多忙
龍馬が件の海軍塾――正式な名前は海軍操練所というらしい――の創立に向けて奔走していた頃、私は忙しい日々を送っていた。それもかなりの多忙だった。
獄医として伏見奉行所で働いているのもそうだが、桂小五郎のおつかいや壬生浪士組への出張などの用事が多かったことが挙げられる。特に壬生浪士組の隊員の治療はひっきりなしに行なわれた。市中の見廻りでの負傷もそうだが、鍛錬中の怪我も多かったのだ。
「才谷先生がいてくれて良かったぜ。治療代だけで銭が無くなっちまうからよ」
特に土方歳三は私をかなり評価してくれたみたいで、治療を終えるたびに感謝の言葉を言った。いつからか、私のことを先生と呼ぶようになった。そう頼りにされてしまったら続けるしかない。だから薬代が賄えるぎりぎりの勘定をもらってひたすら傷を縫い化膿止めを塗った。
そうした毎日を送っていると不思議なほど己の医術が上がっていくのを感じる。
半人前だったのにいつの間にか一人前になれていると錯覚してしまうほどだった。
ま、父上あたりは「気のせいだからもっと精進しろ」とでも言うかもしれないが。
そうそう。桂小五郎のおつかいも言及しておこう。
普通の手紙だけではなく、掃除で使うはたきを持って行ってくれという奇妙な依頼もあった。
そのはたきには何やら文字のようなものが書かれており、おそらくはつないで読むものだと推測できるが、気にしないことにした。内容を知れば私の身も危うくなるかもしれないと思ったからだ。
そうした毎日を過ごしていると、龍馬から手紙が届いた。
文久三年のことだった。何でも勝麟太郎先生が京へやってくるという。しばらく道案内をしてくれないかとのことだった。龍馬が手を離せないのを知っているので引き受ける旨を返信した。
直接私の家に来るらしいので、その日は非番にしてもらった。
家の中で医学書を読んでいると「おうい、梅太郎くん」と外から声がした。
がらりと戸を開けると勝麟太郎先生と見慣れない男が立っていた。
勝麟太郎先生はしゃきっとした格好だが、見慣れない男は汚らしい浪人風情だ。
龍馬も身なりを気にしないが種類が違う。なんというか、龍馬は面倒だから整えなくて汚いが、男は汚れるのを厭わないという印象だった。
それに血の臭いがするなあと感じた。私のような医師ではないのは見て分かったので、壬生浪士組と同じような剣客なのだろうと考えた。
ああ、勝先生。お久しぶりです。龍馬から聞いていますよ。
「すまねえな。いきなり押しかけて。京に来たのは久しぶりでよ。土地勘がねえんだ」
砕けた江戸言葉に懐かしさを覚えつつ、とりあえずお茶でもどうですか、と私は勧めた。
「ありがとう。岡田もいいよな?」
「勝先生がええなら、俺は別に構わんぜよ」
やけに高い声だ。私よりも年下かもしれないと汚れた男を見た。
暗い目をしている……勝先生が「龍馬から聞いているか?」と問う。
いえ、そちらの方のことは聞いておりません。
「こいつは龍馬が紹介してくれた男でな。岡田以蔵という」
後世で人斬り以蔵と恐れられた男だった。
私は奥へ通した後、血の臭いがしますが、どこか怪我をなさっていますか? と訊ねた。
すると岡田以蔵は「いや。さっき人を斬ったんだ」となんでもないように言う。
「本当につい先ほどのことだぜ。それなのに全然動じていないんだ」
私の出したお茶を啜りつつ、呆れたように言う勝麟太郎。
岡田以蔵も何事もないように平然としていた。
壬生浪士組の剣客でさえ、人を斬った後は動揺する。
それがないのは凄まじいというか、あるいは――
「さっき人斬りをたしなんじゃいけないって諭したら、岡田はなんて言ったと思う?」
いえ。なんとおっしゃったんですか?
「こう言ったのさ。『でもあの場で俺がいなかったら先生は死んでいた』ってな。これには俺も言葉がなかったよ」
うーむ。そう言われたら勝麟太郎の立つ瀬はないな。
岡田以蔵を見ると反っ歯を見せてにやにや笑っている。
私は、龍馬とはどういう関係ですか? と岡田以蔵に訊ねた。
「同じ土佐勤王党の同志ぜよ。ま、人を斬ったことのない弱虫、どうでもええが」
龍馬の悪口を言われた私はむっとしたが、下手に反論したらどうなるか分からないので口を噤んだ。
しばらく会話をしていると、ちょくちょく岡田以蔵が後ろを振り向く仕草をしている。
警戒しているのか? と私は訊ねた。
「いや……そういうわけじゃないきに」
そういえばと私は獄中にいた罪人のことを思い出す。
あの罪人も後ろを気にしていたなあ……
「へえ。どんな罪人なんだ?」
勝麟太郎の問いに、人斬りですよ、と私は答えた。
岡田以蔵が私をじっと見つめている。
その罪人が言うには、最初に人を斬ったときは興奮で何も覚えていない。だけど続けて斬り続けると何も感じなくなるらしい。
「はっ。そりゃそうぜよ。いちいち考えていたらきりがない」
岡田以蔵は笑っていたが、その笑顔は不自然に思えた。
私は続けて、しかしある時を境に殺した人間の気配を感じるようになるようだ、と言う。
「殺した人間の気配?」
はいそうです。背中に視線を感じるようになる。そして振り向くと恨めしそうな顔が浮かんでくる。夜寝ていてもうなされることが多くなるそうです。
「…………」
岡田以蔵が血走った目で私を睨んでいる。
それに気づかない勝麟太郎ではない。
「まあまあ岡田。そんなに気にするなよ」
「……気にしてなか」
うーん、この話はするべきではなかったのかもしれない。
気まずい空気になったが、ふいに岡田以蔵は「その罪人はどうなった?」と言う。
どうなったとは?
「その後も斬り続けたのか?」
そんなわけないだろう。罪人として捕まったのだから。
「では首を刎ねられたのか?」
その前に隠し持っていた刃物で自害してしまったよ。
そう言うと岡田以蔵は黙り込んでしまった。
私が勝麟太郎を二条御所まで案内している間、彼はずっと後ろを気にしていた。
刺客を警戒していたのか、それとも罪人と同じ感覚を得ていたのか、判然としない。




