恩人
土佐勤王党の弾圧が始まったのは元治元年のことだった。
今年はやはり江戸に帰省できないなと考えていた頃で、その話は獄中の不逞浪士から聞いていた。なんでも土佐藩の藩主、山内容堂公が藩の実権を握っていた武市半平太を厄介に思ったらしい。元々、郷士上がりの彼を気に食わなかったのもあるようだ。
土佐藩の武士には厳しい身分制度が存在した。上士、白札郷士、郷士の三階級だ。これは龍馬から教えてもらったのだが、郷士は土佐国を支配していた長宗我部家の家臣で、上士は山内家の家臣という区別がある。いや、差別と言ったほうが正しい。郷士は上士に逆らえないし、出世も望めない。
龍馬は郷士の出だった。だからだろうか、土佐藩への執着は無く、帰属意識も少ないようだ。そのおかげで日の本中を駆け回れたとも言えるが……なんとも皮肉な話だ。
さて。武市半平太が捕まるのも時間の問題ならば龍馬の身も危うい。勝麟太郎の手引きで土佐藩に復帰したが、土佐勤王党との関わりがあるのだから、連座して処罰が下るかもしれない。
私は獄医である。罪人を治療するのが務めだ。罪の有無や軽重を決める権限はない。
けれども龍馬がもしも投獄されることがあれば――手を尽くして解放してやりたい。
勝麟太郎や桂小五郎に交渉して、それでも駄目なら己の上役に頼みこむ。おそらくは無駄な行ないだろうが、それでも動かなければならないと感じた。
何故ならば――私は坂本龍馬の友人だからだ。
「梅太郎、ずいぶんとご無沙汰じゃった」
そんな覚悟を密かに決めていた私だったが、龍馬はふらりと私の家に訪れた。その年の十二月のことだった。
ひどく憔悴していたのを覚えている。
ああ龍馬! お前、無事だったのか!?
「うーん。どう答えるべきかの?」
私の問いに悩ましげな声を上げて、龍馬は床にどかりと座る。
向き合うように正座して、何があった? と短く訊く。
「おんしは既に土佐藩のこと聞いちょるか?」
もちろんだ。今や京で噂になっている。
土佐勤王党が弾圧されているようだな。
「なら――武市が投獄されたことも聞いたか?」
なんだと? 土佐勤王党の盟主が?
「九月のことじゃ。俺は散々忠告したんじゃが……」
そこまでは知らなかった。
不安になった私は、これから土佐藩はどうなるんだ? と訊ねた。
「藩主様が直々にご采配されることになるぜよ」
それも重要だが、武市半平太はどうなるんだ?
私の問いに龍馬は苦悩の表情を浮かべた。
そんな感情を表に出したのは初めてだった。
少なくとも私の前では。
「責を負って――何か処罰されるかもしれん」
深く同情してしまうような、悲しくて悲しい笑みを龍馬はした。
それをさせたのは私にほかならなかった。
悪い。訊くべきではなかったな。
「別にええ。俺も覚悟しちょる」
なんとかならないのか?
「なんとかならん。土佐藩、いや土佐国において藩主様は絶対じゃ」
私は龍馬と武市半平太の関係をよく知らない。
詳しく聞く機会もなかったし、殊更話題に上げることもなかったからだ。
それでも、私はそのとき、敢えて訊いた。
武市半平太とは親友だったのか?
「親友……いや恩人じゃった。俺が自由に動けているのはあん人のおかげぜよ。でもな、武市は窮屈なほど真面目な人きに、もしも俺のように帰藩命令に背いておれば……今ごろ牢につながれることはなかった」
武市半平太の拙い生き方に切なさを覚えた龍馬に、私はかける言葉がなかった。
慰めになることを言えればいいのだが……何を言っても虚しいだけに思える。
このときほど――尊王攘夷を志していなかったことを悔やんだことはない。
もしも望月亀弥太のように龍馬の同志であれば、武市半平太を惜しみ激励の言葉を投げかけられただろう。
しかし私はそうではなかった。
思想を持たない、ただの獄医でしかないのだ。
……龍馬、酒でも飲まないか?
「いきなりどうした?」
飲みたい気分なんだ。お前もそうだろう?
「なんじゃ。俺の気持ち分かったのか……やっぱり、梅太郎には勝てんぜよ……」
奥から酒瓶と杯を取り出して静かに傾ける。
ゆっくりと飲み干すと――龍馬が「美味いの」と寂しそうに笑った。
「こんなときでも酒が美味いと思うわ……」
ああ。龍馬のためにとっておきを出したからな。
しばらく黙って酒を酌み交わす。
龍馬はともかく、私は心地良かった。
国のために志す龍馬が、今だけは恩人を偲んでいる。
その事実がいじらしくて――ざわめいていた心が凪ぐ。
なあ龍馬。私は英雄である前に、ひとりの人間として生きたお前が好きだった。
この文章を綴りながら改めて思うよ。
人を愛し人に愛された龍馬だから、日本を動かせたんだ。
明治の世になってつくづく感じる。
そしてこうも思うんだ。
ほんの少しだけでも日本の夜明けを見てほしかった、と――
「梅太郎は俺のこと分かっちゃるな」
それなりの付き合いだからな。
そう返して私は龍馬の杯に酒を注いだ。
きらきらと光る水滴に私たちは言葉もなかった。
いや、今だけは不要だった――




