盆踊りの夜、青いアサガオの浴衣の少女と
──────盆踊りなんて、いつぶりだろう。
小さな神社の境内に櫓が組まれて、青から宵の濃い青に移りゆく空に、並んだ提灯がオレンジのやわらかな光をはなつ。
トンテケピーヒャラ、ハーヨイヨイと、なつかしいお囃子が耳に心地よかった。
東北の田舎町。祖母が一人で住むには広すぎる家があって、子供のころの夏休みは例年この町で過ごしていたものだ。
記憶を辿ると、最後にここで踊ったのは中二の夏。
それきり十年以上、この町に来ていなかったことになる。
「十年かあ……」
そもそもコロナ禍や、そのしばらく前の大きな地震もあって、盆踊り自体ずっと続いていたわけじゃない。納涼盆踊り大会の名目で正式復活したのは去年からだと、ラムネを買った出店のおじちゃんが聞いてもないのに教えてくれた。
ベンチに腰掛けラムネを飲みつつ、楽しげに踊るみんなを眺める。
──ふと、ひとりの少女に目を惹かれた。
年のころは高校生ぐらいだろうか。白地に青いアサガオのたくさん咲いた、可憐な浴衣姿。彼女の周りだけ空気が澄んだみたいに、くっきりとその姿が焼き付く。
すいすいと両手をかざして踊る姿はしなやかで、思わず見とれてしまう。
まとめた黒髪の下の青白いうなじの描く線が、櫓の向こうに消えていくまで、ずっと彼女を目で追っていた。
待っていればもう一周してくるはず。
一歩まちがえたら変質者だなと自嘲しながらも、僕は彼女の姿を探していた。
けれど、白い浴衣の女性はちらほら見かけるものの、青いアサガオがなかなか見つからない。
「──ね、わたしのこと、やらしい目で見てたでしょ」
何の気配も前触れもなく、急に耳もとで声が囁いた。恥ずかしいくらい全身がビクッと動いてしまい、慌てて視線を真横に向ける。
そこで、青いアサガオが揺れていた。
さきほどの少女だった。
僕の驚きぶりを見て、口に手を当て肩を揺らして笑いをこらえている。
呆然とする僕の隣に、彼女はなんの遠慮もなく腰掛けた。白いうなじが近過ぎて目を逸らす。うっすら甘い香りがして────お囃子の音が、遠ざかる。
「ひさしぶりだね」
「……ご無沙汰しております」
ありえないと思っていたけど、そばで見て確信する。僕は彼女を知っていた。
胸の高鳴りをなだめるように、ビジネスライクなあいさつを返す。
「ふふっ、なにその大人みたいなやつ」
「まあ、大人になりましたので」
「ふうん。だから、やらしい目で見てたの?」
「いや、そんなふうには見てないって」
「ほんとかなあ」
葵ちゃん。それが彼女────祖母の家の二軒隣に住んでいた女の子の名だ。
十年以上も会っていない幼馴染の、あのころ健康的に日焼けしていた肌が、今は透けそうに青白くて儚く見えた。まるで、この世のものではないように。
「ただその、なんか、やっぱりきれいだなって」
「……おお? おめでとう、まさかの正解です」
「え? 正解って?」
祖母の家にいる間、彼女とは毎日のように一緒に遊んでいた。それが夏休みのいちばんの楽しみだった。
「女のひとを褒め慣れてない感じ込みで大正解です。許してあげる」
「なんだよ、それ」
どこまで本気なのかわからない。あのころと同じ、いつもの彼女だった。
それがなんだか気恥ずかしく、くすぐったく思えはじめたのは、小学校の五・六年くらいだったか。そのころから、一緒に遊ぶことは少なくなっていった。
彼女は変わらず接してくれたけど、一年越しに会うたびきれいなお姉さんに変貌していく年上の少女のことを、きっと僕だけが勝手に異性として意識していたんだ。
「ねえ、元気だった?」
「うん、まあ、ぼちぼちかな」
「それなら良かった。ぜんぜん顔見せてくれないから、心配してたんだよ」
中二の夏、部屋にこもってゲームと読書と少しの勉強で過ごしていた僕を、彼女は引きずるようにこの場所──盆踊りに連れ出した。
並んで踊っている間、楽しそうな彼女の隣でずっとしかめっ面の僕は、ほんとうは嬉しくて胸がふわふわしていた。
あのときも彼女は、白地に青いアサガオの咲く浴衣を着ていた。思わず見とれてしまった僕は、今日と同じように問い詰められて、どぎまぎして口ごもってしまった。
でも今日は、十年越しにあのときの正解を出せたらしい。
「ずっと来れなくてごめん。また来年って言ってたのに」
「うん。ちょっと寂しかったな」
今ならわかる。あのころ彼女は、僕の抱く恋心にきっと気付いていた。彼女の気持ちまではわからないけど、もしかして次の夏に会えたら教えてくれたかも知れない。でも。
────次の夏が来る前に大きな地震があって、彼女は二度と帰らないひとになった。
僕は東京の家でそれを知った。
だけど涙は出なかった。事実だと思えなかったから。彼女にもう会えないなんて、絶対に信じないことにした。そうしないと、おかしくなりそうだったから。
それ以来十年以上、一度もこの町に来なかったのは、彼女がこの世にいないことを認めたくなかったからだ。現実を直視するのが、怖かったからだ。
「時間かかって、ごめん」
「さすがに、かかりすぎだぞ」
健康的に日焼けしていた肌以外、最後に会った夏と何も変わらない姿で、彼女は唇を尖らせる。
「もう忘れられちゃったのかなって、思ってたよ」
逆だ。忘れられないから、来れなかったんだ。
絶対に、彼女がもう居ない現実を、受け入れることなんかできないと思ってた。
でも人の記憶はすこしずつ、新しい日々に希釈され薄れていくものだった。どんな悲しみでも、だんだんと色あせていくことに気付いてしまった。
社会人になって、思考の大半を仕事とか自分自身の生活に割くようになって、ふと目にした地震当時の映像にも、ほとんど感情が動かなくなった。
そういうことが逆に怖くなった。だから来たんだ。
我ながら、なんて身勝手なんだろう。
「ごめん」
「でも今年は会いに来てくれてた」
「ほんとに、ごめん」
「もー、そんなに謝らないで。さっき言ったでしょ、正解したから許すって。あれでぜーんぶチャラになったんだよ」
優しく諭すような声に、喉元まで出かかった「ごめん」を飲み込む。
「それに、普段は忘れてていいの。忘れてるくらいでちょうどいい。一年に一度だけ……ううん、何年かに一度だっていいから」
彼女の声が、言葉が、この十数年に胸の奥で積もり続けてきた重たい自己嫌悪を、ふわりと羽のように舞いあげてゆく。
「盆踊りのわたしを思い出しに来て。誰よりきみに見せたかった、わたしの浴衣姿を」
僕はただ無言で、うなずいていた。
「じゃあわたし、そろそろ行くね」
「……うん。気を付けて」
「そうだね、ナスの馬から落ちないよう気を付けなきゃ」
「え!? あれってほんとに乗るんだ?」
「ふふっ、それじゃまたね」
ああ、またか。彼女のいつものやつだ。
苦笑して天を仰ぐと、空はもう黒く塗りつぶされて、ちらほら星がまたたいている。
「来てくれて、ありがとう」
急に耳もとで声が聞こえて、柔らかな感触が頬にかすかに触れた。
驚いて視線を戻すと、ほのかに甘い香りだけ残して、彼女の姿はもうそこに無い。
トンテケピーヒャラ、ハーヨイヨイ。遠ざかっていたお囃子が、はっきり鳴り響いている。
ラムネの残りをいっきに飲み干そうとして、思いきりむせて下を向く。
足元にぽたぽたと落ちて、土の色を変えながら沁み込んでいく水滴は、きっと汗かにわか雨だろう。
今年のお墓参り、晴れるといいな




