表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

長く青い滑走路

作者: 柴田書羽

この物語はフィクションである。

過去・現在・未来において実在する人物・団体・出来事その他に類似、或は上記を想起させる記述が本文中にあったとしても、それは単なる偶然に過ぎない。


 一


 華やかな面立ちではあったが、極端に肩幅が狭く、ひどく華奢であった。その細い身体で首を支えているのが不思議に感じられるほどであった。背が特に低い訳ではないのに、そのせいか遠くから見ると、妙に覚束ない印象を与える少女だったが、いつも元気よく闊歩する様は、それだけで健気ですらあった。少女は高宮千生(いつき)と言った。


 高宮明里(あさと)菜摘(なつみ)の間には、近所では幼い頃から美人姉妹として知られた自慢の娘がいる。

 姉の緑里(みどり)であれ、妹の千生であれ、ひとめ見れば、その玲瓏(れいろう)たる瞳が放つ眼力(めぢから)の強さに圧倒され、魅了されぬ者はあるまいと思われた。それは高宮姉妹に共通の美点であった。

 緑里の瞳はやや大きく、特に、眸子(ぼうし)の面積が広いことが特色だった。全てを見通すような黒い瞳は鏡のように映ったものを反射し、時として、全世界に何かを訴えかけるように見る者の心をうった。

 他方、千生の目は三日月をふたつ上下に囲んでやや上向きにしたような形が美しく、切れ長なのを豊かな睫毛(まつげ)が更に印象づけていた。瞳は普段さほど大きい訳ではなかったが、時に見開き、異様に妖しい輝きを増すことがあった。眉は太くはないが力強く延び、眼力(めぢから)を増幅させた。人はその光を目のあたりにすると、心を激しく揺さぶられるのであった。

 千生は少し微笑んだだけで、(えくぼ)がくっきりと頬に刻まれ、美少女ぶりを印象づけた。顔の輪郭は凹凸がなくすっきりしていて、少し丸みを帯びた鼻は、ちょうどいい大きさでバランスよく顔の中央に収まっている。瞳と同様に形のよい唇は、常ではないが、口角が微妙に上がって、聖母のような安心感を醸し出す時があった。

 しかし、写真ではそれらの魅力も甚だしく減じてしまうのであろうか。アイドルになることを夢見ていた千生は、中学生の頃から数多くの芸能オーディションに応募するも、一次の書類選考で()ねられることがあまりにも多かった。まったく、二次面接にすら進めないのであれば、勝負のしようもないというものだった。

 二〇一六年、現在十六歳、今年十七歳になる少女の、目下最大の悩みは、如何(いか)にして本命のオーディションの一次書類審査を突破するかということだった。――


 アイドルとは不思議な存在である。歌手であって歌手でなく、役者であって役者でなく、モデルであってモデルでなく、タレントであってタレントでない。どの分野で見事な活躍を見せようとも、「アイドルにしては」という言葉からは逃れられない、あくまで「アイドル」なのである。

 歌や芝居のスキルがあるに越したことはないが、絶対的に問われるものではない。容姿だっていいに越したことはないが、それも絶対的な条件ではない。

 要は、「()し」にしたいと思わせ、ファンを得る「何か」を持っていればよい。その「何か」とは、()わば、人間としての存在を問われた末に獲得される、全人的なものである。ファンを得る「何か」とは、生き方なのだ。人はその生き方に輝きを見て、夢を受け取るのである。

 統計を取った訳ではないので強引な推量になるが、大抵の女性が一度は、アイドルに憧れ、自分もなってみたいと思ったことがあるのではないだろうか。そして、一時的な憧れに留まらず、想いを持続させた者が、アイドルになるべく行動を起してみるのだろう。


 千生にその種火が生じたのは何時だったか。

 ベビーカーに乗せられていた、まだ物心もつかぬ頃から、千生は菜摘のカラオケボックス通いに同行させられたことが頻繁にあった。

 緑里がやっと小学校に入り、幼稚園の送り迎えから解放されると思った矢先の一九九九年、アンゴルモアの大王が空から来る予定だった年の夏に、千生は生まれた。二人は六つ、齢の離れた姉妹である。乳幼児を抱えて健全に遊興できる場所が何処かないかと考えた末にカラオケボックスを思い浮かべたのは我ながら冴えていたと菜摘は思う。彼女には、とにかく息抜きが出来る場所が必要だった。

 明里が特に育児に理解のない旧弊な夫だったということはない。ワンオペの育児が、現代ほど問題にされていなかった時代の話である。

 大学の商学部を卒業した明里は、在学中に修得した公認会計士の資格を手に、比較的大きな会計事務所に就職した。しかし、四年ほども勤めると、税理士の資格を持つ同僚に誘われてそこを飛び出し、二人で会社を立ち上げた。実質は共同経営者だったが、名ばかりの社長に収まった、いや、弁舌巧みな同僚から押し付けられたという方が正しいだろう。彼は営業手腕に秀でて外回りが多く、実務に優れた明里は彼が取ってきた仕事を事務所で黙々とこなしていた。共同経営者の努力が実って受注件数は飛躍的に増え、新たに社員を雇用する必要が生じて、明里には更に従業員を管理する仕事も加わった。経営は軌道に乗ったが、より多忙な身となり、菜摘もその辺は呑み込んでいたから、あまり無理も言わなかった。

 緑里の下校を待って、ミニバンタイプの軽自動車に、姉妹と哺乳瓶やおむつを入れたベビーカーを載せると、菜摘は行きつけのカラオケボックスに走らせる。

 明里が新宿区の早稲田にある大学に通っていた頃、菜摘は小金井にある東京学芸大学で英文学を学んでいた。大学進学した二人が双方の通学に便利のよい中央線沿いに同棲するアパートを探し求め、吉祥寺に住むことを決めたのは一九八九年、平成元年のことである。五年後、卒業とほぼ同じタイミングの一九九三年に緑里が生まれても、そのまま同じアパートに住み続けたが、更に六年後、千生を身籠ったことが分かると、高宮夫婦はさすがに、もっと広い住居に移る必要を感じた。顧客の一人がそのことを知ると、格安の上に実に有難い支払条件で、小平にある一軒家を手放したがっている知り合いの話を、明里に持って来た。

 夫婦共用の自家用車は、その時一緒に、社用車の名目で購入したものである。


 明里と菜摘は高校を卒業するまで、福岡県との県境に位置する、肥後県のAという小さな市に住んでいた。県境を挟んだ隣のO市とセットになって炭鉱で一時的に栄えたが、O市を実質支配していた三井が廃坑を決めると一気に人口が激減して、現在はゴーストタウンと化してしまっている。(かつ)てそこここに見られた炭鉱住宅長屋も、すべて姿を消した。炭鉱がなくなってしまえば、県外にまで名の知られた(ふる)い遊園地と、赤子の頭ほどもある巨大な梨くらいしか取り柄のない町だった。

 二人の実家があったA市の海側は、天候に関係なく海水浴も出来ない汚い浜辺を通って耐え難い腐臭を漂わせた潮風が吹いて来る。更に雨の日には、地面まで降りてくるコークスの異臭がO市から漂い、重ねて気分を悪くさせた。棲む人間が汚い町を生むのか、異臭を放つ不潔な町がそれにふさわしい人間を生むのか、恐らく相互に依存しているのだろう、A市の出身者は、周囲の町からも悪評を戴いていたが、言葉遣いは汚く、やたらと他人に突っかかり、その上妙なプライドばかりが高くて意味不明なマウントをしきりと取りたがり、常に誰かれ構わず陰口を叩くか陥れようと企んでいる、そんな異様にクセが強くて下種(げす)としか言いようのない人種で、A市はそんな人間を日常的に(はぐく)んでいる町だった。()うなれば、A市の人間は肥後県民の人間性を煮詰めたような、原液といった感がある。実際に住んだことのない人間は、中里介山の大河小説に出てくるお姫様のように、何も知らずにA市を含む肥後を無責任に褒めそやすが、二人にとっては地獄よりも尚、地獄のような地帯だった。家が近所で幼馴染だった二人は保育園から高校まで同じ学校に通い、高校の時に大学進学を口実にこの街を捨て去ろうと約束し、そして実行した。――


 東京に住むからには、一軒家を持とうなどという野心は捨てていた二人だった。よくてマンション、何なら公団住宅でも満足しようと思っていた。家族が不自由なく暮せるのであれば、居住形態がどうであれ関係ないではないか。それが、小平の家の話に心を動かされてしまったのは、一軒家に住んでいない家族を半端者(はんぱもの)見做(みな)すような、A市、いや、広く肥後県全体に蔓延している実にくだらない偏見が、生まれて十八年も過ごしているうちに、我知らず、二人の心を(むしば)んでいたからなのだろう。まったく、一軒家に住んでいない家庭に対する肥後県人の(いわ)れのない蔑みは、どこから生じるものだろうか。どんな土地でも当然のように一軒家を求め、他の居住形態を侮る肥後の人間は、到底、都会暮らしなど出来はしないだろう。そんな腐った性根は、いくら地獄から距離を置いても、どうしても消えない遺伝情報として二人の身体の中に残っていたらしい。いくら有り得ないような好条件といっても、東京都内に二十代の夫婦が一軒家を構えるのは、困難を伴わざるを得ない。それでも、二人は一軒家を持つという誘惑に()つことが出来なかった。ともかくも、こうして高宮夫妻は多少の無理を抱えながら、小平に中古とはいえ一軒家のマイホームを構えるに至った。


 初日こそ、菜摘はカラオケの大音量の中に乳児を置くことを躊躇ったが、ベビーカーの中で、スピーカーから流れる音楽を聴きながらキャッキャ、キャッキャと笑っている千生を見て安堵した。

 菜摘と緑里で一時間半から二時間ほども、交互にマイクを握っていると、束の間、菜摘は日常の鬱憤を忘れることが出来た。緑里にとっては、普段あまり与えられない清涼飲料水が飲み放題で、食べ放題のソフトクリームもあり、追加で頼んでくれるフライドポテトなどのおやつも魅力だった。菜摘の十八番(おはこ)は、主に小学校から高校時代にかけて聴いていた70年代から80年代のヒット曲である。締めは、尾崎亜美の「オリビアを聴きながら」か、ちあきなおみの「喝采」だった。

 月に二、三度のカラオケボックス通いは、四年ほども続いただろうか。菜摘は日頃の鬱憤を発散し、緑里は懐かしい歌謡曲を覚えた。千生は不思議とぐずりもせずに、母と姉の楽しみを妨げることもなかったし、ベビーカーが不要となった終盤では、小さな両の掌でマイクを握り、ワーワーと歌うこともあった。

 カラオケボックスで繰り返し流れていた歌謡曲が、千生の心の裡に深く刻み付けられ、後にアイドルを夢見る萌芽となったことはまず疑いなかった。


 二


 しかし、芸能界への足掛かりを先に手にしたのは、千生(いつき)ではなく姉の緑里(みどり)だった。千生を幼稚園に送り出せるようになり、カラオケボックスに通う頻度が大幅に減って少し経った日曜日、菜摘(なつみ)は千生の世話を明里に頼むと、緑里を連れて渋谷に出かけた。109の前で、菜摘ではなく緑里がスカウトマンに掴まったのは帰り道のことである。菜摘は断るつもりで、名刺だけ受け取って家に持ち帰ったのだが、意外にも明里(あさと)が乗り気になった。

 「後日連絡するって取り敢えず言ったけど、バックれちゃおうかな」と、その晩ダイニングで夫と差し向いにハーブティーを飲んでいた菜摘は、口にしていたカップを卓上に置いてそう言った。眠る前に飲むにはカモミールティーはちょうどよい。

 子供を二人も生むと(たくま)しくなってしまうのだろうか、「バックれる」なんて口にするような人間ではなかったのに、と明里は思いながら、「スカウトの人はどんなだった?」

 「誠実そうで、礼儀正しかった。腰が低くて、セールスマンみたい」

 「ちょっと名刺を貸して」と受け取ると、明里は席を外し、少しして二階の自室から戻ってきた。グーグルで軽く検索してきたようである。

 「大きくてしっかりした事務所みたいだね。評判も悪くない。ずいぶん、有名な子役がたくさんいるよ」と何人か名を挙げると、菜摘は少し驚いた。

 「もしかして、娘を芸能界にいれたかったりする?」

 「緑里は何て言ってたの?」

 「喜んで飛び上がってたよ。そのまま即決になりそうで、落ち着かせるのが大変だったんだから。慌てて話を打ち切って帰ってきた。もう焦っちゃった」

 「菜摘は反対なんだね」

 「明里は賛成なの?」

 カモミールティーを一口(すす)ると、カップを置いて口を開いた。

 「緑里が望むんだったら、させてみたらどうだろう? 本人がしたいことは叶えてあげようよ。元号が変って以来いろんなことがあった。…何時、足元が崩れるかもしれない、こんな世の中じゃない」

 言い終ると、柔らかな視線でじっと菜摘を見つめた。

 菜摘は、はっとしたように目を伏せた。

 二〇〇三年、東北の大震災の八年前で、コロナが猖獗(しょうけつ)を極めるのもその更に先の話ではあったが、それでも、昭和の頃にはほぼ絶対的とも思われた価値観が通じない時代となり、何か世の中に劇的な変動が起きていることを日々感じるには、十分すぎる平成前半の時代を二人は日本人として生きていた。

 「僕らはやりたいように生きてきた。家も生まれ育った所も捨てたし、結婚する前に子供も持った。僕は就職した会社を飛び出して自営も始めた。お粗末な家族計画で君には随分思うに任せない人生だったろうね。迷惑をかけたけど、もうそろそろ大学院を再受験しても大丈夫だよ。だから…」

 よほどどちらかに問題でもなければ、家族計画に支障が生じるのは、夫婦双方の不注意である。菜摘はそのことで特に明里を責めていたりはしなかったが、夫は夫なりに、ずっと気にしていたのであろう。確かに、猛勉強し指導教授とも熱心にコネを作って合格していた大学院を、娘を身籠って諦めざるを得なかったのはそれなりにつらい経験ではあった。

 「わかった。明日もう一度、緑里とよく話してみる。覚悟を確かめたら、私もスカウトの人とよく話してみるわ」

 彼女とて、何が何でも娘の芸能活動に反対という、確固たる意志があるのではなかった。単純に、自分の人生と芸能界が結びつかず、自分とも家族とも、一切無縁なものだと思い込んでいただけだったのである。そういう意味では、菜摘もまだ、やや旧弊であったのかもしれない。

 「今日は千生と何してたの?」

 「カラオケ」

 「カラオケ?」菜摘は思わず噴き出した。

 明里も笑いながら「行きたい所はあるか?って訊ねたら、カラオケだって、千生のやつ。…ええ、父娘(おやこ)ふたりで行ってきましたよ、カラオケボックス。もうすっかり顔になってたね。千生を見たら『お久しぶりですね。お父さんですか』だって。君ら、どんだけ通ってたんだい」

 「また、フォークソングばかり歌ったんでしょう」

 「しっかり教育しないとね。君の十八番ばかり娘に唄われたら、ちょっと悔しいよ、四歳の子が尾崎亜美や、ちあきなおみなんて」という明里の十八番は、かぐや姫や、さだまさしであった。キーが丁度いいのである。


 かように始まった緑里の芸能活動は、相当に順調だったと言えるだろう。些か身長は不足しているものの、緑里は手足がすらりと長く、モデル体型に近いと言えないこともなかった。元気がよく、陽気で物怖じしない性格も芸能界に向いていた。ジュニア雑誌のグラビアモデルを皮切りに、CM出演、テレビドラマや映画の端役、舞台やミュージカル出演と徐々に活動を広げ、民放早朝の帯番組で、大勢の一人ではあるがレギュラーメンバーとなるまでに至った。その流れで、アイドルグループの真似事をしてCDデビューを果たしたりもしたものである。フリルがひらひらしたオレンジのミニスカートの衣装は、緑里本人もかなり気に入ったようだった。

 (つい)ぞ主演を張るという機会には恵まれなかったものの、引退する頃には、映像作品や舞台に起用されると、必ずよい役を貰うまでになっていた。カラオケで鍛えた音感や喉が、ミュージカル出演の際に役に立っていたことは言うまでもない。

 緑里の芸能活動期間は、千生が四歳から九歳までにあたる。テレビに映る姉を不思議な思いで眺めたり、出演する舞台を時々観に行くことはあったが、千生にとっては異世界の出来事のような感覚で、自分に関係があることだとは思っていなかった。姉が所属する芸能事務所も、千生に声をかけることはなかった。容姿はともかく極端な人見知りとマイペースぶりで、芸能界向きの人材とは判断されなかったのであろう。

 緑里が芸能界からの卒業を決めたのは、本格的な高校受験勉強を目前に控えた中学二年の時だったから、活動期間は五年弱と言ったところである。入試の合否にかかわらず、芸能界に戻るつもりは緑里になかった。何かトラブルに見舞われた訳ではなく、高宮夫妻が圧力をかけた訳でもなかった。緑里本人が、突然に言い出したことだった。

 ――その数年後、緑里が付属高校を経て、慶応大学に進学した頃、小学六年生だった千生は芸能界を引退した理由を緑里に訊ねたことがある。

 そのとき緑里は自室のパソコンでDVDを再生して映画を観ていた。「刑事ジョン・ブック目撃者」だった。

 「『見るべき程の事をば見つ』っていう感じかな」と振り返りもせずに緑里は言ったものだ。

 「私にも分るように言ってくれないかな」。この姉は、時々こうした衒学的なことを言っては妹を煙に巻こうとするのだった。

 「芸能界で、もう、したいことは全部できたから、未練はないってこと。古文で『平家物語』を習ったら千生も分るよ」

 主役を張ることがなかった自分には、これ以上の先はないという意味だったのか、それとも本当に、自分が目にすることが出来る芸能活動は全て見切ったと思ったのか、千生には分らなかった。


 三


 高宮千生(いつき)という人間は、基本的には自分以外に関心がなく、そう意識しないと他人に注意を払えないところがあった。本当は協調性などあまりないのだが、義務で合わせていて、また努力でなまじそれが出来るだけに、周囲から期待されるところがあった。いっそ本当に周囲に合わせることのできない性分であれば、周囲も諦めてまだ楽だったかもしれない。

 千生はそういった日々が苦痛でたまらなかった。学校という、同調圧力―という語彙はまだ持たなかったが―が何よりも力を持つ社会から逃げ出したい、こんなところで終りたくない、と小学生ながら思っているような子供だった。しかし、どうすれば、そしてどこに、逃げ出せるというのだろうか?


 緑里(みどり)から芸能界引退のよく訳の分からない答えを聞いた小学六年生の時、千生にとっては重要な出来事が二つ、続けて起った。

 市が主催する作文コンクールで、千生は最優秀賞を取り、講堂での発表会で全校生徒から万雷の拍手を受けた。大勢の人間から称賛を浴びるという悪魔的な魅力を、千生は初めて経験したのである。実に気分が高揚し、自分が別人になったような気持がした。

 千生の文才は、おそらく母親の菜摘(なつみ)から授かったものなのだろう。懇意にしてもらっていた教授が大学卒業後の教え子の事情を知り、菜摘に翻訳の下訳のアルバイトを何度か回してくれた。菜摘は育児をしながら完璧に仕上げ、家計を助けていたことがある。英語力はむろん、翻訳にはそれ以上に必要だと言われる卓越した日本語力が、教授から評価されていたのである。その娘である千生には小学生ながら、テクニックとしての文書構成力に加えて、きわめて冷静な客観的な見方や論理的な思考と、それに相反するようなユニークな発想力が備わっていた。また、暗記も得意で、小学校四年生の時には「百人一首」を(そらん)んじていた。ただ、その暗記力に慢心していたのか、千生は常に、緑里と比べると勉学に少々、ムラがあった。

 姉の緑里はお転婆で、幼い頃は手のかかる子供だったが、千生は対照的に、あまり自分の要望を強く表明することのない、(ほう)っておくといつまでも一人で好きなことをして遊んでいるような大人しい娘だった。読書の他には、子供向けのアニメだけでなく、家にある映画のソフトもよく観ていた。お気に入りの映画は明里(あさと)が購入したセルDVDの「ムトゥ 踊るマハラジャ」だった。日本ではとてもお目にかかれないような原色のメイクを施し、衣装をまとったヒロインのミーナに憧れ、A・R・ラーフマン作曲の心躍るスコアに毎回心を弾ませた。そんな自分ひとりの時間の中で、独自の感性を育んでいたのだろう。


 同じ頃、明里の取引先の伝手で、高宮家は家族揃って、西武ドームで開催された当時誰もが知る超人気アイドルグループのコンサートを観ることが出来た。劇場で映画を観賞することとはまた違う、千生にとっては何もかもが初めての驚嘆すべきイベントだった。遥か遠くのステージを斜めから見下ろすようになった中央付近のスタジオ席からは、肉眼で観る演者たちは豆粒どころか米粒のような小ささで、表情などは全く判別のしようもない。ステージ脇に巨大スクリーンが設置され、舞台の一部始終が同時に写されていたが、千生は生のパフォーマンスにこだわって、それでも時々は細部が見たくて、モニターと演者たちを交互に慌ただしく首を振りながら見入っていた。

 観客の生理をよく把握した、緩急ところを得たセットリスト、一糸乱れずに点灯する照明群、スモークやレーザーを使った多彩な演出、それらに助けられた、黄金色のド派手な衣装を纏った演者たちの観客を魅了する力強く熱いパフォーマンス。ライブにありがちの、低音ばかりがやたらと響き、始終ファンの歓声が騒音のように鳴っている、純粋に音楽を楽しめる環境とは言い難かったが、いつしか千生は、それらを含め、会場全てが一体となった異様な熱気に呑み込まれていった。

 コンサートが終っても千生は興奮冷めやらず、放心状態だった。帰宅して床についてもその夜は寝つけないほど興奮していた。何か熱に浮かされたようだった。それから何日も余韻を反芻(はんすう)し、どうしてこんなに元気をもらったのだろうと考えていた。自分がステージに立って、あの夕刻の歓声に包まれてみることを妄想した。

 そして千生は確信した。カラオケボックス通い、姉の芸能活動、作文の発表…。これまでバラバラだったパーツが、ひとつのパズルのピースのように繋がったと。

 自分はアイドルになるために、これまで生きてきたのだ。――

 その一方、千生にとってはまた、アイドルへの憧れは、不如意な小学校生活という現実からの逃避行の、漸く見つけた目的地でもあった。その行き先が何故アイドルなのかと問うのは、電撃にうたれたような千生にとってはあまりにも自明で自然なことだった。そもそも、強く()かれてしまったことに、何か、格別な理由が必要なのだろうか。


 四


 「私も、お姉ちゃんみたいに芸能活動がしたい」

 高宮千生(いつき)がその人生で初めて、他人から促されることもなく、そんな自身の希望を口にしたのは、西武ドームのコンサートから数日後のことだった。

 「千生もスカウトされたの?」緑里(みどり)のことが頭にあった明里(あさと)が訊ねた。

 「ううん、全然。何もかもこれから」

 「お姉ちゃんの事務所とはもう何年も関係がないから、当てには出来ないよ」

 「分ってる。そんなつもり全然ないよ。自分で何とかするから。」

 「芸能活動って、女優になりたい? それとも歌手?」

 「アイドルになりたいの」

 千生は瞳を輝かせながら、訴えかけた。

 緑里が芸能活動をしていた頃の主な仕事は女優だった。時々、ミュージカルで歌って踊ることもあったが、本格的なものではなく、あくまで演技の仕事で認められていた。当然、芸能活動ならば千生もそちらの道を夢見ているのだろうと勝手に思っていた。

 明里も菜摘(なつみ)も、アイドルへの希望に対して、どう言葉を続けたものかと考え込むことになった。夫婦揃って、アイドルというものを些か軽んじていないと言えば、正直嘘になる。二人にとってアイドルとは、よく正体のわからない「(ぬえ)」のようなものだった。アイドルが何かということは、よく分かっていない。大して考えることもなく、四十年以上生きてきたのである。考えなかったのは、その必要もなかったからだった。

 「どこかのグループに入りたいの? それともソロで活動したい?」取り敢えず菜摘が口を開いた。

 「うん、私、どっちでもいい。とにかくアイドルになりたいの。…この前連れて行ってもらったコンサート、本当に凄かった。興奮して、私、心を持っていかれちゃった。あんなふうになりたい。ステージに立って、スポットライトを浴びて、大勢のお客さんの歓声に包まれたい。…夢が出来たの、自分もそうなりたいって。…いいでしょ? 私も芸能活動をして。ね、お願い」

 千生は人生初めてというくらいの勢いで一気にまくし立て、両親をたじろがせた。

 姉の緑里が五年も芸能活動を続けていたのに、妹の千生にそれを禁ずるのは理屈が通らない。高宮夫婦は、千生の芸能界への挑戦も容認、いや、応援しない訳には行かなかった。そこまではいい。しかし「アイドル」とは…

 明里も菜摘も、これまで人並にアイドルを楽しんで、「消費」してきた人間ではあった。しかし、それが直截(ちょくせつ)身内に関わることとなれば、また話は別なのである。

 緑里のことがなければ、「ドームでライブを開けるようなトップアイドルになるなんて、生易しいことじゃないよ」とでも諭して諦めさせていたかもしれない。何しろ、なりたいという思いだけで、何の予定が立っている訳でもないのだ。緑里がスカウトされたときは十歳だった。明里が菜摘を説得するときは偉そうなことも言ったが、一生の仕事にするわけではなく、大きくなったらやめるだろうと軽く考えていた面もあった。しかし、千生は十二歳なのである。緑里の時とは違う。

 千生の言葉は、子供らしい言い分といえばそうかも知れない。しかし、これまであまり自分から何かを求めない娘だった千生が、この世に生を受けて十二年、両親に初めて見せた情熱が、芸能界、就中(なかんずく)アイドルに対する執着だった。

 娘の(かつ)て見せたことのない強い意志表示を、夫妻は驚きや頼もしさと共に、些か複雑な思いで眺めていた。それは反対というのではなく、戸惑いであった。娘がここまでアイドルにこだわる理由が、分からなかった。芸能界はまあいい。何故、その中のアイドルなのか。家族で同じコンサートを観ていても、その受け取り方は、それぞれ大きく異なっていたのであった。

 しかし菜摘は思い直した。別に理解できないならそれでいいではないか。理解できないこと、自分の趣味に合わないことや興味を惹かないことを否定してかかるのはよろしくない。それは自分たち二人が棄てた土地の人間と同じことだ。大切なことは、自分の娘がそれを気に入って、その道に進みたいと思ったという事実ではないかと。反社会的なことでもなければ公序良俗に反するわけでもない。アイドルになって誰が迷惑を蒙るだろうか。

 「お父さん、いいわね?」今度は菜摘が、明里に向って同意を促した。愛妻から詰められては、明里も肚を括るしかなかった。

 「え? …う、うん…。何をどうしたらいいのか分からないけど、やってみたら? 出来ることは応援するよ」

 「お願い、お姉ちゃんは当てにしないで。私、自分の力で何とかしたい」

 「それでいいの?」

 「うん」

 金であろうとコネであろうと、あるものは何でも使ってチャンスを掴むべきなのだが、本人が望むならそうしようと明里は思った。そのうちに、嫌でも分るようになるだろう。

 満足そうに自室に戻って行った千生の、その後姿(うしろすがた)を見送って、明里は反省したように言った。

 「こんなときに、何も考えずに子供の背中を押してやれないのは、やっぱり昭和の人間だからなのかな」

 「どうなんだろう…。何でも子供の言いなりになるのがいいことだとは思わないけど。…周りに芸能人なんていなかったもんね…」

 既に娘が一人、嘗て芸能界に籍を置いていた親とも思えぬ言い方であった。


 千生は姉の(ひそ)みに倣い、自分もスカウトを受けるべく、土日祝日、姉が掴まった109の前を中心に、センター街、東急ハンズ、パルコ、公園通りから渋谷駅というルートを何度も往復した。日を改めて原宿や新宿にも足を延ばし、およそスカウトされやすいとされる場所は大抵、それも幾度も訪れたが、何故か一度も機会に恵まれることはなかった。小平に住む千生にとっては、都心に出るのは、毎回ちょっとした遠距離通勤のようだった。しかし、電車賃も莫迦(ばか)にはならない。

 この期に及んでも尚、受け身の手段を取るのは、人見知りの激しい千生らしかった。菜摘はそんな千生をしたいままにさせていた。一体どれほどの覚悟があるものか、見極めようと思ったのである。

 流石に千生も悟った。

 受け身でいても駄目なのであれば、自ら行動を起す他はないのである。


 千生は、西武ドームで観た超人気アイドルグルーブが行った定期の募集に応募して、一次書類審査落選となったのを皮切りに、オーディション雑誌を購読し、募集していると知ると、それこそあらゆる芸能事務所に手当り次第に応募書類を送付した。

 2013年初頭、その年中学二年になる千生が、唯一合格を果たした芸能事務所も、即、本体に所属して活動できるという訳ではなく、そこから系列の子役養成所に配属されることになった。(てい)のいい、芸能スクール流しである。オーディションの上位合格者には、レッスン料の免除や減額もあったが、千生には適用されなかった。

 レッスン料、交通費、その他諸々、千生は少なくはない経済的負担を親にかけることになった。それだけの犠牲を払っても、千生がしがみつこうと思った理由はただ一つ、そこだけが、自分を合格させてくれた場所だったからであった。()わば、芸能界という天上から千生に向って降ろされた、か細い一本の蜘蛛の糸であった。

 千生が他に行くところはなかったのだ。


 港区西麻布にある養成所は、遠かった。学校が終ると()ぐに制服のまま西武新宿線に乗り、終点ひとつ前の高田馬場で山手線に乗り換える。原宿でまた東京メトロ千代田線に乗り換えて、乃木坂駅で降車し20分ほども歩いてようやく辿り着く。

 養成所に到着すると、レッスン着に着替え、講習が始まる。汗と油性ワックスの匂いが残る教室で、瞳をギラつかせた年齢も性別もバラバラな大勢に混って、挨拶や言葉遣いといったマナーに始まり、発声、歌、ダンス、芝居を複数の講師から叩き込まれた。それは、中学生の千生にとって部活動と同じだった。ただし、周囲は友ではなく、皆ライバルなのである。チームとして切磋琢磨して共に実力を上げ高め合ってゆくのではなく、自分ひとりで実力を上げ、オーディションでは、所属する事務所の者を含むあらゆる他の応募者を蹴落とさねばならないのである。

 レッスンと並行して、オーディションの連絡が毎日のようになされた。そのまめさは、さすがに大手事務所の系列だけのことはある。それに、弱小の事務所から受けるよりは、多少なりとも有利に働いて然るべきだった。

 しかし、その特典もまた、千生には無縁のものだった。千生は蹴落とす側ではなく、常に蹴落とされる側だった。

 そのような日々に、千生はスマホに毎日転送した動画を入れて、電車の中で視聴し、元気を貰っていた。当時一世を風靡していた朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が、同級生の間では大人気で、千生も毎日夢中になっていた。岩手県の北三陸からアイドルを目指して上京した主人公天野アキが、自分たちのグループの正式なデビューまでは、先輩アイドルグループのアンダーメンバーとして、舞台の奈落でいつでも代役に立てるように毎日稽古している姿を、まるで自分のことのように見ていた。

 

  暦の上ではディセンバー でもハートはサバイバー

  去年の私はリメンバー ただよう心はロンリー

  歩き疲れて 膝が笑うわ


 千生はこの歌をよく口ずさんだ。


 (ようや)く養成所に通い始めて、芸能活動を始めた千生だが、半年たってもそれ以上の進展がなく、肥後県人らしく短気な明里は、日々、苛々が募っていた。

 「どうして緑里の時とこんなに差があるんだ。千生の何がダメだっていうんだ」と、その夜はとくにご機嫌斜めだった。

 リビングで晩酌のビールにつき合いながら、相槌を打つのにも疲れた菜摘は、(いささ)か呆れ顔で「明里、あなた分ってないのよ。緑里みたいに順調なのはどんなにレアケースなのかっていうことが。性格の問題もあるし、運やめぐりあいって、重要なことなのよ、人生と同じで。緑里の場合は奇跡的にみんなうまく回ったの」

 「運やめぐりあい…」明里は自分の生まれ育った家や土地を思い浮かべた。千生には、その運の悪さが付き纏ってしまったのだろうか…

 「千生だってそんなに不遇とは言えないんだからね。とにかく、一度はオーディションに合格して、養成所に通ってるんだから」夫の感慨など気にもかけずに菜摘は続けた。

 「千生が可哀想で、もう見てられないんだ。あんなに何かに懸命な千生は見たことないよ。ステージに立ってスポットライトを浴びたいって、眼をギラギラさせてる。…毎日養成所やオーディションに通って、きっといろいろあっても、僕たちには辛い表情は見せないようにしていて…。親として何か出来ることはないんだろうか…。金で何とかなるんだったら…」

「そんなお金、家にはないわよ」

「会社の金を使い込んだっていいよ」

「やめてよね。アイドルの親が犯罪者だなんて洒落にもならないから」一体夫はどこまで本気なのか、妻には判りかねた。大体、どこの誰に幾ら渡すというのだろうか。

「本当に、緑里がいた事務所に頼む訳にはいかないかな。なんとかなるんじゃないかな…」

 とそこまで言ったときに、脱兎のごとく飛び込んできたのは千生だった。

「それは絶対やめてよ! そんなことしたら、パパのこと嫌いになるから。二度と口きかないから」

「千生…どこから聞いてた?」

「お姉ちゃんの事務所っていう言葉が聞こえたの。それだけは本当にやめてよね。自分の力で掴み取りたいんだから。お願いよ」


 養成所に入って一年弱、応募回数がそろそろ三桁に届こうという頃、ようやく、舞台の仕事が千生にひとつ決まった。むろん端役ではあったが、公演のポスターにはきちんと名前入りの写真が載った。

 オーディションとは落ちるもの、という哀しい観念が出来始めていた千生の安堵はいかばかりのものだったろうか。――

 今回の起用を足掛かりに、これからは着実に仕事が入るだろうと千生は信じた。むろん、今度の舞台で結果を残すことが必須ではあるが、そのための努力を惜しむつもりはなかった。


 五


 ――養成所に入所してから約一年経った二〇一四年一月の或る日、千生は、事務所から契約の更新を拒まれた。中学生の身にして、馘首されたのである。

 原因に全く心当たりがないというものでもなかった。人見知りで笑顔もぎこちなく、当意即妙に気の利いたことも言えない点は、レッスンでもオーディションでも、幾度も指摘されていた。また、眼力(めぢから)の強さが、逆に千生の枷となってしまったのは皮肉なことだった。自信なく微笑むと逆に口元が妙な具合に結ばれて、何を考えているのか分からないような表情になりがちだった。むろん千生の意図したものではなかったが、どうも周囲を威圧し、無用に警戒させてしまうのであった。

 自分は芸能界に向いていない、と千生が思うことは毎日だった。克服しようと努力は続けていたが、なんと言ってもまだ、中学生である。自分を客観視する能力は人並み以上にあったが、どこをどうすればよいかという具体的な方法までは、なかなか辿り着かず、分かったとしても実践することはまた別であった。試行錯誤が続き、早々に結果が出る訳ではない。そして、事務所は待ってはくれなかったのだろう。或は、親切にも嵩むレッスン料の心配をしてくれたのかもしれない。

 その日のうちに両親に報告は出来ず、翌日は普通に登校した。

 地面が一面霜で覆われる、寒い日であった。

 「おはよう」といつものように挨拶して教室に入ると、その日は漂う空気が違っていた。千生の顔を見て声を立てずに(わら)う者、わざと顔を伏せている者。その理由は瞬時にして理解できた。

 結露で白くなった教室のガラス窓全面に、千生に関する悪口雑言がご丁寧に下手な似顔のイラスト入りで書かれていた。

 まるで、白い絵や文字で飾られたクリスマスのショーウィンドウのようだった。

 千生はそれらから目を(そむ)けることなく、内容を読みとった。中傷の内容は事実無根の、恐ろしく幼稚なものから、容姿に関すること、性格に関することまで様々だったが、どうやら趣旨は、千生の芸能活動が気に入らないということのようだった。どうも最初で最後の仕事となった、顔写真入りの舞台告知のポスターが目立ったらしい。千生は顔を強張らせ、黙って自席につくと、不意におかしくなって笑い始めた。

 ――そんなことしなくてもね、私は事務所から辞めろって言われたのよ。あんたたちって、ほんとに莫迦(ばか)みたい。

 教室のほぼ全員が参加した落書きだったが、あとで判明したところでは、やはり真に千生に遺恨を持った首謀者はほんの数名で、あとは大した考えもなく付和雷同して面白半分に落書きするか、首謀者たちの威を恐れて嫌々窓ガラスに指を付けた者が多数だった。努力する者の足を、何も知らず、己はその努力もせずに引っ張ろうとする愚者はどこにでもいるものである。

 クラス中を加害者にする落書き事件に至るまでには、思い返してみれば伏線ともいえる小事件がいくつも、ない訳ではなかった。陰口、無視、仲間外し…。千生はむろん、それらの行為を疎ましくは思っていたが、さして重大事には思っていなかった。芸能界で成功できるか否か、その目標に対して毎日、同級生の知らぬところで戦っていたのだ。同級生からの妨害など些事に過ぎなかった。そして些事だと思って相手にしなかったのが、更に怒りを増幅させたのであった。

 確かに、千生ほどチャンスにも容姿にも恵まれていない者にとっては、毎日授業が終わると誰ともつるまずに、すぐに消えてしまい、遠く都心で芸能界の仕事をしている者の存在は異端であって、疎ましいものだったし、点火された嫉妬の炎も激しく燃え上がった。芸能活動と言えば(きこ)えはよいが、実際はレッスンとオーディションの日々だった。それが芸能活動と呼ばれるのならば、なんと不毛なものなのだろう。しかし、そんなことは一方的に(ひが)みを持つ連中の知った話ではなかった。とにかく、千生がその点に関して(いささ)か不注意だった点は否めない。オーディションに合格し、養成所に所属するようになってから、迂闊(うかつ)にも、小学生時代には慎重だった周囲に合わせる努力を怠っていた面はあった。一言でいえば、「根回し」を忘れていたのだ。

 千生は元々打たれ強い性格で、その性格はこの一年間で更に強くなっていたが、契約更新拒否の翌日にほぼ全クラスからいじめをうけるというダブルパンチは、さすがに(こた)えた。

 もう、芸能界への夢は捨てようと、この時、千生は本気で決意した。二度と、挑戦することはあるまいと思った。高校受験を頑張って、志望校に進学して、更にいい大学に行って、自分の別の夢を叶えるのだと決めた。

 千生は少し前の或る夜、リビングで明里が菜摘と話しているのを耳にした。

 「うちの事務所にも弁理士がいると、もっと仕事の幅が広がって、大きく出来るんだけどな」と明里は言っていた。

 「必要なの?弁理士なんて」また共同経営者の同僚に焚きつけられたんじゃないかと、菜摘はあまり真剣に受け取らなかった。

 「少しはよそと違ったこともやらないと、生き残るのは難しいよ」

 両親の会話に出てきた「弁理士」という言葉に、菜摘と違って千生は真剣に反応した。小学校の時に買ってもらったラップトップで調べてみると、資格を取るのはなかなか難易度が高そうだったが、アイドルを諦める代償にするにはふさわしいと思った。自分がその資格を手にすれば、これまでいろいろ負担をかけてきた両親に恩返しできるのではないかと考えた。資格習得に学歴は特に必要ないが、姉と同じ大学に入って、弁理士資格を取ることが、アイドルを諦め、堅気の人間として自分が生きるためには必要なことだと心に決めた。

 ――娘の挫折は、明生にとって当然胸の痛むことではあったが、同時に、多少胸をなでおろしたのも事実である。リスクのない世界など、この世にはない。しかも現在の日本では尚更である。しかし、芸能界というものはやはり、明里に理解の及ばない業界であった。アイドルを諦めて堅気の道に進むということは、明里にとって、よりリスクの少ない世界への、千生の帰還であった。


 しかし千生の挫折は尚も終らなかった。

 養成所を退所ということになり、高校受験のために進学塾に通って、些かの遅れを取り戻し、受験体制も整えはした。そして姉の緑里と同じ、私立大学の付属高校を受験したのであるが、合格することが叶わなかった。芸能活動から受験勉強に、計画以上にはうまくシフトすることが出来なかったのだろう。第二志望だった都立高校には合格したので、そこに進学することになったが、新たな決意の出鼻を挫かれたのは、千生には痛かった。

 「ねえ、菜摘、偏差値60の都立高校っていうのは、そんなに失望するようなものなのかな…」

 「千生のこと?」

 明里は頷いて、「第一志望の高校に合格できなかったショックは分るよ。緑里は合格しているから尚更だろう。…だけどね、そんなにガッカリされると、同じ偏差値60の高瀬髙に通っていた僕たちはどうなるんだと思うんだよね…」

 もう四半世紀以上前に明里や菜摘が通っていたのは、偏差値60でも、肥後県内では三番手の、県の郡部では最も名門と言われた県立高校だった。二人は三年間、放課後にその高校の図書館で共に勉強し、塾にも行かず、大学受験を成功させた。生まれ育った肥後は忌嫌い、憎んでいても、母校に対しては妙なプライドを持っているのであった。

 「あのね、明里、東京は私立高と公立高の関係が地方とは違うのよ。私も感覚的にピンと来てる訳じゃないんだけど、東京生まれの千生や緑里には、そういうものなのよ」

 「親子の埋められない深い溝って奴か…」

 「何を言ってるんだか」


 六


 ともかくも、千生(いつき)の高校生活はかくして始まった。2015年のことである。

 スカウトを期待した都心の行脚(あんぎゃ)、芸能事務所に所属するための応募、オーディション、養成所でのレッスンと、仕事を得るための果てしない応募、オーディションの日々、それから方向転換しての受験勉強の日々。――

 千生の中学時代は、大変なことのみ多い上に報われることが少なく、およそ学生時代の楽しみというものからは遠かった。そして、アイドル、高校受験と、目標は違えど、何かに向って驀進していた日々だった。しかし、両方に挫折した。

 千生はその三年間に(いささ)か疲れを覚えていた。そして、妙な安らぎと、気の抜けた思いの入り混じった感情の中にいた。

 芸能界は諦めて、「堅気(かたぎ)」の人間としてこれから生きていく。ごく普通に、あたりまえに、平凡に。――

 確かに、そう千生は決めたのだった。

 千生は中学時代の再現は避けたかった。目立たず、敵を作らず、集団の中位の存在として、ひっそりと暮したかった。誰にでも心を開いているように装い、しかし肝心のことは心に秘め、虎視眈々と、現実世界の夢を追う。小学校時代の再来のようだが、更に巧く、ことを運ぶのだ。

 千生は図書室にあった心理学のハウツー本を数冊借りて読んでみた。少し努力は必要かもしれないが、実践するのは充分可能だと感じた。人間関係に応用してみよう。


 千生の過去の芸能活動は、例の派手ないじめ事件もあって中学の同級生たちの間では、ほぼ知れ渡っていたが、同じ高校に進んだ人間は少なく、入学後にそのことを口にする者はなかった。千生には望ましいことだった。これで、孤立する原因がひとつは取り除かれたのだと安心していた。部室に向う途中、不意に背後から見知らぬ男子生徒に声をかけられるまでは。――

 「ね、中学の頃、芸能活動してたよね?」

 千生は心臓に針を刺し込まれたような錯覚に、身構えた。

 また元の木阿弥になってしまうのかと失望を覚え、体を強張らせて無視して歩き続ける千生に「オーディションで一緒だったけど、覚えてないかな?」と彼が言葉を続けたことで、彼女は立ち止った。

 その声からは好奇心に満ちた皮肉を交えた問いかけではなく、妙な親しみを感じた。千生は振り返った。

 ハンサムとは言えないが好感を持たれそうな、よく通る声を持った、すこし体格の良い少年だった。

 「どのオーディション?」

 「君が出演した舞台。僕は落ちちゃったんだ」

 「そう…。でも、私が合格したのはあれ一つだけなんだ。公演が終って間もなく、事務所から馘にされちゃった…」

 「そうだったんだ。…僕もその頃、芸能界を諦めたよ」

 「何年くらい芸能界にいたの?」

 「六年、かな。最初子役の劇団に入って、仕出しでドラマに出るようになって、何か目立ったのかな、芸能事務所に呼ばれて移籍して、忙しい時期もあったんだよ。…声変わりしてから、調子がおかしくなったんだ。巧く演出に応えられなくなって、もうオファーなんかされなくなっちゃった。オーディションを受けては落選する毎日になってね。…希望者はたくさんいるし、代わりの人間には全然困らない。もう、ここに自分の居場所はないんだなって思った…」

 「居場所…」千生はこの少年となら、他の誰とも共有できないことを、分り合えるように思った。

 「私には最初から芸能界に居場所はなかった気がする。呆れるくらい書類を送って、それでたまにオーディションに進んで、仕事は一度だった…。六年活躍できたって、凄いよ」

 「ありがとう」

 少年の心からの笑顔を受けて、千生はこのまますっと話していたいという衝動に一瞬、駆られた。しかし、残念だが堅気の学生生活を送るためには、部活動を抛り出す訳には行かなかった。

 「ごめんなさい、私、これから部活なの」

 少年は少し切実な眼を見せて千生に言った。

「また、話できるかな? 僕は四組の竹下啓介」

「いいよ。…私は高宮、高宮千生。二組よ」

 そして二人は別れた。


 千生が向っていた部室というのは、校舎の外れにある、かるた部だった。小学校の時に百人一首を暗記していた自分にはもってこいの部活動ではないかと思ったのである。中学時代は芸能活動に邁進して、部活動には入部しなかった。ために、あまり同級生と親しくなれなかったということがある。堅気の学生生活を送ると決めた以上は、どこかの部活動に入って友人を増やし、出来るだけ楽しく過ごしたかった。

 部室は、汗の染みた畳の匂いが強く、(かつ)て通った養成所を思い起こさせた。かるた部が生易しい部活でないことは覚悟していたが、想像していた以上に体育会系だった。かるた競技は、百人一首や決まり字を暗記しているくらいではどうにもならない。とは言え、千生は身体を動かすことが嫌いではなかったし、意外に瞬発力もあった。華奢に見えても、なかなかスタミナはあるのだ。養成所で歌やダンスを一年間叩きこまれたことは、無駄ではなかった。それ以上に、芸能活動を通じて、自分にはこれまで自身知らなかったような、こうと決めたことには手抜きが出来ない、負けず嫌いな面があることにも気づかされていた。

 千生は新たに分った自分の性分を発揮して、札を取るための努力を惜しまなかった。集中力と瞬発力、それ以前の入念な準備、それらの大切さを、かるた部の活動を通して改めて千生は学んだ。公式な試合の日には和服を着ることができるのも嬉しかった。

 ハードな部活が終ると適度に空腹になり、アルバイトや学習塾の時間になるまで、他の部員と買い喰いして帰ることも、いかにも千生が夢みた学生生活であった。いずれも、中学時代は経験できなかったことである。


 堅気の高校生らしいこととなれば、次はアルバイトである。千生はあちこちに置いてある無料の求人雑誌を何冊か持ってきて、検討してみた。サリーが店員の制服になっているというインド料理店と、チャイナドレスが制服になっている中華料理店の求人が、千生の目を()いた。普通なら着ることのない民族衣装を(まと)うチャンスに魅力を感じたということもあるし、インド料理も中華料理もどちらも好きで、賄いに惹かれたということもある。

 こういう、コスプレに目がないあたり、やはり千生は根っからアイドル稼業が好きなのであろうし、まだ幾分、未練が残っているのかもしれない。どちらにするか大いに迷ったが、好きだったミーナに憧れてインド料理店のアルバイトに応募することを決めた。それで駄目なら中華の方をまた受ければいい。

 千生がアルバイトを始めようと思った動機は、アルバイトに対する興味もあれば、自分自身で金を稼ぐということへの期待もあったが、何よりの理由は、中学時代の芸能活動で金銭的な負担をかけた穴埋めに、せめて幾らかでも自分の大学進学費用の足しにしたいということが大きかった。千生にはこういうきちんとしたところがあった。進学費用の足し、という点は伏せて、両親に許可を求めると、呆気ないほど簡単に「高校生活に支障のないように」と菜摘(なつみ)から釘を刺されただけで了承された。

 電話を入れて面接に行くと、「うちはサリーを着て接客するんだけど、そこは大丈夫?」と念を押されただけで、即決になった。店としても、千生のような美少女が来てくれたら文句はないであろう。平日の夜、週に二日が固定で、時々土日祝日のどれかにシフトが入った。簡単なヒンディー語を幾つか使って客に挨拶をし、お冷を運んでオーダーを取り、料理を持って行ったり、皿を下げたりする。ときどきメニューの説明も求められるが、すぐに覚えた。賄いはカレーの他に、タンドール料理やサモサなどが振る舞われ、毎回満腹になって帰宅した。食べ盛りの高校生には有難いアルバイトだった。

 千生は風の噂に、一時は検討していた、チャイナドレスで接客する中華料理屋の方には、同じ齢の絶世の美少女がアルバイトに入ったことを知った。希望がかぶらなくてよかったと、少しだけ安堵した。


 アルバイトに入っていない平日週三日の晩は、クラスの友人たちと学習塾に通っていた。受験対策ではなく、学校の勉強の予習復習である。とても義務教育の延長にあるとは思えないような難解な内容と膨大な量のカリキュラムに、千生は最初から呑まれていた。得意の暗記力くらいでどうにかなるようなものではなかった。最初は受験勉強対策で通うつもりだったのだが、とてもそんな段ではないことに気づいたので、何とか日々の学習に遅れないことを目標とするようになった。徐々に成績を上げて、受験勉強にシフトすればいいというのが、その頃の千生の計画だった。目下、弁理士を目指すという目標など夢のまた夢であった。


 高校で初めての中間試験が終った、梅雨の合間の晴れ渡った日曜日、千生と啓介は、他の一組のカップルと合同でダブルデートすることになった。場所は西武園遊園地だった。都心に出る案もあったのだが、千生は(しばら)く、嫌な思い出のある都心は敬遠したい気分で、ならば近場に行こうということになったのである。

 あの日の後も、短時間ながら千生と啓介は何度か逢って会話を交わしていた。初対面の時から千生は啓介のことを憎からず思っていたし、啓介は元から千生に興味を抱いていたので、そうなるのは必然であった。ただ、帰宅部の啓介と違って、千生はなかなかのハードスケジュールで生きているので、長く一緒にいることは難しかった。

 小平駅に集合した四人は、西武多摩湖線に乗り、西武遊園地駅で降車した。夏を感じさせる久々の晴れ間に、人出は多かった。

 もう一組の二人は、啓介の共通の友人で、別のクラスの同級生だった。名前は千早(ちはや)三郎、名島(なじま)順子と言った。中学時代から交際を始めて、もう三年目になるのであった。

 「ね、啓介とはいつからなの?」

 「四月に学校でナンパされたのよ」

 「へぇ…。意外だな。啓介、頑張ったんだな」

 「おい、嘘はやめろよ。ナンパなんかしてないだろ」

 「こいつ、悪い奴じゃないから、よろしくね」

 「それは保証するから」

 ダブルデートにしたのは、まだ交際して間もない千生のことを啓介が(おもんばか)ったからなのだが、二組のカップルは入園すると、待ち合わせ場所と時間を決めてすぐに別行動をとったので、どんな意味があったのやら…

 名物である大観覧車やメリーゴーランドに乗ると、もう昼食時間だった。千生は昨夜一生懸命に作った数人前のサンドイッチを持ってきていた。

 「ありがとう」

 「心して食べなよ」

 「そうします」

 千生が持参したポットから注いだ紅茶と一緒に、二人はサンドイッチを食べた。ハム、チーズ、レタス、玉子、ツナ、コンビーフとバラエティに富んだ千生の調理は上手で、啓介はとても満足した。

 「小六の時、もう四年前ね、この先の西武ドームでコンサートを観たの」

 昼食をとって人心地つくと、千生は遠くを見ながら言った。

 「ドームで?」

 千生は(うなず)いてつづけた。

 「私の人生を変えた、…変えたかもしれない場所。そこでコンサートを観たの。興奮して、元気を貰って、どうしてアイドルってそんなことができるんだろうって不思議に思って、それでなりたいと思った」

 「そっか、千生はアイドル志望だったね」

 「みんなとっても綺麗で、スポットライトを浴びてキラキラしてた。一挙手一投足に釘づけになって、三時間目を離せなかった。…私もあんなふうに、輝く場所を見つけたい。そして、その輝きで、自分がそうしてもらったように、みんなを倖せにしたい、元気にしたいって思った。自分もそんな存在になるんだって…」

 啓介は千生を見つめながら、黙って聞いていた。

 「…それからいろんなオーディションを受けて、事務所が決まって、養成所に行くようになって、周りは凄い人たちばかりだった。意識も高いし、スキルもあるし。…この人たちに負けたくないって思った。自信なんてなかったけど、でも負けたくないって気持ちだけはあった。…負け続けたんだけど…」

 ――負け続けた。それは啓介の芸能人生の終盤の姿でもあった。

 「そんな毎日の中で、いつの間にか、見てくれる人を幸せにするよりも、自分がステージで喝采を浴びることばかり考えるようになってオーディションを受けていたんだ…」

 千生はそこで言葉を区切った。そして思い切ったように口にした。

 「私の敗因はそこだったのかな…」

 「誰にも分らないよ。そんなことは…」

 「アイドルって、ファンに対して滅私奉公して、夢や愛を与える存在じゃないのかなって、最近思うようになったの。前は分ってなかったんだけど…」

 「もう一度チャレンジしてみるの?」

 千生は首を振った。

 「いい。今が楽しいもの」

 その同じ頃、遅く起きてきた明里(あさと)が菜摘とブランチをとりながら、

 「千生は西武園だって? デートに行ったのかい?」

 「デートか何か知らないけど、昨夜売るほど沢山サンドイッチを作ってたわね」

 「どう思う?」

 「きっとデートね」

 「本当に芸能界は諦めたみたいだな」

 「呆れた。まだ疑ってたの?」

 明里の反射的に出たような独り言に反応した菜摘は、更に問いかけた。

 「どうしてデートしたら諦めたってことになるの?」

 「芸能界は恋愛禁止じゃない? なのに恋愛してるんだから」

 菜摘はため息をついて「恋愛禁止のところもあるだけよ。…『あまちゃん』の観過ぎなんだから…もう何巡目?」

 「四回くらいかなぁ。気に入った回は何度も観てるけど、通してだったら…」

 明里はラップトップにあまちゃん全一五七話(紅白歌合戦含む)の動画を入れて、気が向くと再生しているのだった。

 「私、恋愛禁止とか、そういう人権無視のことは嫌い」と菜摘は強く言った。

 千生と啓介は園内を話しながら散策した。歩き疲れて茂みに腰を下ろすと、啓介の人差指の手の甲側第二関節の辺りに血が滲んでいた。千生が指摘すると

 「草か何かで切ったかな」

 「ちょっと待って」

「 あっ…」

 千生は啓介の手を白く長い指を差し出して握ると、出血しているあたりを口にあてて血を拭い、ポーチからバンドエイドを出して巻きつけた。

 丁度、千早と名島もその辺りを歩いていて、座り込んでいる二人を見つけたが、邪魔をするような野暮なことはしなかった。ただ、後で驚かせようと、名島順子はスマホで何枚かシャッターを切った。


 めくるめくような日々だった。――

 と、入学から半年間くらいを振り返って、千生は思うのである。

 部活動も始めた、帰りに友達と買い食いもするようになった、学習塾にも通い始めた、アルバイトにも行くようになった、そして、彼氏も出来た。画に描いたような理想的な高校生活だった。

 友人は大勢できた。クラスメート、かるた部、バイト先、学習塾では他校の生徒、そして啓介を通じて他のクラス。自分でもビックリするくらいだった。

 心理学の入門書で覚えた手法で、敵を作らず、好感をもたれる方法を日々実践した(たまもの)だった。先手を読んで相手が望み、(よろこ)ぶことを考え、振る舞っていれば、自然と人が寄ってきた。

 (かつ)ての自分に欠けていると思っていた、他人を威圧しているように見えない自然な笑顔、当意即妙の気の利いた切り返し、これらを、千生は友人たちと交わることで急速に身に着けて行った。

 友人たちの歓心を買うためには、骨身を惜しまなかった。必要以上にはしゃぎすぎて歯止めが効かず、半ば道化のように見えぬこともなかったが、千生は気にしないことにした。自分は衝動的にかくも大胆になることができるのだと、千生は知らなかった己の性癖に驚いた。興が乗ると、自分が自分でないような気がして、周囲がちょっと引くほど、どこまでもはしゃぐことができた。

 スクールカーストの頂点にいる必要はない。自分に直截(ちょくせつ)害が及ばないような、ほどほどの階層で十分なのだ。それらは身を護る自分のための行為でもあったが、同時に、他人を悦ばせ、笑顔にすることができると思うと、それもまた千生自身の悦びであった。

 千生は中間考査や期末考査の前は徹夜してひたすら得意な暗記に励んだ。いつも計画的に試験勉強しようと思っているのだが、気がつくと一夜漬けコースを辿っているのである。

 試験当日は仲のいい7、8人のグループで早めに学校に集まって、早朝から試験範囲の復習をすることにしていた。グループは早暁、徹夜明けのまま各々(おのおの)高校の近くにある24時間営業のファミレスに集まって、モーニングセットを食べてから登校した。食事をとるついでに、ドリンクバーでカフェインを大量に摂取して眠気覚ましにしていた。エスプレッソを何杯も飲むと、頭がスッキリした。「ちゃんと勉強した?」「ついつい漫画を読んじゃった」などといった他愛もない会話が飛び交って、早朝のファミレスの店内は賑わった。千生は半ば朦朧とした頭で、妙に浮き浮きと、高揚した気分を感じていた。ふわふわと、宙に浮いているような感覚だった。メンバーはひとしきり朝餉(あさげ)を楽しむと、始業の一時間前には登校できるようにファミレスを後にした。

 店を出ると朝焼けが目に痛かった。

 全く、楽しい高校生活だった。ただ一点、成績が振るわないということを除いては。――


 七


 もう、秋であった。

 千生(いつき)の成績はずっと変わらないまま推移していた。底辺という訳でも赤点という訳でもないが、学年で中位のまま足踏みしていた。勉強をサボっている訳でもないし、塾にもちゃんと通っているのに、実を結ばなかった。

 千生は学校では見せないような沈んだ顔を、時々自宅では見せるようになっていた。そんな娘の表情を見て菜摘(なつみ)には、思いあたる理由がひとつしかなかった。

 「出来ない筈はないんだから、きっとやり方が悪いのよ」

 菜摘はある時、千生をそう言って慰めた。

 千生は俯いたまま、暗い顔を変えなかった。

 「お姉ちゃんにやり方を訊ねてみたら?」

 本来なら、今年卒業して就職し、家を出ている筈の緑里(みどり)だが、一年ロンドン留学していたので卒業が遅れてまだ家にいる。

 母親に似て、英語に興味を持っている緑里は、映像翻訳家を目指し、T北S社、グ〇ー〇ジ〇ン、〇C〇リ〇イトといった業界大手の採用試験を受けて、結果待ちだった。本人は戸田奈津子ではなく、高瀬鎮夫(たかせしずお)秘田余四郎(ひめたよしお)のような字幕翻訳家になりたいと思っている。目下の目標は、当代最高の字幕翻訳家だと緑里が評価している松浦美奈とのことだった。

 姉の緑里は、昔から順風満帆に人生を過ごしているように、千生は思っていた。常に目標を持ち、確実に叶えていく。何一つ、失敗したことがなさそうだと羨ましかった。そんな緑里に対し、千生はコンプレックスを抱いていた。それが行動の原動力にもなり、空回りの理由にもなっていた。

 「うーん。そうね…」という千生に、これはきっと訊かないな、と菜摘は直感した。効率のよさよりも、自分が得心のゆく方法で成功することに千生はこだわっている。それが巧く行くこともあれば、行かないこともある。割と依怙地な性分であった。

 「もう少し自分で頑張ってみる?」

 としか、菜摘には言えなかった。


 アイドルになることは千生の大きな夢だった。それを捨て去るからには、同等かそれ以上の新たな目標を、千生は必要とした。得られなければ我慢がならなかった。そのためには何より学力の向上が必須だったが、目下、それは叶っていない。本来、将来の夢を得るための高校生活であって、「それ以外」は不要な筈だった。「それ以外」とは、友人たちと遊ぶことや、部活や、アルバイトや、そして彼氏と付き合うことだった。

 なるほど、では「不要なこと」を斬り捨てて、学力の向上に努めればよいのだろうか? 毎日放課後すぐから塾に通い、帰宅しても深夜まで予習復習に費やせば、学力は向上し、志望大学に合格できるだろうか?

 千生にはそう思えなかった。

 千生の判断が正しかったか、今となっては分らない。徹底してそれだけのことをしていれば、或は千生は志望大学に合格し、その先の夢である弁理士資格習得も叶ったかもしれないし、或は、それだけのことをしても尚、叶わなかったかもしれない。そうするだけの決心がつかなかった過去が、ただ存在するだけの話である。

 このまま、成績が振るわない以外は楽しい日々に身を任せ、適当に受験勉強をして、偏差値にあったそれなりの大学に入るという選択肢もあった。いや、このままでは必然的にそうなってしまうだろう。

 それでもいい、とは、千生には到底思えなかった。そんな人生のために、自分はアイドルという夢を諦めたのか?


 実は千生は去る六月、中間考査が終ったことからくる解放感で、新結成されるアイドルグループのメンバーオーディションにネット応募し、書類審査で落選していた。勢いに任せた行動で、さして深い意味はなかった。

 そして五ヶ月後、二学期の中間考査が終った今、新結成されたグループが早くも派生グループを作り、そのメンバー募集を始めたことを知った。 千生は、このグルーブは自分の中間考査が終る度にオーディションを始めるのかと変な因縁を感じた。どうせ因縁ついでならと、またネット応募し、そして落選した。両回とも、応募する時も落選したときも、大した感慨はなかった。


 年が明け、二か月経って学年最後の期末考査が始まった。例によって、試験期間中の早朝には、近くのファミレスにブレザー姿の一団が見られた。メンバーの中には赤点が(かさ)んで、結果次第では進級のための追試を受けるか受けずに済むかという、どん詰まりの者もいた。毎回赤点を辛うじて回避していた千生は、そこまでの惨状ではなかったが、明日は我が身ということもある、何も油断は出来なかった。

 試験の最終日、千生は午後から啓介と半日過ごすことにした。二人は、高宮母子(おやこ)が昔よく通ったあの懐かしいカラオケボックスに行った。啓介は他の友人も誘いたがったが、千生が二人になりたいと頼んだのである。

 二人は室内に入ってコートを脱ぎ、ハンガーにかけると腰を下ろした。

 「テスト、どうだった?」

 「訊かないで」軽い鼻息と共に千生は笑いながら即答した。

 「どうするか、いよいよ覚悟を決めないといけないみたい。このままの生活を続けるのか、受験勉強に絞るのか。それとも…」

 「それとも?」

 突然深刻な話を聞かされて、啓介は面(くら)ってしまった。このままの生活って…

 「歌いましょう? せっかくカラオケに来たんだから」千生はリモコンを操作して、リクエストした。やがて前奏が流れてきた。

 「ママがよく歌ってたの。何度も何度も…。だから覚えちゃった」


  出逢った頃は こんな日が

  来るとは思わずにいた

  Making good things better

  いいえすんだこと 時を重ねただけ

  疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの


 「センセ、いきなりそれ歌う?」啓介はすこし引き気味に声をかけた。 千生は意に介さずに、

 「上手でしょ? 啓介も何か歌って」

 千生は、相手が啓介のときだけは、何の遠慮もしなくて済んだ。したいように振る舞った。いつもは啓介もそのことを楽しんでいた。千生が自分に対してわがもの顔に振る舞うことが嬉しかった。

 「参ったな…。ね、何を言いかけたの? あ、何か頼もうよ。喉乾いちゃった」

 啓介はメニューを見ながら、内線電話を手に取った。今日はどうも雰囲気が重い。まさか別れ話でも切り出されたら、どうしようと恐れていた。

 「本当に志望校に入りたいなら、生活を改めるしかないと思うの。…もちろん、本当に入りたいと思ってる。…そのために、区切りを付けたいと思う」千生は言いながらも、これはちょっと綺麗事に過ぎると思っていた。生活を改めて受験勉強に専念することから、あわよくば逃げたいという面もある。いや、面もある、ではなくて、逃げたいだけではないのか…

 「どんな区切り?」

 「最後にもう一つだけ、オーディションを受ける――」

 前年に応募して玉砕したアイドルグループの姉妹グループが、三年ぶりのオーディションを開催すると発表していた。嘗てコンサートを観て、アイドルを目指そうと思ったグループを仮想敵として結成されたアイドルグループであった。今や、本家を凌がんばかりの勢いがある。応募者はおそらく数万人になるのではないかと予想されていた。

 オーディションを受ける心構えとして、喝采を受けるという願望は出来るだけ抑えて、他人にパワーを与えたいという気持ちを大切にしたいと千生は思った。他人から受け取るだけでなく、何かを与える人になりたい、そう千生は願うようになっていた。

 「なんとなく、千生はこのまま終ってしまうような人じゃない気がしてた。やっぱり凄いよ、千生は」啓介は受話器を戻して千生に顔を向け言った。

 「莫迦(ばか)だと思ってるでしょ。まだ無理な夢にしがみついてるって」

 「それはないよ。絶対に」

 啓介は首を振った。

 「恋愛禁止のところか…。オーディションに受かったら、俺のことは切らないとね。成功したいならそうすべきなんだ。そのときは喜んで、千生を見送るよ」と少し淋しそうに笑う啓介は、何故か根拠もなく、今度の千生は合格しそうな気がしているのだった。

 「そんな、先走らないで。合格はしたいけど、出来るなんてとても思ってない…。メロンソーダお願い」

 千生は慌てて啓介の自信を打ち消そうとしたが、実際、合格した暁には彼氏とは別れなければならないのは事実だった。

 啓介は再び内線電話を取ると、メロンソーダとコーラを頼んだ。

 「今の学校生活は、やっぱりつまらない?」

 「そんなことない。とっても楽しいよ」

 ――でも、物足りないんだ。

 啓介は思った。

 夕方まで、カラオケボックスに二人でいた。


 「明日の塾は休まないか?」と明里(あさと)が声をかけたのは三月に入った或る夜、バイト帰りの千生を捕まえてのことだった。

 「パパがそんなこと言うの? いいの?」

 「いいんだよ、たまには二人でロイヤルホストに行こう」

 「大丈夫? 破産しない?」

 「経費で落とすよ。営業の接待とかにして」

 「ステキ」

 同じファミリーレストランでも、いつも友人たちと行くファミレスとは、格が違う店だった。こうして、翌日の夕方、二人はロイヤルホストにいた。窓から外の夜道が見え、信号やネオンの光が射していた。食事は終えて、二人でデザートを待っていた。

 「最近ずっと、ママやお姉ちゃんが心配してる。千生が何か、ひどく困ってるんじゃないかって。たぶん勉強のことじゃないかって」

 「心配かけてごめんなさい」

 「謝ることはないよ。…勉強が難しくなって、思うように成績が上がらないことは聞いてる。実際中学の義務教育とは違うからね。難しいのは分るよ」

 「私、このまま勉強しても、もう希望の大学には行けないと思うの…。どこかの大学には入れるし、大学では頑張って就活して、卒業したら就職もする。OLは出来ると思う。…でも…」

 「諦めるのは、ちょっと早すぎるんじゃないかな。まだ一年生だよ。受験まであと二年弱、頑張ってみれば何とかなるんじゃない?」

 「私、パパやママや、お姉ちゃんみたいに優秀じゃないよ。分かってるんだ。…もう駄目だっていう気持が先に立って、頑張れないんだ、私…。」

 「千生らしくもないね。ずいぶん弱気なことじゃないですか」明里はできるだけ冗談にしてしまおうと微笑みながら言った。

 「大学だけじゃない、このまま塾に通って勉強しても、希望の道に進めないのが分るんだ。このままだと平凡な人生しかないのが見えてるよ。…私、そういうの(いや)なんだ。だから…」弁理士になりたいということは、まだ自分ひとりの胸に秘めていた。

 「だから?」

 「だからもう一度だけ、オーディションを受けたい。今度で最後。それで駄目ならもう諦める。自分に鞭打って受験勉強する」

 明里は何となく、この千生の答えを予測していたような気がした。やっぱり諦めきれていなかったのか…。

 「アイドルになりたいの? そんなになりたいの? その道には何があるの? 平凡な人生にない、何があるの? パパに聞かせてくれないかな」

 「アイドルになったら、みんなに夢を見せてあげられる。楽しい気分になってもらって、一時でも普段の嫌なことを忘れてもらえる。みんなの役に立てるの。私、そんな存在になりたい。なるんだ――」

 明里は色々と千生に言いたいことがあった、問い(ただ)したいこともあった。非凡な存在になることは、それほどに価値を見出すようなことなのか。非凡であることはそんなに偉いものなのか。若い頃はそう思いがちなものではないのか。…

 しかし何も反論めいたことは言わなかったし、問い返すこともしなかった。千生は若いのだ。若い者が、若い者にありがちな考えを信じているだけなのだ。それを潰して何になるだろうか?

 自分は非凡な存在ではない。中小零細まで含めれば、社長の肩書を持つ者など星の数ほどこの国にはいる。妻の菜摘は、現在大学院の博士課程に通う菜摘は、もうじき学位を取ってどこかの大学で教える身になるかもしれない。そうなれば非凡だろうか? 多分世間はそう思うだろう。そしてじきに学術書を出版したり、或は一般向けの入門書でも書いて売れたりするかもしれない。しかしそれ以前に、講師の口があるかどうか分らないから、そのまま博士号を持つ人で終るかもしれない。それでも、非凡な主婦ではあるのだろうか。…

 そうだ、若い頃の自分たち二人はどうだったろうか? 今の千生くらいの頃の自分たちは。非凡な存在に憧れていただろうか?

 「パパにはどんな夢があったの?」

 千生が不意に問う。

 「いつだったか、緑里と二人で、どうしてうちにはお爺ちゃんお婆ちゃんの家がないのって訊いたことがあったね。…そのときは、パパとママどちらのお爺ちゃんお婆ちゃんも死んでしまったんだよ、それにどちらもひとりっ子で兄弟はいないんだよって言ったね」

 「うん」

 「里帰りできない代わりに、毎年旅行に行ったけど、埋め合わせは出来ていたかな? やっぱり、お爺ちゃんやお婆ちゃんが欲しかった?」

 「どうかな…。最初からいなかったから、別に淋しいことはなかったよ。里帰りのことも、話に聞くだけでよく分らないし、旅行と何が違うのか比べようがないもん」

 「…本当は生きてるよ。…パパの方も、ママの方も。…兄弟もいる…」

 「うん。何となく知ってた。ときどき変な電話があったり、郵便が来たりしてたし…。戦争でもないのに、全滅してるなんておかしいもん。親戚のひとりもどっちにもいないとか有り得ないし」 

 「そうか。分るよな、やっぱり…」

 こんなあからさまな嘘に、今まで騙されたふりをし続けてくれた娘たちに、この夫婦は感謝すべきであった。

 「パパが千生の齢の頃は、放課後、高校の図書館にママと二人で(こも)って、ひたすら勉強してたよ。東京の大学に行って、ここから出て行くんだって、そのことだけを考えていた。自分たちの家もあの土地も、何もかもにうんざりしてたんだ。憎んでいたし、怨んでもいた。生まれてずっと、あそこに暮して、もう息が詰って死にそうだったんだよ。棲み続けていたら本当に死んでいたかもしれない。出て行けると思ったら、何でも我慢できると思った。…千生も緑里も、あんな所とは一生関わらずに済むなら、こんなにいいことはないからと思って、ママと二人で相談して、嘘をついたんだ。…パパの夢はね、ママと一緒にあの町を出て、東京に出ることだった。そして、家庭を持って、楽しく暮すことだった。だから今が一番幸せだよ。夢はちゃんと叶えたよ。これからもその夢が続くために頑張るよ」

 「私と同じだったのね。パパもママも…」

 小学生の頃、逃げ場を求めていた自分を千生は思い出した。父母も自分と同じように、現実から逃避したいと願っていたのだ。その事実だけで、父母の故郷で何があったのか、そんなことはもうどうでもよかった。

 「いつか詳しく話してね。今じゃなくていいから」

 「今はいいのかい?」

 千生は頷くと、(すが)るような眼を向けて明里に訴えた。

 「パパ、私、高校や大学で勉強するよりアイドルの方が楽だなんて思ってる訳じゃないよ。信じて」

 「大丈夫だよ。パパだって、勤め人より会社を経営する方が楽だと思って会社を飛び出した訳じゃないんだから」

 明里も、売れっ子の芸能人の殺人的なスケジュールに関しては、聞きかじった程度の知識は持っていた。千生が売れっ子のアイドルになれるかどうかは、また別の問題ではあるが。それにしても、親子とはやることまでもが、かくも似通ってしまうものだろうか。

 「本当に、今は何をどうすればいいのか、正しいことなんてないよね。昔は単純だったんだ、いい大学に行って、いい会社に入るのがいいなんて何とかのひとつ覚えのように言われてた。親も、学校も、テレビもね。…今ではその昔の超一流企業が次々没落して、昔はバカにされていた公務員が意味もなく叩かれるくらい羨ましがられているんだからね。全く、先のことなんか分りゃしない。…芸能界に入って活躍するってのは、案外いい選択かも知れないな…いや、成功するとかしないとかじゃない、人はしたいことをすべきなんだよ。五年前の震災でいやになるほど感じたんだ。…阪神淡路の時も怖かった。けど、東日本大震災の時はもっと怖かった。自分の大切なものが、大切な人が、不意に、一瞬のうちに全部なくなってしまう。自分も死んでしまう。それまでの生活、一生が消えてしまう。そんなことがいつ起ってもおかしくない。もう明日、いや、この瞬間でも、今いるこの土台ごと引っ繰り返って、どうなるかもしれない。それだったら、人はやりたいことがあれば躊躇うべきじゃないんだ。…改めてそう思うようになったよ」

 千生も怖かった。テレビのニュースで繰り返し見せられた、押し寄せる洪水、押し流される家並み。水素爆発する福島原発の建屋(たてや)

 起きている事実が怖かった。いつ自分たちの身に降りかかるかもしれないと想像することも怖かった。

 「一応、訊いておくよ。今度のオーディションがもし巧くいかなかったら、受験勉強に専念するんだね?」

 「うん。約束する」


「そういうことだから、今度のオーディションが終るまでは千生を(ほう)っておいてもらえないかな。早ければ七月いっぱいくらいに結果は出る。最終まで残れれば九月になる。それまで少し上の空になるかもしれないけど、毎日オーディションで潰れる訳じゃない。そこまで影響はないと思うんだ。ダメだったら、今度こそ受験勉強に邁進(まいしん)するって言質(げんち)は取ったから」

 ロイヤルホストから戻った明里は、待っていた菜摘に千生の決心を聞かせた。

 「ね、明里はどうして私を勝手に教育ママみたいに言うの? 娘相手に言質を取ったってどういうことなの? 自分一人が親みたいなこと言わないで。抛ってなんておかない。応援するよ。親が自分の子供を信じなかったら、誰が信じてくれるの」

 「菜摘…。ありがとう…」

 「あなたが礼を言うことじゃないでしょ。そういうとこだぞ、明里」

 「千生の奴ね、初めて『他人を幸せな気分にしたい』って言ったんだ。これまでは自分が喝采を浴びることばかり考えていた千生がね」


 二〇一六年、現在十六歳、今年十七歳になる少女の、目下最大の悩みは、如何(いか)にして本命のオーディションの一次書類審査を突破するかということだった。――


 千生にとって鬼門である一次書類選考を、どうやったらクリアできるだろうかと、明里は我がことのように頭を悩ませた。

 昨年、二つのオーディションを受け、書類審査で門前払いを(くら)ったことは千生から聞いていた。書類が通らないというのは、一体どういうことなのか? 写真が悪いのか? 自己アピールに問題があるのか? 美人で可憐で文章力にも長けた愛娘が、書類で落ちるとは全く信じがたいことだった。しかし幾ら悩んでみても判らない。思い余って菜摘に相談を持ちかけた。母親の目を通してなら、何かが分るかも知れない。

 しかし、菜摘は予想の斜め上をいくことを口にした。

 「うーん…。困ったね、それは…。いっそ、書類審査がなくて、二次のオーディションから始まるんだったらいいのに、高校野球のシードみたいにね」

 シードか…。そんなもの、ある訳がないじゃないか…


 しかし、明里が募集サイトや関連情報をネットでよく調べてみると、あったのである。そのものズバリ、シードが。一次書類選考の免除が特典になるセミナーが。

 セミナーの出席者全員が免除という訳ではなく、一会場につき数名ということだったが、ともかくその場で上手に自己アピールできれば、脈はある。開催は四月、応募締め切りは三月だった。一般募集よりも、四か月も早かった。

 締め切りまであまり間がないので、明里は慌てて関係するサイトをいくつかカラーでプリントアウトした。そして自室にいた緑里に声をかけ、自分が発見したことにして千生に教えてやってくれと伝えた。

 緑里は素直に父親の言いつけを聞き、千生の部屋のドアをノックした。入室して、机に向って何やら作業中の千生を見ると、千生はラップトップを開いて既にセミナーの申込に入力を始めていた。

 緑里の方を振り返った千生は、手にしたカラー印刷の紙の束に目をやって、驚いた。

 「お姉ちゃん…」

 「パパよ」

 緑里は顔を横に振った。

 「内緒だって言われたけど、パパが調べてくれたのよ」

 千生の目に涙が滲んだ。

 ”You'll see so many things.”

 ロンドン訛りの英語で緑里が言った。

 「『刑事ジョンブック目撃者』の台詞よ。戸田奈津子は『驚くことばかりだぞ』って字幕にしたの。知ってるかもしれないけど、芸能界ってそういうところ。再デビュー、叶うことを祈ってるよ」


 千生から一次書類選考の免除を知らされた明里は、これでもう娘の合格は決ったと確信した。最終選考は四次面接まであり、九月にかけてオーディションがまだまだ続くことは調査済みだったが、明里は(ごう)も、今後の結果を心配していなかった。

 きっと千生は自分の道を掴める。――

 明里は瞑目して安堵の息をもらした。

 菜摘はそんな明里を優しく見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ