第2章 第38話 あたしのサウンドスケープ
〇環奈
『あざっしたっ!』
ネットを挟み、花美と紗茎が挨拶する。次の流れは相手チームの監督に講評をもらいにいくことになっている。つまり、近田監督に近づかなければならない。
「ぅげぇ……」
まじで、嫌すぎる。
どうしよう絶対嫌味言われる! 嫌味だけならいいけど怒られたらどうしよう。絶対怒られちゃうよっ!
ほんとに行きたくないほんとにやだぁっ!
珠緒みたいに駄々をこねれば回避できるだろうか。……いや、あれはないな。恥ずかしすぎる。
「梨々花せんぱー……」
『あざっしたっ』
梨々花先輩に助けを求めようとすると、複数の大声があたしの声をかき消した。
「いやあーしコーチじゃないから来なくていいって……」
見てみると、得点板の隣にいる小内さんの周りを紗茎の面々が囲んでいた。
「とてもそうは見えませんでしたよ。立派なコーチでした」
ぶんぶんと両手を振る小内さんに、天音ちゃんが穏やかに微笑む。
「そう……。そっか……」
小内さんの表情が変わった気がする。
現実を見て限界を知った大人の顔から、輝く未来を望む爽やかな少女のような顔。
天音ちゃんもそれを感じ取ったのか、さらに声をかける。
「最後のアドバイス。あれがなければたぶんわたしたちの勝ちでした。本当にやめてほしかったです」
「おぉう……。あんた時々すごい嫌な言い方するよね」
「えぇっ!? すいませんっ」
なんか失敗したみたいだけど、表情は明るい。
小内さんは変わった。小内さんが望む変化かどうかはわからないけど、少なくとも過去を振り切った気がする。
次はあたしの番だ。いつまでも過去に囚われてるわけにはいかない。
梨々花先輩に向かいかけた身体を近田監督へと走る集団に戻す。立ち向かわなきゃいけないんだ。あたしが。
「あざっしたっ」
『あざっしたっ』
朝陽さんの挨拶に続き、あたしたちもいっせいに頭を下げる。
あたしがいるのは近田監督の正面。絶対に屈したりしない!
と思ってたけど、
「…………」
こわいこわいこわい! いざ相対してみるとめっちゃこわい!
なんかすごい無表情だし、無言だし、迫力すごい!
そりゃそうだよ。あたしたち勝っちゃったもん。絶対機嫌悪いって!
「……すいませ」
「水空」
「ひゃいっ」
やっぱり過去はそう簡単に捨てられない。思わず謝罪の言葉を口にしようとすると、それを遮って近田監督が重い口を開いた。
「な、なんでしょうか……」
やばい全然顔見れない。怒られる怒られる。絶対怒られちゃう。
「そっちの学校は、楽しいか?」
あ、終わった。
これ「はい」って言ったら怒られるパターンだ。紗茎を辞めたことをグチグチ詰められるやつだ。
とりあえず紗茎の方が楽しかったですって言わなきゃ。辞めたこと後悔してますって言わないと怒られちゃう。
「……たのしいです」
でもこの気持ちだけは嘘をつけなかった。
この人たちの前でそんなことは絶対に言えない。
「でも紗茎も楽しかったです。辛いこともあったし……辛いことの方が多かったけど……楽しかった。辞めたことを後悔することもあります」
この気持ちにだって嘘はない。
近田監督は怖かったし学校の雰囲気は合わなかったけど、今でも時々もし紗茎に残っていたらと考えてしまうことがある。
天音ちゃんたちにかわいがってもらったり、流火たちとくだらない話したり、音羽ちゃんたちと遊んだり。紗茎にだって楽しい思い出はいっぱいあった。けど、
「その気持ちに気づけたのは花美に来たからです」
もし紗茎に残っていたら、あの時の風美たちの気持ちを知るには時間がかかっていた。
高校を卒業し、大人になり、辛かった時間が過去のものになった時。ようやくあたしは後悔することになるのだろう。
ああ、もっと青春を楽しんでおけばよかったって。
「だからあたしはこれが正しかったんだと思います」
こんなに早く後悔できてよかった。
これでようやく、紗茎のみんなと向き合える。
「そうか……」
……あ、しまった。余計なこと口走りすぎた。
どうしよ絶対近田監督怒ってる! 梨々花先輩梨々花先輩梨々花先輩! でも……。
「……?」
なんでだろう。怒ってこない。口答えして怒鳴られなかったのなんて初めてだ。
恐る恐る顔を上げてみると、想像もできない、ありえないことが起きていた。
「――よかったな」
近田監督が、笑っていた。
とても穏やかに。それでいて心底うれしそうに。
あたしに対して笑顔を見せていた。
「なんで……」
こんなの初めてだ。
試合に勝った時も、スーパープレーを魅せた時も、言う通りに動いていた時も、近田監督があたしにそんな顔を見せたことはなかった。
「なんでよ……」
なんで今になって。
もっと早くそうしてくれていたら。
「あたしはっ、紗茎を辞めないですんだのにっ!」
涙が溢れてくる。
怒られた時も、吐いた時も、梨々花先輩が倒れた時も、涙なんてこれっぽっちも出てこなかったのに。
近田監督に優しくされることがこんなにも許せないことだったなんて、あたしは思わなかった。
「嫌な人でいてよっ。恨ませてよ! いい人のフリなんてしないでよっ!」
近田監督に歯向かうとか、みんなの前だとか、梨々花先輩が見てるとか、そんなのどうでもいい。言葉が脳を経由せず、勝手に口からこぼれていく。
「あたしはあなたを絶対に許さないっ! それでいいじゃないですかっ! それで終わりにしてよっ! なんで余計なことするのっ!」
花美に来れてよかった。その言葉に嘘はない。
それなのに。これじゃあ花美よりも紗茎を選びたいみたいじゃないか。
「お前も言ってただろ」
近田監督が口を開く。悲しそうな目付きであたしを見てくる。
「紗茎に戻りたい。花美にいたい。それでいいんだよ。だからこの話はこれで終わりだ」
「監督らしいこと言わないでよっ! 今までそんなことしなかったくせにっ!」
「……そうだな。それも事実だ」
この人が何を考えているか。それがまったくわからない。
あたしは近田監督を知らなすぎる。
「環奈ちゃんの言う通りです」
あたしの背後から敵意に満ちた声が届く。
「近田監督……いえ、近田さん。わたしたちはあなたを監督とは認めません」
小内さんへの挨拶を終えた天音ちゃんがあたしの隣に並んで宣言する。
「監督としての仕事を果たさないばかりか、怪我をしている流火ちゃんを無理矢理試合に出そうとする。そんな監督についていく気はありません」
天音ちゃんの視線は鋭く、決して許さないという強い意志を感じる。そしてその目をしたまま横を向き、あたしの手を取った。
「ごめんね、環奈ちゃん。わたしが全中の会場にいたら環奈ちゃんだけに辛い思いをさせなかったのに」
「いや……その……」
「環奈ちゃんだけじゃない。雷菜ちゃんも、織華ちゃんも。あなたのせいで紗茎を去ることになったんです。それについて何か思うことはないんですか!? 一言でも謝罪をしましたかっ!? わたしたちはあなたのそういう姿勢のことを言ってるんですよっ!」
近田監督にビシッと指を突きつけ、強く糾弾する天音ちゃん。どうしよう、天音ちゃん暴走しちゃってる。普段は朗らかなのにこういうとこあるんだよな。
でも近田監督が責められているのは気分がいい。さっき一瞬いい人かと思ったけど、よく思い返してみれば同情の余地なんてないんだ。天音ちゃんの言う通り近田監督の謝罪なんて聞いたことがない。もっと言っちゃえ!
「いや監督謝ってたよ?」
……え?
謝った? いやいや近田監督が謝るわけないじゃん。あたしはそう言った天音ちゃんの後ろにいる音羽ちゃんを見る。
「試合開始前にも『すまん熱くなってた』って言ってたし……あ、環奈ちゃんはその時いなかったか。でも確か学校に帰った後、みんな集めてめっちゃ謝ってたよ。それには環奈ちゃんもいたよね?」
……ん? あたしの記憶と違う。いや確かに集められてなにか言ってた気がするけど……怒ってなかったっけ? あれ?
「ていうか雷菜ちゃんは単純にここより偏差値の高い高校に進んだだけでしょ? 織華ちゃんもうちの学校の実力主義が嫌で別の高校進んだだけじゃん」
んんん? あたし、なにか勘違いしてる? 混乱を隠せないあたしにさらに音羽ちゃんは言葉を浴びせる。
「環奈ちゃんってさ、自分かわいそーオーラ出すじゃん。悲劇のヒロイン気取ってるって言うのかな? だからあんまり監督の言葉聞いてなかったんじゃないの?」
「音羽もっとオブラートに……」
「でも知朱ちゃんだってそう思うでしょ? いや別にそれが悪いってわけじゃないけどさそういうとこあるよね、ってだけ」
……え? あれ? うそ? ん?
「いやいや待ってよ音羽ちゃん。あれ? あたしが悪かったの?」
「まぁ環奈ちゃんだけが悪いとは思ってないけどさ、監督って練習中とかちょっと言い過ぎちゃうところあるって知ってるでしょ? その度に謝るけど、そんなことするなら初めから言うなよとはぼくも思ってるよ」
「でも普段は話しやすくていい人じゃん」と言って、音羽ちゃんは笑う。え? ちょっと待って?
「もしかして……あたし勘違いしてた……?」
そう言われてみれば思い当たる節がある! うん! 確かに結構謝ってた気がする! 練習前とか生徒に混じって遊んでた気がするし……練習後たまにアイスとか奢ってもらわなかったっけ? あれ? うわ!
「はずかしい……!」
ちょっと待ってよ! あたし今まで勘違いで近田監督のこと嫌ってたの!?
かわいそうオーラ……悲劇のヒロイン……言われてみればあたしってそんなだった気がする! ずっとそんなこと考えてた気がする!
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
はずかしいはずかしいはずかしいっ!
なにこれ! なんか黒歴史を同窓会で蒸し返されたような気持ちっ! うわ、あたし超痛々しい奴じゃんっ!
もう顔を手で覆うしかない。あれ? なんかまた涙出てきた……。
「……でも! この前のインハイでは謝ってませんでしたよねっ!?」
天音ちゃん! そうだよ! あたしは悪くないっ!
「いやおもっきし謝ってたじゃん。おねえちゃんさ、自分が正義だと思うと勝手に突っ走っちゃうとこあるよね。自分の視点だけが正しいって思わない方がいいよ?」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
天音ちゃーんっ!
手をどけて天音ちゃんを応援してたけど、音羽ちゃんに言い負かされてあたしと同じく顔を手で覆った。
「じゃあなんでみんなボイコットに付き合ってくれたの……?」
「いや私が原因なんだから断れないですよ……」
「わ、わたしは流火ちゃんがいるから……」
「ぼくはおねえちゃんがいるからっ」
「我は弱者の集まりに興味はないっ!」
「右におなじ……」
「同期一人はいないと部活辞めるとか言い出した時に止められないでしょ」
「ぅぇ……みんなわかってるならもっと早く言ってよ……」
紗茎の面々からの言葉に天音ちゃんの覆った手の下から涙がこぼれてる。
「環奈ちゃん……いっしょに監督にごめんなさいしよ……?」
「ぅ……はい……」
謝りたくなんてないけど、他の人からの話を聞くと完全にあたしたちが間違ってたらしい。うぅ……あたしの三年間なんだったんだ……。
「お待ちなさいっ」
天音ちゃんと一緒に頭を下げようとしていると、突然珠緒が間に入ってきた。
「環奈さんたちの事情とわたくしの事情は違いますわ。覚えていますの? わたくしに対する数々の暴言! 『ツーばっかすんなボケェッ!』、『そんなんじゃ一生試合出さねぇぞっ!』。忘れたとは言わせませんわよっ!」
「いやそれは事実じゃん」
「ぐはっ」
あ、音羽ちゃんに瞬殺された。
「……そうだ」
まだ、あった。忘れちゃいけないこと。忘れさせてはいけないこと。
「小内さんのこと、覚えていますか?」
あたしの言葉に全員の視線が集まる。
「いやあーしのことは別にいいって……」
「よくないですっ。小内さんは紗茎出身だったんです。それを忘れるなんてひどくないですかっ!?」
試合中は助けてもらったし、今度はあたしの番だ。一年や二年で忘れるなんていくらなんでもひどすぎる。
「えっ!? お前小内なのかっ!?」
意外な反応。近田監督は驚きの後に物凄い笑顔で小内さんに近づいていく。
「うわー、ひさしぶりだなっ! いやー、そんなイメチェンしてたらさすがに気づかないわっ」
小内さんの肩を叩き、楽しそうに笑う近田監督。え? なにこの反応。予想外すぎる。
「あー……あた、しのこと、覚えてるんですか?」
「当たり前だろっ! 教え子のこと忘れるかっ!」
恐る恐る訊ねる小内さんを笑い飛ばす近田監督。そしてスマホを点けると少し操作し、あたしたちに見せてきた。
「ほらこれ高校時代の小内。今と全然違うだろ? ずいぶんと垢抜けちゃってまぁ!」
「監督!? それ黒歴史だからやめてっ!」
……あー。うわ、あー。うん、こりゃ気づかないわ。そりゃあたしも気づかないわ。ていうかよく天音ちゃん気づいたね。それくらいすごい変わりよう。うわー、がんばったんだなー。
「水空も天音も。別に謝ったりしなくていいんだ」
スマホをしまい、監督はあたしたちを見る。
「実際嫌われるようなことばっかりしてきた。でもこの指導を辞めるつもりはない。何でかわかるか?」
わかるわけがない。あたしは監督のことをなにも知らない。知ろうとしなかった。
近田監督の表情が変わる。どこか哀愁に満ちた、大人らしい顔つき。その顔で監督は微笑む。
「わからないだろうな。でもそれでいいんだ」
ジャージのポケットに手を入れ、監督は背中を伸ばす。
「お前たちはまだ高校生だ。答え合わせにはまだ早い」
一瞬ポケットの中から煙草の箱を覗かせ、すぐにしまう。あたしにはわからない感覚だ。
「いずれ私の言っていることがわかる時が来る。嫌でもな。その時に居酒屋で笑い飛ばすようなもんがこの答えだ」
近田監督はそう言うが、なんとなく答えはわかっている。
たぶん、お前たちのことを思ってとかいう時代錯誤なものが答えなんだろう。
でもそれが正解なのかどうかはわからない。わかりたいとも思わない。
だけどようやく少しわかった気がする。近田監督のことを。
もう、遅すぎるんだけど。
「よし、じゃあ少し休憩したら次の試合だ。今度は負けるなよ」
そう言うと近田監督は体育館を出て行こうとする。たぶん一軍の様子を見に行くのだろう。
『あざっしたっ』
それに気づいた朝陽さんたちが形式的な挨拶をする。
でもあたしはどうしてかお礼を言いたくなかったので言わなかった。
この気持ちがわかる時は来るのだろうか。
わからないけど、なんだかわかる気がした。
「……ん?」
軽く手を上げて体育間から出ようとした近田監督の足が止まった。壁の穴を見て。
「……あ」
そうだった。風美のスパイクが胡桃さんのブロックに当たって飛ばされた時崩れたんだった。
「お前らなにやってんだぁっ!」
それに気づいた近田監督が怒鳴り声を上げる。
なぜ監督が怒ったのか。それだけは今のあたしでもわかった。




