まるで心を爪弾かれたみたいな
「あぁ……まあ君は遊び方を知らなかったかもしれないが、こういうのは紳士の嗜みの一つだぜ?」
ため息を噛み殺し、穏やかな表情を貫く。あからさまな挑発に、軽率に噛み付いたりしない婚約者に感心していたから、彼を見習って私も黙っていた。
どこにでもいるのだ、こういう人種は。
恨みがあるのか、はたまた単なる妬みなのかは知らない。けれどこうして、仮にも婚約者がいる前で彼を貶めようだなんて根性に腹が立つ。
「私は実際、まだまだ遊び足りないね。ほら、大変だろう? お互い、誘いを断るという立場もさ」
「……ふふ」
何かを履き違えたような言葉に、思わず忍び笑いを漏らしてしまった。顔を上げれば、大の男二人がきょとんと目を丸くして私を見つめている。
聞こえてしまったか。いや、それならそれで都合が良い。そろそろご退場願いたいと思っていたのだから。
シオンを自分と同類のように扱うのも、私の存在を無視し続けることで彼を取り巻くものを軽んじられるのも限界だ。
心の中で夫となる人に謝罪する。
貴方はここまで我慢してくれたのに、私が台無しにしてしまう。お叱りなら後で受けますと、目の前の男を見据えた。
「っ、いかが致しましたか? アルヴァレズ嬢」
「いえ……ハンフリー侯爵は、ずいぶんとシオン様のことがお好きなようですので」
「……っ!」
カッと朱に染まる美丈夫の顔は、なんと言うか、実に見応えがあった。
自分には嗜虐嗜好があったのだろうか。そうでないと思いたいけれど。
「そろそろ返してくださいませね?」
「と、当然だっ!」
くるりと踵を返し、逃げ去っていく後ろ姿に内心舌を出した。小さな子どもに意地悪をしてしまったように錯覚したが、無論彼は大人である。
ふと黙ったままだった婚約者を見上げれば、アクアマリンの瞳が何やら見たことのない煌めきを湛えてこちらに向けられていた。
「シオン様……?」
「……き、来てくれ」
「あっ」
腕を引かれ、大股で歩き始めたシオンに引き摺られるように歩く。
そんなにも気分を害してしまっただろうか。それとも、華々しい彼の評判に傷が付くことを恐れているとか?
そのどちらでも落胆してしまうのは、私のわがままなのだろう。
人気のないバルコニーまで連れて来られたところで、彼はようやく手を離した。
「ラナン、どうしてあのような真似を?」
「……差し出がましいこととは、承知しております」
やはり怒らせてしまったのか。覚悟はしていたけれど、やはり少し切ない。
初めての晩餐で少しだけ触れた彼の内面に、過剰な期待をしてしまったようだ。
身の程を弁えていなかった、私の失態だ。
「そうではなく……」
何事かを言い淀むシオンを見上げる。その唇は、怒りや不快感で引き結ばれているのではなく……笑いを堪えているようだった。
「私でもあそこまで見事に追い返せたことはないのに、どうやってあのような口撃を思い付いたのです? まるで魔法のようでした……しばらく同じ手が使えそうですね」
「は、ぁ……」
今度は私がきょとんとする番だった。子どものようにキャッキャッとはしゃぐシオンの様子は、あの日の晩餐で垣間見た顔そのままだ。
少しだけ跳ねた胸の奥を、押し隠すように手を当てる。
戸惑う私に気が付いた彼は、こほんと咳払いをしてから微笑んだ。
「実は……私はあの方が嫌いなのです」
「あら、初めて知りました」
何食わぬ顔でそう言ってみれば、彼はますます破顔する。
可愛い顔だ。まるで懐いた犬のようだ、なんて……ものすごく失礼だけれど。
「この話はご内密に」
「ええ、もちろん」
公爵様の秘密ですもの、と微笑む。すると、彼の方ももったいぶったような面持ちで頷いて見せてくれた。
数秒ののち、どちらともなくクスクスと笑い始める。
「貴女は……私の飛び道具のような方ですね」
「……? どういう……」
不思議な言葉への疑問は、広間から流れ出した軽やかな音楽に遮られた。悪戯っぽい笑みを浮かべたままの彼が、恭しく差し出す。
「一曲、踊っていただけますか?」
「はい、喜んで」
気分は共犯者だ。調理場から果物を盗み出したような、誰にもバレずにお菓子を頬張ったような感覚。
この気持ちを共有できていたら素敵だと、喜んで目の前の人の手を取った。