アーチェリーの練習試合の朝 「お兄様! 試合に間に合いませんよ」
アーチェリーの練習試合の朝 「お兄様! 試合に間に合いませんよ」
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俺は美大に通っている。
彼女は外国人だ。
それも、アメリカからの帰国子女である。
彼女の名は『マリー・アントワネット』と言った。
美しい彼女のそばでワイングラスを傾けた
ところで目が覚めた。
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「あーっ! もうこんな時間かよ!」
時計を見てみれば、時刻は午前7時を回っていた。
そろそろマンションを出て射場に向かわなければならない。
俺はベッドから飛び起きた。
アーチェリーの練習試合が8時半に稲城で行われる。
大学文理学部3年生の俺が所属する洋弓部は関東の強豪校で、一部リーグ所属のチームとは何度も試合をしている。
今日の対戦相手は東京大学だ。今回は向こうさんの方から練習試合を申し込んできた。
まぁでも……、今日の試合には行きたくない。だって、昨日の練習で肩を痛めてしまった。
そもそも俺は選手ではない。ただの荷物運びだ。そんな奴が行ったところで何になるって言うんだよ。
などと一人ごちていたら、「ピンポーン」。玄関チャイムが鳴った。
誰だろう、こんな朝早く。
俺はゆっくりとドアを開ける。するとそこには、見覚えのある女性が立っていた。
「えっと? 洋弓部の試合の付き添いかな? キミはー、確か、文理学部1年生の榊原美佐江ちゃんだったっけ?」
「はい。私の名前は榊原美佐江ですが……。どうして私の名前をご存知なんですか?」
「ああ、ちょっと覚えていただけだ」
3年生は普通、1年生の名前をいちいち覚えていない。俺は適当に誤魔化すと、再びドアを閉めようとした。
しかし、それはできなかった。なぜなら彼女が強引にドアを押し開け、部屋に入り込んだからだ。
「おい! 何やってんだよ!」
「あ、すみません。つい興奮してしまいまして」
「興奮? 一体何をそんなに慌てているんだよ」
「だってこの部屋、ゴミだらよ? それに汚いし変なニオイもする。ちゃんとお掃除しないとダメよ」
「別に好きで散らかしてんだよ! これからアーチェリーの試合に行くんだから、ほっといてくれよ」
「アーチェリー!? へぇ? そうなんだぁ?」
彼女は感心したように声を上げた。
自分だって洋弓部の1年じゃないか。それを他人事みたいに言いやがって。
彼女はそのままズカズカと部屋に入って来ると、ゴミ袋を取り出して部屋の片付けを始めたのだ。
「ちょっと待った! 勝手に人の家の中に入るなって! 君はそもそもアーチェリー部の1年だろ? ということは、キミは後輩で、俺は先輩!」
「まあ。そういうことになるかしら」
「なら、分かるだろ? 先輩には敬語を使わないとダメなんだぞ!」
「私はそういうのあんまり気にしないんで大丈夫です」
「いやいやいや。全然大丈夫じゃないから! いい加減にしろよ!」
「うふふ。そんなことより早く準備しましょう。もうすぐ出発の時間ですよ?」
彼女は笑顔で言うと、テキパキとした動作でゴミだらけの部屋を綺麗にした。
数分後、俺は身支度を整えていた。
すると彼女は、先ほどまでの強引さが嘘のように大人しい。
彼女の名前は榊原美佐江。俺の妹と同姓同名だ。
だが顔は全く似ていない。むしろ真逆と言ってもいいくらいだ。
彼女は栗色の長い髪を揺らし、まるで人形のような整った顔をしている。瞳はパッチリしていて大きく、肌はとても白い。スタイルも抜群だ。
さらに身長も高く、手足はスラッとしている。
だめだ。今はそんなことを考えてはいけない。
洋弓部の練習試合に集中しろ。
「じゃあ行くか。案内してくれ」
「はい。任せてください。お兄様」
………は? 今なんて? 聞き間違いだろうか。
お兄様って言わなかったか? いや、気のせいだ。きっとそうだ。
「お兄様。どうかなさいましたか?」
「ちょっと待て後輩。俺のことは先輩と言え!」
「はい。わかりました。お兄様」
「わかってねえだろ! その呼び方はやめろって言ってんだ!」
「でも、お母様には『洋弓部の先輩にはそう呼ぶように』って言われているんですよ」
「はぁ? どういうことだよ?」
すると、彼女はポケットの中から一枚の写真を取りだした。そこには、彼女に似た女の子が写っていた。金髪碧眼でとても美しい。写真の少女は、満面の笑みを浮かべながらこちらに向かってピースサインをしている。どこか外国の令嬢といった雰囲気がある。しかし、それ以上に目を引くのはその服装であった。なんとその少女はドレスを着ているのだ。それも、ウェディングドレスである。純白の生地に所々施された刺繍やレース。胸元の大きなリボンなど……実に凝っている。これを作った人間は相当な腕の持ち主なのだろう。驚いたことに、その少女のすぐ横には俺と生き写しの男子が立っていた。
兄妹同士? いや、恋人同士か?
いずれにせよその写真は、榊原美佐江に似た少女と、俺と生き写しの男子が並んで写っていた。
イヤイヤ。試合に集中しろ。
俺は急いで部屋を出て稲城の射場へと向かった。後輩である榊原美佐江もすぐ後からついてきた。今からだったらまだ試合に間に合う。遅刻したら大変だ。追トレが待っている。何よりも梨森先輩の鉄拳制裁だけは勘弁だ。
「お兄様。試合会場はあちらの方角になります」
「ああ、わかっている。……って、またお兄様って呼んだな!」
「お気に召しませんでしたか? では何とお呼びすればよろしいでしょうか? ご主人さま? それとも、あ・な・た」
「先輩と呼べ」
「はい。分かりました。せんぱい」
「よし。それでいい」
俺は満足すると、そのまま彼女を連れてアーチェリーレンジのある稲城へと向かった。
試合には間に合った。
準備は滞りなく、ほどなくして試合が開始された。
試合開始早々榊原美佐江が言った。
「今日の東大との試合はうちの大学の勝ちですね。当たり前です。アーチェリーではうちの方が上ですもの」
「なんでわかるんだ?」
「それは私が精神医療に携わる人間だからです。選手の心理状態くらい簡単にわかります。特に今のエンドで東大の選手は全員かなりプレッシャーを感じていました。その証拠にほとんどの選手が矢を放った時のフォームが崩れています」
「本当だ。言われてみればその通りだ。それにしても榊原美佐江よ。キミは文理学部の1年生のくせに精神医療に携わっているのか?」
俺の質問には答えず鼻で笑う美佐江の横顔がなんとも冷ややかで魅力的でもある。
今日の練習試合には間に合ったし、試合もうちの大学が勝ちそうだ。
もうこの辺でいいだろう。
俺はそう言って試合会場から立ち去り、射場わきにある木陰に腰を下ろし、ふわふわの芝生に寝転んで安らかな眠りに着こうとした。
おやすみなさい。また明日。
しかし、彼女はそれを許さない。
なぜかって? それは彼女がこんなことを言ってきたからだ。
「お兄ちゃん! いい加減起きて! 試合に間に合わないわよ」
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『お兄ちゃん』 はて? 『お兄様』とは呼ばないのか?
俺は浅い意識のなか、重い眼瞼を薄く開けてあたりを見回した。
ここは射場ではない。自分の部屋だ。
俺は机の上に置かれた時計に目をやった。
「あーっ! もうこんな時間かよ!」
時刻は午前7時を回っていた。
そういえば昨日妹に、「明日試合だから、もし俺が寝坊していたら起こしてくれ」と頼んでいたことを思い出した。
おわり