第2章 第間話 夜想曲・大人の話
「かんぱーいっ」
時間は花美高校と紗茎学園反逆者連合の練習試合を行った日の夜。紗茎学園女子バレーボール部の監督である近田治由は高らかにグラスを掲げた。
「かんぱーい……」
明らかに戸惑った様子でそのグラスに自身のものをかち合わせたのは、近田の教え子にあたる、練習試合の際に花美高校の引率を行った桜庭大学二年生、小内未来。
練習試合自体は体育館を破損させたことで午前中に終わったが、紗茎のOGである彼女はその後一軍の練習を観させられ、その後近田に誘われ二人でお酒を飲みに来たのだ。だが小内は思う。
「何であーしのバイト先なんすか……」
近田が指定したのは紗茎学園から電車で三十分もかかる、小内のバイト先である喫茶花美。紗茎の方が居酒屋の数は多いし、そもそもここは喫茶店でお酒の提供は基本的にしていない。一応夜に未成年の客がいない時はスナックとして運営しているのだが、それを近田が知っているとは思えない。客は自分たち以外にいなかったので普通にお酒を頼んだが、疑問は尽きなかった。
「ちょっと待ち合わせしてるんだ」
小内の当たり前の疑問に大ジョッキのビールを一気飲みした近田が答える。
「すいません、同じのもう一つお願いします」
それを見た小内はすぐに喫茶花美の店長にそう頼む。雇い主に注文するのははばかられたが、店長よりも近田の方がよっぽど怖いため躊躇はなかった。
それにしても……。小ジョッキに入ったビールを少し口に含みながら小内は思う。
どうして近田監督はあーしなんかを飲みに誘ったんだろう。中高とずっと二軍だった小内は主に一軍を見ていた近田とほとんど接点はない。当然話した経験もほとんどないし、覚えられていないと思っていたほどだ。
ていうかあーしビール嫌いなんだよね……。四月に二十歳になったばかりで、飲酒経験すらほとんどない小内はビール独特の苦みに苦しみながらもチビチビとグラスの中身を減らそうとする。
一気に飲むと酔いが回りやすくなるので避けたかったが、それ以上にずっとビールを飲むというのが苦痛だった。早く甘いカクテルを飲みたい。
「お、きたきた」
ただ無心でビールを睨んでいた小内の耳に近田の声が届いた。それと同時に扉に付けられた鈴が鳴り、店内に客が入ってくることがわかった。
「いらっしゃいませー」
店員という立場でもある小内は条件反射でそう言ってしまった。もし人数が多かったら自分も手伝おうと思っていると、客が自分のテーブルに近づいてきたのがわかった。何事かと見てみると、思わず飛び上がってしまった。
「徳永さんっ!?」
「や、未来ちゃん」
そこにいたのは小内の大学の先輩にあたる徳永桃子。花美高校女子バレーボール部の顧問でもある人間だ。
「なんでここに……」
「私が呼んだ」
小内の疑問に答えたのは近田。そして立ち上がると徳永に手を差し出した。
「はじめまして。紗茎学園女子バレーボール部監督の近田です。本日はわざわざありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ練習試合をしていただいて感謝しています」
何やら滞りなく悪手を交わす二人。だが小内はそんなことより徳永の一言が気になっていた。
「……何で今日練習試合してたこと知ってるんすか……?」
今回双蜂天音が練習試合の存在を秘密にしてほしいということで、徳永には内緒で代わりに小内が引率をしたのだ。なのに話が違うではないか。
「大人は子どもの考えてることくらいだいたいわかってるんだよ」
理由になってない理由を答えながら近田は席に戻る。徳永もそれに倣って小内の隣に座った。
「はい生二つ。一つは桃の分ね」
「はいはいありがどね天」
疑問が一つ増えたと思ったらさらなる疑問が小内を襲った。店長がビールを持ってきたかと思ったら、すごい慣れ慣れしく徳永に話しかけたのだ。
「あの、とりあえず一から説明してもらっていいですか?」
これ以上考えるのは無理だと判断した小内はギブアップとばかりに徳永に助けを求める。
「その前に乾杯が先だ。今日も一日おつかれさまでしたかんぱーいっ!」
「かんぱーいっ!」
「かんぱい……」
グラスを勢いよくぶつけ合い、勢いよくビールを飲み干す二人。それをわかっていたかのように店長はおかわりのビールを持ってくる。しかも今度は三つも。
「かんぱーいっ」
「「かんぱーいっ」」
店長も加わりさらに一気飲み。この中で一番立場が低い小内が新しいビールを三つ持ってくる。
「一からもなにも、仕組みは単純。おらとこの店の店長……長野天は同棲してるんだ」
煙草に火を点け、驚愕の事実を口にする徳永。
「で、練習試合のこと聞いたから先方に迷惑がかからないようご挨拶をした。そんで今日がその打ち上げだ」
なるほどつまりここで練習試合のことを話したのが運の尽きというわけか。「これ秘密ね」、と言い店長が笑う。
「ていうか未来ちゃんやっぱり気づかないんだね。私、桃のバンドのギターだよ」
どんどん新事実が発覚し、既に酒が回っている小内の頭がくらくらしてきた。確かにそれならマイナーバンドのCDを持っていた理由も説明がつく。
「先生バンドをなさってたんですか。失礼かもしれませんが、イメージが湧かない」
「よく言われます。天、流してけろ」
「はいはい」
徳永に促されて店長が席を立つ。本来なら先んじて小内が向かうべきだが、周りのペースに合わせようと少し早くアルコールを流し込んだせいですっかりグロッキーになってしまっていた。
「お、ロックですか」
閑静な喫茶店に激しいギター音が鳴り響く。ハイペースで叩かれるドラムの音につられて近田の飲むペースも早くなってくる。
「音楽はいいですよ。様々な時代、国、価値観の人たちが思い思いの感情を音に乗せる。そこに正しい間違いなんてつまらない理屈は存在しない。短い時間にその人の全てがこもっていて、まるで作曲者の青春を追想しているかのように思わせてくれるんです」
曲に合わせてエアーで楽器をかき鳴らしながら陶酔しきった表情で徳永は語る。ちなみに徳永の担当はベース&ボーカル。楽器で支え、口で周りを引っ張っていくのが役目だ。
「――あなたのような人に水空を預けられてよかった」
店長が戻ってくるのとほぼ同じタイミングで近田がぽつりと漏らす。
「勝つためのバレーしか教えられない私じゃ水空の長所を引き出せなかった。今後のバレー界にとっては大きな損失かもしれませんが……徳永先生のような価値観を持った指導者の方があの子のためになるでしょう」
そう言うと近田は一気にビールを飲み干す。そして店長に日本酒を頼むと煙草に火を点けた。
「あの子の性格はわかってたんですが……一人一人に合わせた指導をするにはまだ経験が足りなすぎた」
今日初めて会った徳永には近田の指導法を知る由もないが、元プロという話は聞いていたのである程度の事情を察することができた。年齢的に監督になったのはちょうど環奈が入学してきた辺りだろう。ずっと第一線で戦ってきて、強豪校の監督になった。だったら勝つための指導以外の道はない。それが単純に環奈と合わなかったのだろう。
厳しくするだけが指導ではない。でも思春期の子どもを教育するには多少の厳格さも必要だ。それに楽しいことだけしたいという環奈の性格的に、やりたいことだけやらせたらどんどんわがままになるに違いない。欲を真面目という鎧で覆っている今のちょうどいい環奈に至ったのは、紗茎での経験があってこそだ。そういう意味では近田は正しい指導をしていたと徳永は思っていた。
「おらはなんにもしてねぇですよ。子どもはちょっとした環境の変化で大きく変わるものです。きっとうちじゃなくても、もしくは少し休ませてあげたらきっとあの子は救われてたはずです」
徳永の脳裏に浮かんだのは、部活を辞めると言い出した梨々花の元にやってきた環奈の顔。汗だくで、必死で、生き生きとした表情。きっと環奈を変えたのは梨々花なのだろう。
でも必ずしも梨々花という存在が必要だったのかというと、徳永はそうは思っていなかった。ただ別の価値観に出会えたのが花美で、近い実力でポジション争いをしたのが梨々花というだけのこと。
運命は必ずしも決まっているわけではない。今この瞬間こそが最高だと思っていても、別の道を選んでいたらきっとそこでも最高だと思っていたはずだ。人間関係なんて、人生なんてそんなものだ。
「あとは新世……。あいつはいつでも一生懸命な奴です。少し周りから浮いてしまうかもしれませんが、何とかサポートしてあげてください」
「わかってます」
徳永にとってまだ珠緒は未知の部分も多いが、いい子なのはよくわかっている。そう短く答えると、ビールを一気に煽った。
「小内も最後のあれ、よかったぞ。正しいことを正しいと言うなんて私にはできない。いや、私だけじゃない。当たり前のことを当たり前だなんて言える大人がどれだけいるか」
アルコールを浴びてすっかりハイになった近田は珍しくベタ褒めをするが、その声は届いていなかった。アルコールを浴びすぎてグロッキーになっていたのだ。小内はテーブルに顔を突っ伏して呂律の回っていない声でこう言った。
「――何でバンド、諦めたんですか?」
そんな小内が口に出した言葉は、バレーとはまったく関係のないもの。深く考えることができなくなり、自身にとって最も大事な想いが溢れ出てきた。
「あんなすごいバンドだったのに田舎の高校の先生としがない喫茶店の店主止まりだなんて……もったいないです」
そう漏らし、とても失礼なことを言ってしまったと後悔する小内。だが徳永はふーっと煙を吐くと、何事もなかったかのように笑う。
「別に諦めたわけじゃねぇ。公務員だから金はもらえないけど時々ライブに参加させてもらったりしてるし、お金貯めたらまた本気でプロを目指すつもりだ」
「だから同棲してるんだよね」
店長も煙草を吸い、楽し気に笑う。その気持ちは小内には理解できなかった。
「じゃあ教師は本気じゃないんですか?」
その時の小内の脳内にあったのは、今が全てと言わんばかりにボールを追う高校生たちの姿。そして、嫌々ながらも青春の全てをバレーに捧げた過去の自分。
彼女たちの姿を思うと、徳永の発言を受け入れることはできなかった。
「――何事も0か十じゃねぇ」
でも徳永の瞳は光り輝いていた。
「バンドだって本気だったし、教師だって本気だ。本気であの子たちのために動いてるつもりだよ」
やっぱりわからない。酔いが回った小内はそれしか思えない。
「未来ちゃんはまだわけぇんだ。その内わかる時がくるべ」
「お、ぐさってくるなぁ」
今年三十歳になった近田の発言に三人が笑う。
でも小内は笑えない。
「――その内じゃ、嫌なんです」
自分の性格はよくわかっている。
ミーハーで、飽きっぽい。その内なんて言われてもどうせ一週間もすればどうでもよくなっているだろう。
だから今。
今、知りたいと思った。
大人たちが偉そうにその内わかると言っていることを、大人になってしまった自分が誰よりも早く理解したい。
そうすれば、過去の自分が正しかったか。
なぜ最後のプレーで思わず叫んでしまったのか。
全部、わかる気がするから。
だから小内は決断した。
貴重な大学生活を、彼女たちに捧げる覚悟を。
「あたし、花美のコーチをやってみてもいいですか?」
酒に呑まれ、しっかりと考えたわけではない。
それでも今だけは、それが正しいと思った。




