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寂寞の首塚  作者: 三峰三郎
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寂寞の首塚 3

「単刀直入に己の思うところを述べる。武田への降伏も検討すべきと考えているが……」


 山本と名乗った武田の使者を下がらせると、清繁は家臣たちの前でこう言った。


「徹底抗戦あるのみ。すでに上杉からのさらなる増援の約も取りつけてございます。降伏の余地など微塵もなし」


 清繁の言葉を言下に一掃したのは、この場にいる家臣の中で一番の重鎮、高田憲頼であった。

 依奈の父であり、清繁にとっては義父に当たる。

 志賀城から東の峠を越えた先の上野甘楽郡高田庄を有する武将であり、武田の佐久侵攻を脅威に感じた上杉憲政がいち早く援軍として送り込んだ人物であった。

 

 信濃佐久郡は武田にその地を脅かされる以前、大井氏、伴野氏、平賀氏らが群雄割拠しており、更科郡の村上氏、府中の小笠原氏、諏訪の諏訪氏など、ほかの信濃各地域に比べると、佐久地域を統べる有力豪族が存在しなかった。

 そこに付け込んだのが、甲斐の前当主、武田信虎であった。

 天文十年(1541)五月、武田信虎は諏訪頼重、村上義清と手を組み、佐久、小県郡へ侵攻。海野棟綱らと戦い、勝利を収めている。海野平合戦と呼ばれるこの戦で敗れた海野棟綱は上杉憲政を頼って上野に逃れていった。

 これを受けて、上杉憲政は同年七月、佐久郡に軍勢を送り込み各地に放火したが、これに対応した諏訪頼重と和睦すると早々に兵を引かせていた。

 武田信虎を甲斐から追放し、家督相続を果たしていた武田晴信(のちの信玄)は、国内を治めるため、上杉軍の佐久出兵には対応できなかったのである。

 しかし、諏訪頼重の勝手な行為を同盟違反とみなした武田晴信は、翌年、諏訪侵攻を開始するのである。

 

 諏訪攻略に成功すると、武田晴信は天文十五年(1546)五月、佐久郡内山城の大井貞隆を攻め、これを落城させている。

 ちなみにこの年、武田晴信と諏訪頼重の娘との間に男児が生まれている。のちの武田勝頼である。


 この武田軍による諏訪侵攻から内山城陥落までにその支配から逃れてきた信濃国人たちもまた、志賀城に集ってきていたのである。


「高田殿の仰せの通りにございます。籠城戦にて時を稼げば、上杉軍のみならず村上殿の援軍も期待できましょうぞ」


 ある信濃の武将が、高田憲頼の意見に賛同した。

 村上義清は、武田の信濃侵攻に対し、静観を貫いていた。

 志賀城兵にとって村上義清は、信濃国で一番力を有する頼れる存在である一方で、何を企んでいるかわからない底知れぬ存在でもあった。

 しかし、武田の強力な軍隊に対抗できるものは信濃国においてこの人物しかいなかった。


 もう一人、代々信濃守護職を継いで当代に至る府中の小笠原氏もいたが、武田が内山城攻めを敢行した際、武田と小笠原氏は手を結んでいた。むしろ、内山城の降伏勧告を積極的に行ったり、城攻めに加担したりしていたのである。


 武田に領地から追い出された信濃各地の武将たちもまた、上杉家の者同様に徹底抗戦を主張したのである。

 

「……しからば、武田軍を迎え撃つ準備をする。各々、籠城戦に備えよ」


 満場一致となり、評議は解散となった。

 取り残された清繁は、ただ黙って俯いたまま、その場からしばらく動かなかった。



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