寂寞の首塚
1541年(天文十)六月、武田信虎を追放し、武田晴信、当主となる。1547年(天文十六)八月十一日、武田晴信、佐久の志賀城を落とす。
笠原新六郎清繁はこの場所から眺める景色が何よりも好きであった。
志賀城四の曲輪、西際の堀の上である。
そこに腰かけ顔を上げると、佐久平の農村集落と田園風景が目の前に開け、綿のような茜雲が上空を漂泊している。雲の上に頭を出した八ヶ岳連峰の向こうへと沈んでいく西日が、佐久平一帯を幻想的な風景へと変貌させていた。
振り返ると峰伝いの奥に志賀城本丸の主郭が構えられ、さらにその向こうには信濃と上野の国境にあたる荒船山が雄大に聳えていた。
城のすぐ南を流れる川沿いには、内山峠へと通じる街道が伸びており、この道を東へ行くと下仁田へと出ることができる。
志賀城は上野から峠を越えて信濃へ入ってくる物流の関所のような役割を果たしていた。
「この眺めを誰にも渡したくはないの」
清重は隣に座る妻に言うでもなく呟いた。
「なに故にございますか」
いたずら気な表情を浮かべながら妻の依奈は、分かり切ったことを清繁に尋ねた。
「決まっておろう。見ていて飽きないからじゃ」
それを聞いた依奈は、満面の笑みになった。
清繫はこの笑った依奈の表情も眼前の景色と同じくらい好きであった。
城の麓から、ここ、四の曲輪まで登ってくるのは、女の足では難儀なはずであった。にも関わらず、己の後ろを必死に追ってくるその健気さもまた、好きであった。
ある日、ここに来る途中の石段で依奈が躓き、膝を擦りむいたことがあったが、痛がる様子も見せず清繁のもとに駆け寄ると、不器用な私をどうか嫌わないでと言わんばかりの困惑した笑みを投げかけてきたことがあったが、その表情もまた清繁はたまらなく好きであった。
「私はここからの眺めを愛でるあなた様の眼差しが……」
依奈が言いかけたとき、背後から草履で地面を擦る音が近づいてくるのが聞こえた。
「殿、甲斐から武田の使者が、麓の屋敷に参っております」
その男が二人の前まで来ると片膝をつきながら言った。
「すぐ降る。依奈、わしは先に行くが、ゆるりと降りて参れ」
清繁は優し気にそう言いながら立ち上がると、夕日に背を向けてその場を去っていった。