ペトラ
ダイニングや図書室など、主に利用するであろう施設を巡っただけで、私は完全にくたびれてしまった。
何せこの屋敷は広いのだ。端から端まで全力疾走してみれば、きっといい運動になるであろうほどに。
「初めまして奥様。侍女を任されました、ペトラです」
「よろしくね、ペトラ」
おっとりした雰囲気を纏った女性は、三つ編みにした栗色の髪を揺らして微笑んだ。奥様なんて気が早いのではと思わなくもないが、わざわざ野暮な指摘をするまでもないと判断する。
私室として与えられた部屋は、以前私が使っていた伯爵邸の自室の倍くらいの広さがあった。柔らかなソファに持たれて気疲れを押し隠していた私に、ペトラは穏やかな表情をさらに和らげる。
「夕食には早い時間ですので、湯浴みはいかがですか? 移動で肩も凝っているでしょうし」
「……ええ、お願いするわ」
私が頷いた途端、彼女は側に控えていたメイド達に目配せをする。入浴の準備にせかせかと動く様子を眺めつつ、出された紅茶を一口啜った。
正直かなりありがたい提案だ。疲れていたのもそうだし、ドレスも着替えたかったから。もしそれを察してくれたのだとしたら、ペトラはものすごく有能だと思うのだけれど。
「あら、シオンかしら」
コンコン、と扉を叩く音が部屋に響く。立ち上がりかけたものの、優秀な侍女がいち早く扉に駆け寄った。開けてもいいかと問われ、もちろんと頷く。
姿を現したのは、予想通り婚約者の彼だった。
「ラナン、話が……」
書類に目を落としながら入ってきた彼の側まで歩き、そっと手元を覗き込もうとする。しかし顔を上げたシオンは、思いの外近くにいた私に驚いたように目を丸くした。
一歩、二歩と後退り、気を取り直して咳払いをする。
「今、いいですか?」
「ええと……湯浴みの後にしていただけると、助かります」
「湯浴み?」
きょとんとした表情が少し愛らしく思えた。彼は部屋に用意された浴槽に目を留めて、それから私に視線を戻す。数秒ののち、その頬に赤みが刺した。
「っ……出直します」
「申し訳ありません、シオン」
気分を害しただろうかと不安になるも、シオンは何やら慌てて部屋から出て行ってしまう。バタンと閉じた扉を見つめながら、一体何の用事だったかと首を傾げた。
そんな私たちを見てクスクス笑っていたペトラは、今は何事もなかった風に振る舞っている。
「準備ができましたわ、お召し物を……」
「ええ、ありがとう」
考えてもわからないからと、思考を一旦置いておく。衝立の向こう側の浴槽に近付き、一昨年流行した布地を使ったドレスをメイドたちに脱がせてもらった。
肩までお湯に浸かれば、張っていた気が緩んでいくのを感じる。
「夕食にはどのドレスで向かいますか? めぼしいものをいくつか選んでおきましたので、お選びください」
「そうね……」
心地よい肩の指圧に、重たくなってきた目蓋をこじ開ける。至れり尽くせりとはこのことか、目の前にはいくつかのドレスが用意されていた。
さすが公爵邸……おもてなしの域も、その辺の貴族を軽く凌駕している。
「この中に気に入るものがなければ、申し付けていただければ……」
「いいえ、あの黄色のドレスにするわ」
くたびれた様子もない、どれも新品のようだ。一番右のトルソーが着ていた、花びらのような質感のそれを指差し、お湯の中で再び息を吐いた。
室内にいるペトラと五人のメイドは、それぞれの業務に勤しんでいる。
両の手の爪を磨いてくれている子が二人。私が選んだ以外のドレスを片付ける子が二人。タオルなどを用意している子が一人。そしてカチコチだった肩をほぐし終えたペトラは、頭皮のマッサージに移っていた。
伯爵家にもそれなりに召使いはいたけれど、湯浴みを手伝ってくれる人員に六名を割けるほどではない。全員の顔と名前を覚えられるのは、一体いつになるだろう。
「髪型はどうしましょう?」
「うーん……」
夕食を取るだけとは言え、婚約者との時間には変わりない。しっかりと粧し込んで行くべきだと、彼女はわかっているみたいだ。
しかしシオンの情報がいささか不足しているため、髪型一つでも考えあぐねてしまう。
「三つ編みはいかがです?」
手助けのようなペトラの提案に頷いた。ちょうど左右の爪のケアも終わったと、お湯を揺らさないようにそっと立ち上がる。受け取ったタオルを身体に巻き付けて、マットの上に足を降ろした。
選んだドレスを身に付け、ドレッサーの前に腰掛ける。少しだけサイズが大きかったみたいだけれど、ブローチで余った布を留めれば腰回りのシルエットは改善された。
「奥様のお髪は、明るい色のドレスに映えますね」
鏡越しにペトラの黄緑色の瞳と目が合った。くすんだ髪色だと思っていたけれど、そう言ってもらえるなら素直に喜んでおこうと思う。
ありがとうと礼を言えば、にこりと微笑んだペトラは大きな三つ編みに赤いリボンを編み込んでくれた。
「お綺麗ですよ」
惰性で伸ばしていた髪が纏められて、すっきりした印象になった。身体を揺すれば、動物の尻尾のように髪の束が跳ねる。
久しぶりのおめかしに高揚して、自然と頬が緩む。鏡の中の自分が嬉しそうな顔をしているのが、ちょっぴり恥ずかしかった。
「ふふ、お揃いね」
唐突に軽口を叩いた私に、ペトラは一瞬驚いたような表情を浮かべる。自分の髪型とお揃いだと言われているのだと気付いた彼女は、少しはにかみながら笑った。