166話 『フェンリルの修行(ルーク編)』
人の気配はなく、淀みきった空気は今まで旅をしてきたどの大地とも違い異質だった。深紅に染まった月が暗闇を赤く照らしており、その下には大きな城が佇んでいた。
そんな城から遠く離れた地で一匹の竜は大きな翼を広げている。
「グルルルルルル」
この大地に飛ばされた瞬間、ルークは本能で身構えた。遠くに見えるあの城の中からとてつもなく強い気配を感じる……。それは魔人や魔獣、そして自分のような、生まれながらにして強者であることを示していた。
強者というのは生まれながらにして狩る側にいる。気配を絶ちうまく獲物を狩る生物もいるが、それは獲物を探しながらも、己が天敵に見つからないようにするための自己防衛でもある。
しかし強者には天敵など存在しない、向かってくるものはすべて狩ればいいからだ。そんな強者同士が出会い起きる事と言えば、己の生存を賭けた殺し合いのみ。
ただならぬ場所に連れてこられた……そう実感していたルークの背後からフェンリルが歩み寄ってくる。
『さっそくだが修行の説明だ。気づいていると思うがあの城にはお主より強き者が住んでいる。その者を喰らえ』
気配なく現れたフェンリルはそういうと天高く跳び夜空に消えていく。
修行といわれたその内容にルークは一切の疑問を持たなかった。主の存在が大きかったルークからしてみれば、ただいつも通り敵を倒せばいいだけだと。
今まで様々な強敵を相手にしてきたルークにとって、それは簡単なことであり深く考える必要のないことだった。大きな翼を羽ばたかせ城に向け飛び立つ。
城へ着くとボロボロに荒れ果てた中庭を見下ろす。中から感じる気配は以前そのまま、いっそこのまま城を壊してしまおうか――そう思っていると屋上から黒いドレスを身に纏った少女が出てきた。
「あなた、こんなところに何をしに来たの」
「グウウゥゥ……」
それはルークにとって初めての経験だった。
目の前の標的は対話を求めている。しかしルークはまだニッグのように話すことはできない、本来であれば仲間が意思を汲み、離れることのない主がすべて代弁してくれたから覚える必要もなかった。
このまま喰らうか……? 自分はアビスの王と対峙する仲間のためにも強くなる必要がある。あのフェンリルだって特に何もいってなかった。
「まぁいいわ。あなたにお願いがあるの、私を殺して」
魔力の動きに変化は感じない……罠を警戒しつつ、ただその場に佇んでいるだけの少女の下にルークは降り立った。間違いなくこの少女は自分よりも格上、下手に戦いが始まれば無傷ではすまない。
「あぁ……やっとこれで、こんな世界とお別れできるのね……」
さっさと殺してしまおう――そう思い全身に魔力を込め、無防備な少女目掛け喰らい付こうとしたとき、ルークの脳裏にある記憶が蘇った。
いいかルーク、誰にだって俺やお前と同じで命があるんだ。だから奪えばいいってもんじゃない。
でもお腹が空いたら食べなきゃいけないよ?
そうだな。だから食べるときはその命をもらうことに感謝するんだ。俺がいつもやってるあれだ。
手を合わせるやつ?
別に手を合わせる必要もないんだが、大事なのは心で…………って言ってもこれは俺が前の世界のときにいた、癖みたいなもんだからこっちじゃまた違うか。
前の世界?
いや……なんでもない。とにかく、お前も立派なドラゴンの血が流れているんだ。その力は奪うためじゃなく、みんなを救うために使ってほしい。
「……な、なんで」
「グウウゥゥ」
ルークは初めて己の意思のみで考えていた。目の前の少女は本当に狩るべき相手なのだろうか?
確かに格上の相手ではある……が、自ら死を選ぼうとしている相手を倒し果たして修行といえるのか?
「お願い! 早く私を殺して!!」
目の前の少女は懇願するように頼み込んでくる。主だったらこの子をどうするだろう……自分だったら……何ができる?
「ううううぅぅ……もうダメ……」
苦しむ少女の背から黒い翼が広げられる。異変に気付きすぐさま飛び立つとルークは遠い昔を思い出していた。
優位であるはずの空から見下ろした少女は、あのときの魔人のように自身を見上げていた。
「はっはっはっはっは! まさかドラゴンが現れるとはな!」
にやりと笑ったその顔からは牙が生えそのまま飛び跳ねるとこちらへ一直線に向かってきた。手を抜いて勝てる相手ではない――何度も応戦するがこちらの攻撃は躱され、すれ違いざまに爪で傷をつけられていく。
出し惜しみをしている場合じゃない、すぐさま相手の動きを読みブレスの準備をしたが突然少女は構えを解いた。
「あのときは邪魔が入ったが――」
急に身体から力が抜けそのまま城へと激突する。毒……? いや、ある程度の毒ならば容易に耐えられる。それに魔力がさっきから変だ……これは、操られているのか。
地面へ降り立った少女はゆっくりと歩いてくる。
「いよいよだ、これで私は不死となれる」
鋭い牙が鱗を貫き肉を裂く。ぼんやりとする意識の中、ルークは少女のことを考えていた。
本当に喰らうしかないのか……と。




