治療
龍馬は人を殺さない、穏やかな男だという風潮が世間に流れているが、私からすると一笑に付す逸話だった。江戸に剣術修業で遊学するほどの剣士である龍馬に、人並み以上の闘争心が無いはずがない。
もちろん、人を殺さなかったのは事実ではあるが、その寸前まで決意したことがある。終生の師として仰いだ勝海舟などがいい例だ。だから初めて出会ったときは、何とも荒々しい男だと思ったものだ。
「そん人。迷惑かけたの。すまん」
龍馬はもう一度私に謝って、その場から去ろうとする。
その大きな背中に、少し待ってくれ、と私は声をかけた。
刀を持った武士二人を素手で倒した、しかも脱藩浪士である龍馬にだ。
「うん? どないした?」
私は腕の傷を指さして、縫ってやろうか、と問う。
龍馬は「なんじゃ。おんしは医者か?」と怪訝そうに言う。
私は簡単に頷いた。
「酔狂なお人じゃの。じゃあ頼むわ」
怪しむ様子無く、ただ当然のように頷く龍馬に、私は驚いたことを覚えている。
この男、見ず知らずの人間を信用するのか?
「あはは。これでもわしは見る目あるきに。そんにおんしは悪い人間でもなさそうじゃ」
ここで誤解してほしくないのは、龍馬が考えなしで動くような人間だと思うことだ。
計算高い男でもなかったが、それでも一応自分の中で考えているふしがあった。
生来の直感と鍛えた人を見る目で相手に全幅の信頼を持つ。
そうでなければ数々の志士たちの心は掴めない。
とりあえず、私が泊まる予定の宿屋まで行くことにした。
獄医の習性でいつでも医術道具を持っている私。
さらに言えば罪人の治療は手慣れたものだった。
「あ、そうじゃ。わし、おんしの名を聞いちょらん」
言われてみればそうだった。
私は、才谷梅太郎だ、と名乗った。
すると龍馬は目を大きく開いて「ほんまか!?」と笑った。
「わしの親戚にも才谷おるわ。これは凄いことじゃな!」
偶然にも程があると思える奇妙な一致だった。
私は面白い符合もあるものだとしか思っていなかった。
「よろしゅうな、梅太郎!」
龍馬はにっこりと笑った。
そう。彼は私のことを梅太郎と呼んでいた。
今でも龍馬が私の名を呼ぶ光景が目に浮かぶ。
もしくは耳に残っている。
先ほどまでの本降りが嘘のように止んで。
空には珍しく虹がかかっていた。
そんな日に私と龍馬は出会った。
◆◇◆◇
「あいてててっ。もうちょい優しくしてくれや」
宿屋にて私は彼の腕を縫った。
化膿止めも塗り込んでやる。これで酷くはならないだろう。
「抜糸は自分でやるきに。ありがとな」
実に惚れ惚れとする笑顔で龍馬は言う。
私は、たいしたことはしていない、と告げる。
「そんしても不思議な話もあるぜよ。獄医が脱藩浪士の治療を娑婆でするなんて」
確かに考えてみれば可笑しい話である。
私は、答えなくてもいいが、と前置きをした。
「うん? なんじゃ?」
どうして脱藩などした?
「藩にいれば思うような動きができんきに。せやから脱藩したまでじゃ」
今流行りの尊皇攘夷かと私は考えた。
しかし、情勢に疎い私でも土佐勤皇党のことは知っていた。
土佐勤皇党は武市半平太という男が中心として創られた組織で、当時は土佐を差配するほどの勢力を持っていた。おそらく土佐勤皇党に所属していたと思われる龍馬にそのことを話すと「武市とは物別れしてもうた」と寂しそうに言う。
「土佐勤皇党は土佐藩ありきの組織ぜよ。藩の意見に左右されやすい。しかし、わしはそういうのは好かん。もっと大きなくくりで志士たちを集め、藩の意向に縛られないやり方を目指すんじゃ」
何とも大きな話をする男だと私は感心した。
この時点で興味を持ち始めている。
私は次に、男たちが言っていた吉田様について訊ねた。
「ああ。吉田東洋様じゃな。まっことおかしな話で、あん人を斬ったのがわしじゃとなっちょる」
斬ってはいないのに、罪を着せられたのか?
「ああ。ま、脱藩したわしに罪を着せるのは、ありふれたことぜよ」
当人はどうでもいいと思っているらしい。
脱藩に加えて人殺しまで容疑が懸かっているのに、剛毅なことである。
「それより、おんしの話を聞かせてくれや。なにせ大坂に来ちょる? 江戸の人間が」
どうして私が江戸の人間だと分かる?
「国言葉がそうぜよ。わしは江戸に遊学したこともあるきに」
案外鋭い男だなと思いつつ、私は緒方先生に会いに来たことを告げた。
同時に大切な感染症の書物を見せる。
「へえ。あん人のことは噂で聞いちょる。えらい先生らしいな」
医聖とはあの人のことを言うのだと、私は門下生でもないのに威張って言った。
龍馬はふうんと分かったような微妙な反応をした。
さて。治療も済んだことだし、私たちはここでお別れということになる。
龍馬にさりげなく、今夜の宿は決まっているのか、と訊ねた。
「ああ、決まっちょらん。できればここで厄介になりたいんじゃが」
厚かましい男だ。
少々呆れた私だが、このまま追い出すのも忍びない。
それに龍馬の話を聞きたい自分もいた。
仕方がない、ここにいていいぞ。
「そりゃあありがたいぜよ! 助かりもうした!」
龍馬の最大の魅力は朗らかな笑顔だと思う。
何故か全てを許してしまいそうな感覚がするのだ。
まあ、そこがずるいところでもある。
こうして私と龍馬は知り合いになった。
まだ友人ではなく、一方的な借りのある関係だけど。
それでも第一印象は互いに悪いものではなかった。