ある執事の憂鬱
「坊っちゃま……」
軽く声をかけただけで、その肩はビクッと跳ね上がった。向けられる期待に満ちた視線に、申し訳なさが募っていく。
「少しお座りになっては? 今朝からずっと窓辺に……」
「いや、平気だ……と言うか、彼女が来たらもう坊っちゃま呼びはやめてくれ」
健気な願いを承諾しつつ、未だに窓の側から貼り付いて離れない主人に眉尻を下げる。完全無欠で通っている彼は、何か楽しみなことがある日の前夜は眠れないタイプなのだ。
(いじらしい……)
昨日の朝からそわそわしていた彼が、まさか今日の昼までそわそわしっぱなしでいるとは、さしもの私も想像できなかった。
部屋から出ては意味もなく廊下を彷徨い歩き、椅子に座っては忙しなくかかとを鳴らし続ける。そんな主人の様子に怯えるメイドを宥め、心配する庭師に首を振り、呆れるコックと一緒になってため息を吐いたものだ。
そんなこちらの気苦労も露知らず、窓の外を見つめ続けていたシオンが何かを指差す。
「爺、あれじゃないか?」
「似てはいますが、紋章が違います」
「そうか……」
近くを通りがかった馬車を、伯爵令嬢のものと勘違いしたようだ。それではないことを告げると、彼はあからさまに肩を落とす。
主人の落ち着きのなさは、屋敷全体に伝播するものだ。願わくば、彼の婚約者のお早いご到着を……。
「爺、あれは? あれこそ彼女の馬車ではないか?」
「そのようですな、お出迎えを……」
ビュンッ、と風を切る音と共に、目の前にいたはずの主人が忽然と姿を消した。どうにかして自らの困惑を飲み込み、走り出したシオンの後を追う。
先祖代々ランドルフの一族に仕えてきたが、この家の男たちは皆ああなのか。一族に伝わる愛情深さは、同時に弱みにもなると知っているから、複雑な心境ではある。
ラナンキュラス・アルヴァレズ……一体どのような人物なのだろう。もし彼の優しさを利用するような悪党であれば、それ相応の対策が必要だ。そうでなければそれでいい、彼女も自分の主人であると認め、二人に忠誠を誓おう。
(時間通り、か)
懐中時計を取り出し、到着予定時刻と五分も差がないことを確認する。ひとまずはおもてなしが最優先だと、主人に追い付いてその跳ねた前髪を撫で付けた。