承諾
「先生、そりゃあ無茶ちゅうもんぜよ。梅太郎はそんなことできん」
どう断ろうか迷っていたところに龍馬が口を出してきた。
助け舟のつもりだろう。正直、ありがたかった。
「ふむ。才谷殿の顔を見るとやりたくなさそうだ。しかし口に出して言葉にしてもらえないだろうか」
どういう意味ですか?
「断るのなら本人が言ってもらいたい。そのほうが諦めもつく」
私は姿勢を正して、私は獄医として知り得たことを外部に漏らせません、と言った。
「うん。立派なことだ。僕も同じ立場なら同様に言うだろう」
桂小五郎は依頼を断られたというのに、存外あっさりとした態度だった。
まるで最初から見越していたようだと私は思った。
「ならばちょっとした頼み事を引き受けてほしい」
ちょっとした頼み事?
「ああ。おそらくこれから長州藩は苦境に立たされるだろう。そのときに朝廷の要人に僕の手紙を渡してほしいのだ」
おつかいと言ってしまってもいいだろう。
私がどう返事しようとするか迷っていると「これ以上、梅太郎を巻き込まんでくれ」と龍馬がまたしても口を挟んできた。
「先生はちょっとした頼み事と言うたけど、要人に手紙を届けるのは途方もなく危険なことぜよ」
「才谷殿は幕府の獄医だ。それにここで僕に会ったことは知られていない。そのために懇意にしている対馬藩の藩邸で話しているのだから」
「なんじゃ、おんしは初めからそのつもりだったんですか」
桂小五郎は「僕はできると思った人間以外に頼み事はしない」と言い切った。
「それにだ、これは坂本くんのためでもあるんだ」
「俺のため? どういうことですか?」
「君は今の日の本を変えたいと思っているのだろう? ならば長州に味方したほうがいいに決まっている。何故ならば――僕たちも同じ思いだからだ」
私見であるが、桂小五郎は当世一流の弁舌家である。また理想主義の長州藩においては現実を見据えていた一人でもあった。だからこそ、龍馬の心を動かし先生と言われるほどの信頼を勝ち得たのだろう。私もまたその語り口に引き込まれていった。
「坂本くんのためを思うのなら、この頼みだけは聞き入れてもらいたい。日の本を変えて諸外国に対抗するためには幕府を倒し不平等条約を撤廃しなければいけないんだ」
「それで身内と争うんか……本末転倒じゃと思うが」
「僕たち長州は幕府を身内とは考えていない。関ケ原から続く恨みがある」
「なら梅太郎も身内と考えないんか? 梅太郎は幕臣ぜよ」
その言葉を引き出せて勝機を得たと思ったのか、桂小五郎は「ならばこそ、才谷殿をこちらに引き入れたい」と力強く言い放った。
「今の世の流れを見れば幕府は滅びる。いや、長州藩が滅ぼさなくても他藩や外国に攻められてしまう。そのとき、幕臣の彼がどう生き残る? どうやって暮らしていくんだ?」
「それは……」
「才谷殿ならば上手く役目を果たしてくれる。君という友人を守るために勇気を出したその度胸を僕は高く評価した。それに僕の身内になってくれれば危険を回避することもできる。この桂小五郎の後ろ盾があれば他の長州藩士から便宜を図ってもらえるだろう」
私は口を挟むことすらできなかった。
龍馬もまた圧倒されている。
「頻繁には頼まない。才谷殿の安全を最優先して守る。それで受けてもらえないだろうか?」
「……俺が決めることじゃないわ。梅太郎、おんしに任せる」
断ることはできた。
私が所属している幕府のことを思えば拒否するのが筋だろう。
だけど、龍馬のためを思うのなら――
「ま、すぐに返答してほしいわけではない。気長に考えてくれれば――」
いえ。やります。やらせてください。
「えっ?」
「えっ?」
私の即答に龍馬と桂小五郎は驚いたようだ。
「おんし、正気か? 間諜になれちゅうと言うとるんぜよ?」
別に私が得た情報を漏らすわけではない。ただ手紙を届けるだけだ。
「誘った僕が言うのもなんだが、どうして引き受けてくれたんだ?」
私は別に日の本のために何かしたいわけでもありません。長州などどうでもいいのです。幕府に関しても半分町医者のようなものですから。
「では何故引き受けた?」
獄医である私が行なえば怪しまれることは少ないでしょう。それに桂さんのおっしゃるとおり、長州藩と誼をつなぐことは決して悪いことではありません。少ない危険で大きな利益を受けることができます。
「ほうか? 俺は危険だと思うが」
龍馬は納得のいかない顔をしている。
まあ私も本心で話してはいない。
「坂本くん、良い友人を持ったな」
桂小五郎は優しげに微笑んでいる。
どうやら見抜かれているようだった。
不思議そうな顔をしている龍馬を見ながら、私は静かに思う。
桂小五郎が語った、龍馬の助けになるという言葉。
私が引き受けたのはその一点のみだった。
尊王攘夷などろくに知らぬ私だけれど、大志を抱いている龍馬を応援したかった。
命懸けで日の本を変えようとしている龍馬を助けたいと思った。
その気持ちは明治を迎えた今でも変わっていない。