春の微笑み
差し出した手に、彼女の白い手が触れる。力を込めれば壊れてしまいそうだと、恐る恐る握り込んだ。
真新しいアップルグリーンのドレスを纏った少女が薄く微笑む。その姿が春の草原のようだと思った。
長い髪は舞い散る花びらで、燦めく銀のティアラは草木が芽吹く様を。赤い目と唇は果実のように、瑞々しい光を湛えている。
世辞でなく、春の女神と見紛うほどだ。
「シオン?」
甘い声で名を呼ばれただけで、胸の内が痺れそうになる。
気を取り直した頃には、すでに広間に到着していた。
(しっかりしろ、ランドルフ……らしくないぞ)
今日一番大変なのは、私の婚約者としてここに来ている彼女なのだ。
噂はとっくに出回っている。私が浮ついたままでいれば、ラナンを困らせてしまうだろう。
「ランドルフ公爵、ぜひ隣の女性を紹介していただいても?」
「あ、ええ、こちらは私の婚約者の……」
「ラナンキュラス・アルヴァレズですわ」
さっそく話しかけてきたのは、噂好きの奥様を持つペーター子爵だった。妻にせっつかれて来たのだろう、気苦労が窺える。
しかしペーター夫人に気に入られることができれば、話が早いのも事実。
「アリエル、君が話したがったんじゃないか」
「あら、そうだったかしら」
噂好きの貴婦人は、ラナンキュラスの頭のてっぺんからつま先までをサッと眺め、全てを押し隠して微笑んだ。ハラハラしながら見つめていれば、ラナンもにこりと微笑みを返す。
ひとまずは合格、と言ったところなのだろう。全く肝が冷える。
満足した様子のペーター夫人が、旦那を引き連れて行くのを見送ったのち、さぞ緊張しただろうと婚約者を振り返った。
「しばらくこれが続きますが、辛くなったらすぐに言ってください」
「大丈夫です、覚悟してましたから」
彼女は自分のすべきことを知っている。迷いのない瞳に頷き、その頬に纏わり付いた少量の髪を払って耳にかけてあげた。
驚いたように目を見開いたラナンは、戸惑いつつも礼を言う。どういたしましてと笑って見せれば、白い頬に少しばかりの赤みが刺した。
距離感を違えたかと不安になる間もなく、次から次へと誰かしらが挨拶に来る。それでも彼女は婚約者として、十分尊敬に足る振る舞いをしてくれた。
ホッと一息吐きかけた頃、新たな人影が現れる。
「やあランドルフ、君も来ていたのかい?」
「ハンフリー侯爵……ええ、まあ」
私の返答に歯切れの悪さを感じたのだろう、ラナンが不思議そうにこちらを見ている。
……コリン・ハンフリー。若くして侯爵家の当主となったこの男は、何かにつけて私を目の敵にしてくる人物だ。
その一つ一つは取るに足らないが、今はラナンと共にいる。
彼女に不愉快な思いをさせたくはない。しかし何もされていないのに突っぱねるような態度を取っては、返ってこちらが不利益を被るだけだ。
(参ったな……)
彼はしばらく会話を楽しむつもりらしい。
あろうことかラナンに向き直り、キザったらしい笑みを浮かべた。
「初めまして、婚約者殿と……思っていいのですか?」
「ええ、ラナンキュラスと申します」
愛想笑いでさえも、人に向けられる分が惜しい。
こちらを向かないものかとチラチラ視線を送ってみたが、魅惑的な赤色は侯爵に向けられたままだった。
肩に付くくらいの髪を後ろに束ねたコリンの出で立ちに、魅力を感じているのだろうか。
私も同じように髪を括れば……いや、関係ないか。
「今まで浮いた話一つなかった君がねぇ……身を固めるのはなんとも気の早いことだ」
「ははは」
今日はそういう切り口できたか。
彼は手を替え品を替え、こちらに突っかかる理由を披露してくれる。
あからさまに迷惑そうな顔をしたらどうなるのだろう。一度くらい試してみたいけれど、彼女の前ではできないな。
「あぁ……まあ君は遊び方を知らなかったかもしれないが、こういうのは紳士の嗜みの一つだぜ?」
「そうですか」
ちらりと隣の少女に目を向ける。
元から表情の読めない赤い瞳は、今も凪いだままに見えた。
言い返すこともできない、情けない男だと思っているだろうか。それとも、出会って間もない婚約者のことなどどうでもいいと静観している?
そのどちらでも寂しいと感じてしまうのは、私が女々しいだけなのか。
「私は実際、まだまだ遊び足りないね。ほら、大変だろう? お互い、誘いを断るという立場もさ」
「はは……」
いつにも増してしつこいな。そんな言葉が口をついて出そうなのを、必死に押し留めている。
ラナンの前で猫を被っていたツケか、嫌味の応酬にすら戸惑う日がくるなんて。彼女が自分にとっての弱みだと痛感した。
「……ふふっ」
うんざりする私とすこぶる上機嫌なコリンの耳に、鈴の音のような笑い声が聞こえてくる。聞き間違いなどではない、はっきりとしたそれに、目の前の男の顔色が変わった。
仲良く首を回して、先ほどから大人しくしていた少女を見やる。
二つの瞳を一瞬にして釘付けにしたラナンは、物怖じすることなく柔らかな微笑みを浮かべた。