1 ハクモクレン
ハクモクレンの花言葉「気高さ、高潔な心」
美しく完璧な所作の執事と、他人と上手く接することのできない令嬢の出逢い。不器用な二人はこの先、どうなっていくのか――。
三月一日 月曜日
今日は、この家に執事がやってきました。
家族と馴染めず、外でもうまくいかず。
いつも一人でいる私を案じて、
父がひと月前倒しで執事を雇ったのです。
執事の名前はレイ。
執事と聞いて私は年配の方を想像していましたが、
レイは若く、そして深い夜の湖のような瞳が印象的でした。
静けさと、少しの憂いを湛えたダークグレーに近いブルー。
私は彼とうまくやっていけるのか。
そのことばかりが、今日の胸を重たくしています。
「本日より皆様にお仕えいたします、レイと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
その執事は、若いのにとても落ち着いた雰囲気で。
所作には気品が滲んでいた。
バリトンとテノールの中間くらい。心地の良い、優しい響きの声。
「あら……こんなに若い方でちゃんと務まるのかしら。まあ良いわ。私はカレン。隣にいるのが娘のアリサよ」
「尽力いたします。 奥様に、 アリサお嬢様でいらっしゃいますね」
カレン――母の嫌味にも全く表情を崩さない。
執事とは、難儀なものだ。
母は、私のことは紹介しなかった。私のことなど娘とは思っていないのだろう。
お父様の再婚相手とその連れ子。我がもの顔でこの屋敷へやってきた母と妹。
別に、どうでもよかった。
私も家族だとは思っていないし、 初対面の人と話すのは緊張する。
このままやり過ごしてしまおう。
「それで……」
レイの視線が、母と妹の間を縫って私に向けられる。
「そちらのお嬢様の、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
私は思わず目を逸らした。
あの澄んだ瞳に見つめられるのが少し、怖かった。
「私の名前は……呼ばなくていいわ」
この家では誰も私の名を呼ばない。
まるで、この世に私は存在していないかのように。
だから、執事にも呼ばれなくていい。
「……かしこまりました。では、お嬢様、とお呼びいたします」
やはりレイは表情を崩さない。
私の失礼な態度にも、柔らかな微笑を湛えて答える。
私は何故あんなことを言ってしまうのか。
いつもそうだ。私は、自分のことが嫌い。
他人とうまく付き合うことのできない、変わり者。
私の感性は、決して周りとは共有できない。
自分の考えを口にすれば傷つくだけ。
それなら、何も言わなければいい。
他人と、関わらなければいい。
ランプに囲まれた薄暗い部屋でため息を漏らす。
この暗さはとても落ち着く。
でも、いつもこうでいられるわけではない。
ランプのスイッチを切り、代わりに青白い光の照明を点ける。
ペン先に藍のインクを浸し、原稿用紙にそっと言葉を綴ってゆく。
“妖精はいいました
きみは、今のままでじゅうぶん素敵だよ”
子供のための童話。
幼い頃、私は童話だけが友達だった。
だから大人になったら、自分も童話作家になるのだと誓った。
自分の気持ちを、願いを、誰に言えなくても物語の中でなら記すことができる。
きっとこの言葉は、私がずっと望んでいたもの。
どこかに、同じように救いの言葉を求めている人がいるはず。
その人に少しでも私の祈りが届くのなら――。
そう思って、私は今日も物語を書き続ける。
「お嬢様のことは、旦那様から少し伺っております」
紅茶をカップに注ぎながら、レイは柔らかな口調で言った。
お父様。海外を拠点に仕事をしていて、家にはほとんど帰らない。
それでも私を心配して、よく手紙を寄こしてくれる。
執事は私のためにと言っていたけれど、母や妹はきっと、自分たちのための執事だと思っているだろう。何でもレイに言いつけ、いいように使っている。
私は執事の世話など必要ない。
今までも、自分のことは自分でやってきた。
差し出された紅茶の柑橘が、やさしく鼻腔を撫でてゆく。
「お嬢様のお書きになった童話を拝見いたしました。とても繊細で、あたたかさが心の奥に沁み入る、 実に美しい物語でございます。お嬢様のお心の清らかさが、自然と滲み出ているように感じられました」
ああ――この人も他と同じ。
上辺の言葉なんて嫌い。
言葉はそんなに、軽いものじゃない。
誠実そうに見えたレイも、やはり私を持ち上げる言葉を使うのね。
でも、このまっすぐな瞳。
こんな目で、思ってもいないことを軽々しく並べ立てられるのだろうか。
「……そんなお世辞は要りません。貴方が本心でない言葉を使う方なら、私にはもう話しかけないでください」
期待して、絶望する。そんな思いはもうたくさん。
「…… お嬢様のご意志ならばわたくしは、そのご意志を尊重いたします。……けれど、本日の言葉は、偽 りではございませんでした」
深く一礼し部屋を出ていくレイの背中が、少し寂しそうだった。
私はその顔が忘れられなかった。
優しく微笑みを湛えた口元。
でも、深い湖のような瞳が、微かに波打っていた。
本心だったというの?
あんなにも心が浮つくような言葉を、あんなにも真剣な眼差しで――。
テーブルの上で拳を握りしめる。
書きかけの原稿が、僅かに皺を寄せた。
あの瞳に見つめられるのが恐ろしい。
全てを見透かされているようで、胸がざわめく。
「お嬢様のお心の清らかさが ――」
違う。私はそんなまともな人間じゃない。
私は清らかなんかじゃない。
そんな目で、私を見ないで――。
紅茶に映った自分の顔を消し去るように、 私は一気に飲み干した。
レイの淹れた紅茶は、今まで飲んだどの紅茶よりも、美味しかった。
きりのいいところまで書き終えた原稿を整え、飲み終わったカップを厨房へ運ぶ 。
広い厨房。四月から はシェフとメイドも雇うのだとお父様は言っていた。
料理や家事なら、私ひとりで充分だと言ったのに。
お父様は昔から過保護なのだ。
「お嬢様」
洗い終えたカップを拭いていると、不意にレイから名を呼ばれる。
「お嬢様、そのような事はわたくしにお命じくださいませ」
彼には失礼な態度しかとっていないのに、何故こんなにも穏やかに私を見ることができるのだろう。
それが執事という仕事だから?
本当の貴方は、私をどう思っているのだろう。
きっと他の人と同じように、私を軽蔑しているはず。
「自分のことは自分で出来るわ。人の世話になるのは嫌なの」
「それでは、わたくしが旦那様に叱られてしまいます」
冗談めいた、柔らかな口調で貴方は笑う。
レイはいつでも、あの整った微笑を崩さないのだと思っていた。
こんな表情もできるのかと、少し意外だった。
「……それは困るわね。わかりました。次からは貴方にお願いします」
つい、レイにつられて私の口角も上がってしまう。
それに気づいて私は、慌てて口を隠した。
レイの顔が少し嬉しそうに見えたのは――気のせい、だろうか。
レイがこの家に来てから一週間が経った。
自分の用事を言いつけるのは未だ慣れないけれど、そのために雇われている彼の仕事を奪ってしまうわけにはいかない。
「でも、流石にこの時間ではね……」
ため息とともに、ぽつりと言葉が漏れる。
午後十時 。もう少し原稿を進めてしまおうと意気込んだのは良いものの、少し口寂しくなって、紅茶を淹れるために厨房へ向かう。
二階の自室から一階の厨房へ。
階段を降りたところで、配膳室のドアから明かりが漏れているのが見える。
消し忘れたのだろうか。
ドアを開けようと手を伸ばすと、ドアノブに触れるよりも先にドアが静かに開く。
私は思わず小さな声をあげた。
「お嬢様……。このような夜分遅くに、いかがなさいましたか?」
――困った。誰もいないだろうと思って油断していた。
心の準備ができていない。
何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか、分からない。
でも、早く 何か言わなければ。
「あ、あの……ごめんなさい。私、紅茶を。えっと……」
「紅茶でしたら、わたくしがご用意いたします」
何故私は、こんなに怯えてしまうのだろう。
レイは他の人とは違うかもしないのに。
レイはこんなにも自然に話してくれるのに。
そっと、唇を噛みしめる。
落ち着けば、ちゃんと話せるはず。
ゆっくり深呼吸して、レイの喉元に視線を向ける。
目を見なければ、きっと緊張しないはず。私は恐る恐る口を開いた。
「貴方の仕事は十時までと聞いています。だから、あの……紅茶は自分で……」
時間外にレイの手を煩わせるわけにはいかない。
もともと自分で淹れる予定で、敢えてこの時間になるまで待ったのだから。
喉元から、ほんの僅か、視線をあげてみる。
優しく凪いだ瞳。その目が私を捉えるたび、手が震える。
呼吸が、浅くなっていくのを感じる。
「では、紅茶をお淹れしてから休ませていただきます。どうぞ、お嬢様はお部屋でお待ちください」
「……何故」
胸の奥がじくじくと痛む。
何故この人は私に構うのだろう。
こんな私に、何故――。
「貴方は嫌にならないのですか。私はうまく笑えないし、話すのも下手。それに私と話せば、 貴方を 不 快にさせてしまう。貴方は執事だから、我慢してくれているだけなのでしょう?」
何故、私はこんなにすらすらと言葉が出てくるのだろう。
緊張よりも、自己嫌悪のほうが上回る。
「お嬢様」
もともと優しいその口調が、更にほんの僅か、柔らかくなったような気がした。
彼の顔を、見ることはできなかった。
「お嬢様……わたくしは、我慢などしておりません。笑うことが上手であるよりも……正直であられることのほうが、どれほど美しいことか」
美しい? こ の 私 が?
この人は何を言っているのだろう。そんな見え透いたお世辞をまた ――。
「お嬢様はわたくしに、本心でものを言わぬなら話しかけるなとお命じになられました。ですからわたくしは、お嬢様に対して本心以外の言葉を口にすることはございません」
――知らない。私は、こんなとき何て言えばいいのか知らない。
だって今まで誰も、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
どうしたら良いか分からなくて、私はその場を逃げ出した。
呼吸が乱れる。心臓が、痛いほど胸を打ち付ける。
これは私の書いた物語なのだろうか。
私が欲していた言葉。物語に、そっと託した――。
現実と童話の世界が、混ざり合ってしまったかのような浮遊 感。
“妖精はいいました
きみは、今のままでじゅうぶん素敵だよ”
その一文を、指でそっとなぞる。
彼が、そう言ってくれているような気がした。
で も、浮かれてはいけない。期待してはいけない。
何度も、何度も後悔してきた。
なのに。この人なら――と、私は思わずにいられなかった。
部屋をノックする音がして、レイの声が聞こえる。
あのように立ち去った私に、紅茶を持ってきてくれる。
正直に、伝えよう。紅茶を淹れてくれた感謝を、ちゃんと伝えよう。
私はゆっくりと、ドアを開けた。
三月一日 (月) 曇り
本日、屋敷にて執務開始。主不在。
奥方とふたりのご令嬢に挨拶を済ませる。
長女には名を尋ねたが、拒まれた。
以後“お嬢様”と呼称することとする。
主の命により、お嬢様のお世話のため
ひと月早く配属された。
他の使用人が入るまでの間、
私ひとりで屋敷の管理をすることとなる。
「私の名前は……呼ばなくていいわ」
あのとき何故、彼女はああ言ったのだろう。
旦那様から伺って名前は知っている。
だが、本人が呼ぶなと言うのなら仕方がない。
もともと、お嬢様は人見知りをされる方だ とも仰っていた。
だから別に驚きはしない。ただ――。
あのときのお嬢様の顔が少し、寂しそうに俯いていた。
旦那様から伺ったことがもう一つ。
どうやら、お嬢様は童話作家らしい。
部屋に籠ることが多いため、気分転換に紅茶や散策などの世話をするようにと命じられた。
私は円滑な会話づくりのため、彼女の書いた童話を読んだ。
そこには、優しさ、愛、希 望 ――彼女の心よりの祈りが、美しい言葉で綴られていた。
児童向けの童話。でも私は、夢中になって頁を捲った。
そして気がついた。
彼女はこの台詞を、自分に向けて言っているのではないか。
このように繊細で優しい物語を書ける彼女は、その心もまた、同じなのだ。
その繊細さ故に、きっと様々なことに傷つき、心を閉ざしてしまうようになった。
もしそうならば、私の役目はお嬢様の心を軽くして差し上げること。
きっと旦那様は、それを望まれて私をお雇いになったのかもしれない。
そうなれば私のやることは決まっている。
お嬢様のお気持ちを和らげる紅茶を淹れ、私から歩み寄る。
そうだ、この童話の感想など伝えてみよう。
私は紅茶を淹れるための湯を沸かした。
ティーセットは、白磁にグリーンのアラベスク模様のものが良いだろう。
気品あふれる白磁の肌に緑の曲線が静かに広がるさまは、お嬢様の繊細な感性によく似合う。
ポットとカップをそっと湯で満たし、優しく包みこむように温める。
湯を捨て、温めたポットにアールグレイの茶葉と乾燥させたオレンジピール、レモンピールをほんの少し。
それがベルガモットと合わさり、華やかな香りが立ち昇る。
私は目を閉じて、その香りを一瞬だけ味わった。
沸騰した湯を静かに注ぎ淹れ、蓋を閉めて三分。
その間私は、お嬢様が一口目を含んだときの表情を思い浮かべる。
そして配膳室からお嬢様の部屋へ。
ドアを開ける頃には、ちょうど飲み頃になっているだろう。
「失礼いたします。紅茶をお持ちいたしました」
ほんの瞬きの間の三分間。茶漉しを通しながら、美しく澄んだ琥珀の液体がカップを満たす。
立ち込める柑橘の香りに、お嬢様の微かな息づかいが漂う。
瞼を閉じ、胸いっぱいに湯気を味わうその姿が、まるで彼女の物語に出てくる妖精そのもののように感 じた。
「お嬢様のことは、旦那様から少し伺っております」
お嬢様は答えなかった。
まだ、私を警戒しているのだろうか。
私は本の感想を述べた。素直に、思ったままを口にした。
だが、私は余計なことを言ってしまったのかもしれない。
お嬢様はお怒りになった。いや、怒りだけではない。
そこには悲しみと落胆、軽蔑。
それらが混ざり合っているようだった。
お嬢様は言葉を大切にしておられるのだろう。
軽率な美辞麗句に自分の感性を穢されたくない。
そうお思いのように感じた。彼女は高潔なひとだ。
自分の感性に誇りをもっている。だが不器用故に、周りとうまく付き合うことができずにいるのだ。
自分を守るために、敢えて孤独の道をゆく。
そんな彼女が少し痛々しくて、胸が小さく締め付けられた。
お嬢様に一礼し、部屋を出る。
私を拒絶するような物言い。
でも私は、あの紅茶の湯気にほんの一瞬緩んだ表情こそが、彼女の本来の姿なのだと信じている。
夕食の準備までにはまだ少し余裕がある。
私は玄関とホールの掃除をする。
人の出入りは少ないが、屋敷の顔である入口は常に美しく整っていなければならない。
ふと厨房のほうで人の気配を感じ、そちらへ向かう。
アリサお嬢様がお腹を空かせているのかもしれない。
彼女は、お嬢様とはまるで正反対の方だ。
自分の意見をはっきりと口にし、表情も豊か。
初対面の私にも、臆することなく積極的に話しかけてくる。
感情が表に出やすいぶん対応しやすいのだが、少 々、私用を 私に命じることが多いようだ。
メイドや シェフが入るまでは時間配分気を付けなければならない。
厨房を覗いて、私は息を飲のんだ。
お嬢様自ら、ティーカップを洗っている。
奥様もアリサお嬢様も私にお命じになる。
それが私の仕事でもあり、当然のことだと思っていた。
以前勤めていた屋敷でも、主自らそのような事をするなどありえなかった。
このお嬢様は、ただの温室育ちの方ではないのだ。
しかし、お嬢様のお手を煩わせることがあってはいけない。
私が気づいて、カップを下げなければいけなかったのだ。
「お嬢様、そのような事はわたくしにお命じくださいませ」
「人の世話になるのは嫌なの」
「それでは、わたくしが旦那様に叱られてしまいます」
「……それは困るわね」
初めて、彼女の笑みを見た。
すぐにその口元を手で覆われてしまったけれど、確かに一瞬、微笑んでいた。
作られたものではない。
自然に零れた、柔らかい笑み。
ああ――やはり、私の思った通りだ。
本当のお嬢様は、朗らかで慈しみ深い方なのだ。
ふと心の扉が開いたとき、彼女の柔らかさが滲み出る。
でもすぐに、貴方はまた閉じ籠ってしまう。
その扉を私は、少しずつ開けていけるだろうか。
私がこの屋敷に入ってから一週間。
屋敷の配置も奥様方の交友関係もだいたい把握した。
奥様とアリサお嬢様はとても社交的で、毎日のように友人を招いて茶会を開いている。
お二人とも、大ぶりの花が描かれたものや、ピンク、イエローといった華やかなカップを選ばれることが多い。
お嬢様は――。
彼女は、控えめな柄に、薄いグリーンやロイヤルブルーのものを好まれる。
そんな事を考えながら、私は一つ一つ丁寧に、ティーセットを磨いていた。
午後十時。
そろそろ屋敷の見回りをして、本日の執務を終える時間だ。
このカップを磨き終えたら施錠の確認をしに行こう。
奥様方の眠りを妨げないよう、慎重にドアを開く。
薄暗いドアの向こうに人影が見えて、私は思わず声が漏れそうになった。
「お嬢 様……」
彼女はとても驚いた様子だった。
紅茶を求めて来たのだと、彼女はなんとか言葉を紡ぐ。
その手が僅かに、震えている。
自分の気持ちを話すことが、それで相手がどう思うのかを知ることが、怖いのかもしれない。
「貴方は嫌にならないのですか」
お嬢様は自分を責めている。
うまく笑えない自分、話すことが苦手な自分。
そして、相手を不快にさせてしまう事への恐怖。
彼女は優しい。
優しすぎるあまり、自分を責め、周りとの壁を作ってしまわれる。
それを知ってしまった私は、彼女を 嫌と思えるほど、浅はかにはなれない。
「わたくしは、お嬢様に対して本心以外の言葉を口にすることはございません」
この誓いが少しでも貴女の慰めになるのなら、私はこの先何度でも言おう。
お嬢様の表情が揺らぐ。困惑と、少しの含羞。
次の瞬間には、彼女は何も言わず配膳室を飛び出して行ってしまった。
追いかけようかとも考えた。
しかし、彼女は紅茶を求めてここまで来られたのだ。
温かい紅茶をお淹れして、お部屋までお持ちしよう 。
こんな夜には、ラベンダーで香りをつけたミルクティーが良いだろう。
茶葉は芳醇なアッサムを。
たっぷりのミルクを鍋に沸かし、茶葉とラベンダーを混ぜる。
仕上げにタイムをひと枝添えて、ティーカップはシンプルに、 白磁にゴールドの縁取りが施されたものを。
お嬢様の部屋は物語の世界のように幻想的で、ランプの淡い光が彼女の疲れを癒しているのだろう。
あの部屋は、この屋敷で唯一、お嬢様が心を落ち着けることのできる場所なのかもしれない。
ドアの前に立つ。お嬢様は、このドアを開けてくださるだろうか。
配膳室から逃げるように立ち去ってしまった彼女。
もう、私の顔を見るのも嫌になったのではないだろうか。
そんな事を冗長に考えていては、せっかくの紅茶が冷めてしまう。
私は覚悟を決め、静かにドアをノックする。
このような小さな動作にも、敬意と品位を忘れずに。
トン、トン ――トン。
ゆっくりと、三回。
柔らかくも芯のある中音域で、中にいるお嬢様へ、私の存在を語りかける。
「お嬢様。お茶をお持ちいたしました。……失礼いたします」
意外なことに、お嬢様は姿勢を正して私のほうを向いていた。
先ほどの件があって、きっと伏せているものだとばかり思っていた。
瞳は少し揺れてはいるが、まっすぐに、私の目を見つめている。
「ラベンダーのミルクティーをご用意いたしました」
「あり、がとう……レイ」
その瞬間私は、自分の中で何かが罅割れるような音を聞いた。
長いこと封じてきた感情が、たったひと言の“風”によって、小さなさざ波を立てる。