの。それでも幸せだったわ。父からは山のようにプレゼントが届くし、母は食べきれないほどのご馳走を作ってくれて。ケーキは必ず、私のほうを大きく切ってくれるの。私の好きな、苺のたくさん乗ったタルト」


私は紅茶をひとくち啜る。

ジンジャーとフェンネルのブレンドが、冷えた身体にほんのりと沁みてゆく。

甘く、けれどほんの少しピリリとした香り。


「私が八つのときだったわ。冬の訪れとともに母は体調を崩したの。父は飛んで帰ってきた。母は大丈夫だと笑ったけれど、父は私に隠れて泣いていた。母は、きっと死んでしまうんだと思った。それでも、きっともっと先のことだと思っていたの。だって母は、私にクリスマスのプレゼントを約束してくれたから。でも、日に日に母は衰弱していって……雪の降りしきるクリスマス・イヴの夜、眠るように亡くなった。大事そうに抱えた箱の中には、私へのプレゼントが入っていたの。母が作った、世界にひとつだけの童話。私はそれを、暫く読むことができずにいた。読んでしまえば、もうここに母はいないのだと認めてしまうような気がして、怖かったから。その本を初めて読んだのは、母が亡くなって一年が経ったクリスマス・イヴ。そこには愛や希望が詰まっていて、私は物語の世界に没頭したわ。どんなに辛いことがあっても、物語に集中している間だけは忘れられる」


ひらり。

柔らかな雪片が頬に落ちる。

見上げると、灰色の空からは真っ白な雪がひとつ、ふたつ。

そして、それは次第に深まってゆく。

私は紅茶を飲み干す。

紅茶もカップも、すっかり熱を失っていた。

空になったカップに、レイは静かに紅茶を注ぐ。


少し冷めた紅茶。

でも、私の心を溶かすには十分だった。

「母の手も……こんな風に、あたたかかった」

紅茶だけではない。

彼の静かな優しさが、紅茶に込められた想いが、とてもあたたかくて、私は泣きそうになる。

レイは私の傍らでそっと――ただ、そこにいた。



その日の夜、私は熱を出した。

寒いなか、随分と長居をしてしまったから――。

でも、私はどこかすっきりとした気持ちになっていた。

お母様のことを人に話したのは初めてだ。

それが、彼でよかった。

ただ静かに聞いていてくれる。

それがとても心地よくて、なにより彼に私のことを知ってもらえたことが嬉しい。


彼は自分を責めていた。

自分がついていながら私に熱を出させてしまったと、申し訳なさそうに謝っていた。

謝るのは私なのに。

寒空の中、彼を昔話につき合わせてしまって。


――私が贈った詩を、彼は読んだだろうか。

何を、思っただろうか。

私の気持ちに気づいたのなら、あんなに冷静に、普段通りに接することはできないのではないかしら。

それとも――私の気持ちなど、取るに足らないということ?


自分が仕えている“お嬢様”に好意を向けられたところで、彼はきっと困るだけ。

応じることはできず、かといって無下にもできない。

きっと、面倒な女だと思われた。

あんなにも気持ちを込めるべきではなかった。

「もっと、ただの詩らしく装えばよかった」


熱のせいか、思考はどんどん悪い方へ働いてしまう。

今日はもう、眠ってしまおう。

明日はクリスマス。

きっと、いいことがあるはず。



十二月二十五日。

クリスマスの朝は静かに始まった。

雪は止み、窓の外は一面が銀世界で。

まるで幻想の世界に迷い込んだように、陽の光をうけて全てがきらきらと輝いている。

――けれど。


「お嬢様、お加減はいかがですか? お薬をお持ちいたしました」

私の熱は下がるどころか、悪化していた。

喉がひどく痛み、身体も思うように動かない。


クリスマスに体調を崩すなんて、私はなんて間抜けなんだろう。

薬を口に含み、水で一気に流し込む。

「何かお食事をご用意いたします。お粥はお召し上がりになれそうですか?」

レイは心配そうに私の顔を覗き込む。

喉が痛くて、私はただ黙って首を横に振った。

「……では、温かいスープをご用意いたします」

そう言って彼は静かに部屋を出て行った。


少しして、彼はスープを手に戻ってきた。

カブとフェンネルのポタージュ。

湯気にのって、優しい香りが部屋の中に満ちる。

とろりとしたスープを掬い、そっと口をつける。

「……おいしい」

スープが優しく喉を潤し、痛みが少しだけ和らいだ気がした。

「これ、貴方が作ってくれたのでしょう?」

「……はい。お口に合ったようで、何よりでございます」


レイは驚いたような顔をしていた。

なんとなく、シェフの作ったものではないと思ったのだ。

何故だかはっきりとは分からないけれど、私の直感がそう言っていた。

「では、わたくしはこれで失礼いたします。また午後のお薬の時間に参ります」

レイが、行ってしまう――。

そう思ったら、咄嗟に彼の袖口を掴んでいた。

彼の瞳は一瞬戸惑いの色を浮かべ、そしてすぐに微笑んだ。

「どうか……されましたか? お嬢様」

「もう少しだけ……ここにいて。私が、眠るまででいいの」


こんなに心細くなってしまうのは、きっと熱のせい。

貴方に甘えてしまうのは、熱のせい。

だからお願い。「はい」と言って。

その答えを聞くのが怖くて、私はぎゅっと目を瞑った。


彼の吐息が微かに空気に揺れた。

これは、笑っている気配――。

「かしこまりました。では、お休みになるまで、ここにおります」

椅子をベッドの横につけ、彼は静かに腰掛けた。

優しく微笑みながら、まるで子供を寝かしつける母のような眼差しで、彼は私をそっと見つめている。

「ねえ……なにか、お話しして」

「話、でございますか?」

「ええ。何でもいいの。貴方のことを話してちょうだい」


少しの沈黙のあと、彼は静かに語りだした。

「では、わたくしが嬉しかった出来事を少々」

視線は私から窓へ移り、ひとつひとつ丁寧に思い出すように、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。


「……覚えておいででしょうか。わたくしがこのお屋敷へ参ったばかりのころの話でございます。ある日、わたくしはホールの花瓶に水仙を生けました。奥様のお嫌いな花だということを存じ上げず、わたくしは叱責を受けておりました。そこへお嬢様がいらっしゃり、わたくしを庇ってくださったのです。“私がレイに頼んだの”そう仰って、貴女はわたくしを守ってくださった。そのときから、わたくしは“この方に心からお仕えしよう”と誓ったのです。お嬢様は他人との接し方が苦手だと、ご自分を責めていらした。けれどわたくしは、お嬢様が優しい心をお持ちだとすぐに気づきました。これからも、わたくしは誠心誠意、お嬢様にお仕えいたします」


どこまでも優しい、あたたかい声。

そして、残酷な言葉。

“誠心誠意”

それは、この関係が変わることは決してないという、強い宣言。


薬が効いてきたのか、瞼が途端に重くなる。

薄れてゆく意識の中で、私は彼の顔を見つめていた。

「おやすみなさいませ、お嬢様」

「おやすみさない、また…明日……」

いつもの挨拶。夢か現かは、分からなかった。



目が覚めると、そこにはもう、レイはいなかった。

少しだけ、寂しさが胸を吹き抜ける。

けれどすぐに、私は部屋に満ちるハーブの香りに気づいて辺りを見回した。


ベッドサイドのテーブルに置かれたハーブティー。

まだほんの少し温かい。

彼は私が眠ったあと、ハーブティーを淹れてもう一度この部屋に来たのだ。

カップに寄り添うように置かれた、薔薇の形のナプキン。

彼が私のために折ったその繊細な薔薇が、胸の奥に甘くひらいてゆく。

けれどこれは、あくまで“誠心誠意”の形。

私にとって、この気持ちは本当に恋なのだろうか。

ただ、憧れているだけではないのか。

分かっているのは、彼にとっては間違いなく“恋ではない”ということ。


ハーブティーをひとくち含む。

リンデンのほの甘い香りが、波立つ感情を静かに抱擁する。

 


翌日、私の体調は回復した。

薬と、レイの献身的な看病のおかげだろう。

一日中寝込んで終わったクリスマス。

でも、彼が看病をしてくれた。

それだけで、今までで一番特別な日になった。


私は外の空気を吸いたくて玄関へ向かう。

ドアを開けた瞬間、白いかたまりが勢いよく家の中へ飛び込んだ。

――ステラだ。


ステラはホールを駆けまわり、コンソールテーブルにぶつかってしまう。

その拍子に花瓶は倒れ、床に落ちたそれは大きな音をたてて割れた。

私は慌てて駆け寄り、割れた花瓶に手を伸ばす。

「お嬢様!」

やや焦ったようなレイの声がホールに響き、すぐに彼が駆けつける。

「いけません。そのようなことをされては、お怪我をなさいます。貴女は守られ……」

そう言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。

「いえ……。ここはわたくしが片付けます。危のうございますので、お嬢様はどうかお下がりくださいませ」

「え、ええ……分かったわ」


彼はなんと言いかけたのだろう。

“守られる存在だから”?

いつも守られてばかり。

でも、それではいけないの。

私だって彼を、守れる人でありたい。

破片を拾い集める彼の後ろ姿を、私は静かに見つめた。


庭に出ると、降り積もった雪が眩く私を出迎える。

真っ白な地面に、ステラの小さな足跡が点々としていた。

花壇に積もった雪は誰かの手によって綺麗に掃けられている。

きっと、レイがそうしたのだろう。


花が好きな私のために、彼はいつも花壇を整えてくれる。

枯れた葉や落ち葉を取り除き、常に季節の花を植え、色や配置にも私の好みを反映して。

私は白いカランコエの花にそっと触れた。


カランコエには素敵な花言葉がたくさんある。

『あなたを守る』『幸福を告げる』『たくさんの小さな思い出』『おおらかな心』

「まるで、貴方みたいね」

頭に浮かんだそのひとに向けて呟いてみる。


「まるで、魔法で雪が姿を変えたような、見事なカランコエでございますね」

レイの優しい声が雪のように降ってくる。

静かに、滑らかに響く心地の良い声。

けれど、私の心臓は大きく跳ねた。

彼は花を見つめて微笑んでいる。

どうやら、独り言は聞かれていなかったようだ。


「レイ。このカランコエを食堂に飾ってほしいの。大きな花じゃないけど、小さな思い出が積もって咲いた、素敵な花だから」

まるで、私とレイのようだと思った。

でも、言葉にはしない。

この思い出は私の胸に、大事に、大事に仕舞っておくの。

雪の結晶のように――溶けずに、凍らずに、ただ、静かにきらめいて。




 十二月二十四日(金) 雪


 クリスマス・イヴ。

 今にも雪が降り出しそうな灰色の空の下、

 私はお嬢様の過去に触れた。

 幼き日の、お嬢様とお母様の大切な記憶。

 お嬢様がその話をしてくださったのは、今日が初めてだった。

 けれど、その後お嬢様はお風邪を召された。

 聖なる夜に体調を崩されるのは、さぞお辛いことと存ずる。

 私がもう少し気を配っておれば――。




食堂の窓から、おひとりでガゼボに佇むお嬢様の姿を見た。

白く曇った窓が外の寒さを物語っている。

私は紅茶を淹れた。

身体の芯から温まるよう、ジンジャーとフェンネルのブレンド。


温めておいたカップに紅茶を注ぎ、白いリネンでカップをそっと包む。

外の風に触れても、少しでもその温もりが続くように――。

それは誰にも気づかれないかもしれない。

けれど、誰かを想って淹れる、祈りのような一杯。


ガゼボの中央で、お嬢様は祈るように指を組んでいる。

その姿が、楽園に舞い降りたイヴのようにも天使のようにも見えて、私は人知れず息をのんだ。

「寒くは、ございませんか?」

その寂しげな佇まいに、私は喉が詰まるような思いがした。

冷たい空気を吸い込んだせいだろうか、胸が痛む。


お嬢様は両手でそっとカップを包み、ほぅっと吐息を漏らす。

いつもなら、ガゼボに佇む彼女の頬には涙があった。

けれど今日の彼女は、少しだけ、強く見えた。

私はその場を離れようと、そっと一歩下がる。

その瞬間、彼女は紅茶を見つめたまま静かに語りだした。


幼き日の、母と娘の幸せな光景。

そして、それを突如失った、クリスマス・イヴ。

彼女はきっと、母の形見である童話がきっかけとなって童話作家になったのだろう。

話し終わると同時に、灰色の空から雪が舞う。

ひらひらと揺らめく姿は純白の花びらのように、彼女の頬にそっとその身を落とす。


お嬢様はすっかり湯気の消えた紅茶を飲み干して、冷えたカップを名残惜しそうに見つめた。

私はポットの紅茶を注ぐ。

カップだけでなく、その心まで満たすように、静かに、丁寧に。

「母の手も……こんな風に、あたたかかった」

お嬢様のその呟きを、私は胸の奥で反芻する。


世界が祝福に包まれるこの日、彼女はひとり、母を想い続けている。

私の淹れた紅茶に、あの日の手の温もりを感じる。

彼女が失ったもの。

今も胸に抱いているもの。

その痛みと優しさに、私はただ静かに、傍らに立ち続けることしかできなかった。



十二月二十五日。

この日は奥様もアリサお嬢様も、ご友人宅で催されるクリスマスパーティーにご出席なさっていた。

屋敷には風邪をお召しになったお嬢様と私、そしてエマの三人のみ。

「何かお食事をご用意いたします。お粥はお召し上がりになれそうですか?」

お嬢様は静かに首を振る。

昨晩もほとんど召し上がらなかった。


何か少しでもお口に入れていただきたくて、私はカブとフェンネルのポタージュを作った。

喉を傷めておられる彼女に合わせ、優しい味付けでとろみのあるスープを。

きっとお嬢様は食が進まないだろうと推察し、あらかじめカブを煮ておいた。

それにミルクを加えて煮ると、厨房に甘い香りが立ちこめる。


スープをひとくち啜ったお嬢様は「おいしい」と小さく呟かれた。

その顔は安堵の色を湛えていて、私もほっと胸をなでおろす。

「では、わたくしはこれで失礼いたします」

立ち去ろうとする私の袖が僅かに引かれる。

そこへ目を向けると、お嬢様の指先が私の袖口を掴んでいた。

控えめに、けれど、確かな意志をもって。


微かに震える指先に触れた刹那、私はその手を握ってしまいたくなった。

そのまま弱った身体を抱き寄せ、熱も、痛みも、すべてこの身に引き受けられたなら――。


けれど私は既の所で踏みとどまる。

僅かに残った理性が、頭の中に警鐘を鳴らす。

「どうか……されましたか? お嬢様」

「もう少しだけ……ここにいて。私が、眠るまででいいの」

お嬢様は、どうにか繕った微笑の仮面を、砕き落そうとしていた。

私は畏れた。

しかし、それが臥せっている彼女の望みならば、私はそれを叶えて差し上げたい。

――お嬢様は、私に何か話をするよう仰った。

私は以前、彼女に救われたときのことを話した。


あのときはただ心から彼女を尊敬し、忠誠を誓った。

いつからだろう。

私はもう、彼女を“忠誠”だけの目で見ることができずにいる。


話し終えるころ、彼女は微睡の中にいた。

瞼がゆっくりと落ちてゆく。

「おやすみなさい、また…明日……」

“眠るまで”

その約束通り、私はそっと席を立った。


お嬢様が薬をお飲みになる際に使用したグラスを洗い、柔らかな布で丁寧に拭く。

気がつけば布を越え、親指がグラスの縁をなぞっていた。

グラスに口をつけ水を含むその仕草が脳裏に焼き付き、繰り返し思い出してしまう。

胸の奥から何かが込み上げて、私は親指をそっと、唇に当てた。


ひとつ深呼吸をし、立ち上がる。

お嬢様がお目覚めになってすぐ喉を潤せるよう、ハーブティーを淹れてお持ちしよう。

心身の緊張をやわらげる、優しい味のリンデンを。


お嬢様を起こさぬよう、慎重にドアを開ける。

ベッドサイドのテーブルにハーブティーを置き、彼女の様子をそっと窺う。

少し寝苦しそうに眉を顰める彼女に近づき、静かに、優しく、乱れた髪を整える。

掛け布団をそっとかけ直し、布の端を整えていたそのとき、お嬢様が小さく呻くような吐息を漏らす。

苦しんでおられるのか。

そう思い、彼女の顔を覗く。


薄く開いた唇が微かに動いた。

「レ…イ……」

一瞬の戦慄きのあと、脈が乱れる。

――起きてはいないようだ。

お嬢様は夢の中でさえ、私の名を呼ばれるのか。


我知らず手に力がこもる。

その声に応えるように、静かに囁く。

「大丈夫です、お嬢様。……ここにおります」

どうかその夢が、貴女にとって優しいものでありますように。

私の祈りが柔らかな光風となり、その熱を攫っていきますように。

ほんのり紅潮した頬に手を伸ばし、触れるか触れないかの距離で撫でるように指を滑らせる。

愛しさと自制心がせめぎ合い、目の奥に、言葉にならぬ熱が灯った。


 

午後十時。

眠っているであろうお嬢様のお部屋のドアをそっと開く。

「失礼いたします」

小さく囁き、音をたてないよう中へ入る。

熱を測るため、私は手袋を外した。

直接肌に触れないよう薄手の白いハンカチを額に当て、その上から手を重ねる。


――熱は下がっているようだ。

安堵の吐息を漏らし、そのまま部屋を後にした。



翌日。

食堂にて朝食の準備をしていたところ、ホールのほうで何か大きなものが割れる音がした。

駆けつけると、そこには床に落ちて割れた花瓶、白猫のステラ、それを追うお嬢様の姿があった。

私は瞬時に状況を把握する。

割れた花瓶に手を伸ばすお嬢様を、私は慌てて制止した。

「いけません。そのようなことをされては、お怪我をなさいます。貴女は守られ……」

私ははっとして口をつぐむ。

これは執事としての台詞ではない。

間違えてはいけない。


“貴女は守られるべきひとなのだから”

執事として、守るのは当然のこと。

けれどこの言葉に込められているのは――

そんな、綺麗な感情ではなかった。


破片を拾い集める手が強張る。

感情を抑えることは得意だった。

寧ろ、感情を表に出すことのほうが難しかった。

なのに、お嬢様に関係する感情だけは何故か、抑え方が分からない。


ホールの片づけを終え、私は玄関を出た。

病み上がりで外へ出られたお嬢様を屋敷へお連れしようと思った。

けれど、白銀の世界にひとり、花に囲まれたその姿を目にした私は、かける言葉を失った。

カランコエにそっと触れ微笑む彼女はまるで、精霊クロリスそのもの。

その美しさに心奪われた私は、さながら春の訪れを告げるゼピュロスのように、ただ貴女に恋焦がれる。


「まるで、魔法で雪が姿を変えたような、見事なカランコエでございますね」

色とりどりに咲く花々と、お嬢様。雪の中にそこだけ春が訪れたような、あたたかい光を纏っている。

彼女は、カランコエを食堂に飾ってほしいと望まれた。

“小さな思い出が積もって咲いた、素敵な花”だからと。

貴女はその花に、どのような思い出を見たのか。


私は――。

私は、貴女と出会ってからの思い出を見た。

小さな花のひとつひとつに、お嬢様の笑顔、涙、声、震え――すべてを重ねる。

私はカランコエの苗をそっと掬い、慈しむように両手で包んだ。


その日の夕食時、テーブルの中央には白いカランコエが慎ましやかに咲いていた。

お嬢様はお食事の最中、時折その花を眺めてはふっと微笑んだ。

そのたび私も花に目を向け、彼女と同じ景色を見る。

この笑顔を守りたい。

守らなければいけない。


土をつくり、水をやり、肥料を与え、陽の光で包む。

まるで花を育てるように優しく、丁寧に、私は貴女を守る。



十二月三十一日。

今年最後の日は晴れやかな朝から始まった。

邸内の窓を開けると、目の覚めるような澄んだ風が凛として駆け巡る。

空気を整えたあとは暖炉の火入れを行う。

奥様とアリサお嬢様の私室、執務室、そして食堂。

お嬢様のご希望で、彼女のお部屋には火入れを行わない。


お嬢様は以前、冬の冷気が心を洗ってくれるのだと仰った。

「私は生きているのだと、実感する季節」

彼女の儚げな声が静かに胸に沁み入る。

冬が終わるとき、心は死んでゆくのだと語った彼女の瞳が忘れられない。

きっとお嬢様はいま、暖炉のない部屋でひとり、ご自分を見つめ直していらっしゃるのだ。


今日は私も、そうしたいと思った。

細枝を組む手をしばし止め、窓の外の澄んだ空気を眺める。

そして、執務室を後にした。


食堂の暖炉には、ひときわ華華しい大理石のマントルピースが備えられている。

昨夜の余韻を残した灰をかき集め、薪を井桁に積む。

今年の終わりに、この火があたたかく皆様を照らしてくれますように。

部屋の静寂に、マッチを擦る小さな音さえ、今年最後の祈りを告げる鐘のように響いた。

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