第2章 第36話 新世界より
「タイムアウト中色々あったみたいだけど、気持ちだけじゃ何も変わらないよ?」
「さぁどうでしょう。今のわたくしは先程までとは一味違いましてよ」
タイムアウトが明け、ネットを挟んで新世と飛龍が言葉を交わす。
今の花美のローテーションは前衛レフトから新世、きらら、日向さん。後衛は朝陽さん、あたし、扇さん。優秀な三年生は後衛であまり強いローテとはいえない。
対する紗茎のローテは、前衛レフトから双蜂、飛龍、知朱ちゃん。後衛は皇、蝶野、天音ちゃん。こちらもスーパーエースの風美さんが後衛なので強いローテではない。
つまりボールを繋ぐ相手が勝負の鍵となる。これはセッター対決だ。
「いくよっ!」
飛龍に代わって審判となった液祭が笛を吹き、天音ちゃんのサーブから試合が再開する。天音ちゃんのサーブはジャンプフローター。年季のおかげで梨々花先輩のものよりも数段キレがいい。でも、
「オーライ!」
あたしにかかれば取れないボールじゃない。近田監督が来るまでのバレーにトリップした感じはないけど、余裕を持ってボールを上げて新世に託す。
「見せてさしあげますわ、わたくしの真の実力をっ!」
そして新世は跳び上がりトスの体勢を取ると。
ボールを左手で押し出した。
「同じじゃんっ……!」
覚醒したかのような雰囲気、台詞だったのに、やったことはさっきまでと変わらないツーアタック。
でもそれが飛龍の不意をつくことに成功し、飛龍が飛びつくが、届かずにボールはぽとんと床に落ちた。
「同じ? 当然でしょう。騙すのがセッターの本分なんですから本当のこと言うわけないじゃないですか」
床に倒れながら新世を睨む飛龍に言う。
「あれ? もしかして騙されちゃいましたか? だとしたらこう言わざるをえませんわね」
後ろにいるから顔は見えないけど、今の新世の表情はありありと想像できる。
「これが、セッターのお手本でしてよ」
人を食ったような、悪辣な笑み。
その顔は無性に腹が立つと同時に胸に一つの感情を呼び起こす。
遥か下にいた眼中になかった存在が、自分の脚にしがみついている感覚。
怒りと同時に、命を狙われているかのような確かな恐怖が飛龍を襲った。
「――いいよ。煽りに乗ってあげる」
だけどその感情は、同時に眠っていた気持ちも燃え上げてしまった。
「だから一人で勝手に燃え尽きないでね?」
飛龍の瞳が静かに、激しく燃えた。
「――ほんと、わかりやすくて助かりますわ」
次のローテに移りながら新世は短くつぶやく。引きつった笑顔の中に、わずかに希望の色が見える。やっぱり新世は『熱中症』を狙ったんだ。でもそれは懸けすぎる。いくら二十四対二十三でこっちのマッチポイントだとしても、うまくいくとは限らない。
でもこれで花美の前衛は朝陽さん、新世、きらら。サーブは日向さんが担当する。さっきよりかは強いローテ。ここで決められるか。
「いくよーっ」
日向さんのフローターサーブが結構な速度で紗茎に向かうが、天音ちゃんに軽々と拾われてしまう。それと同時に前衛の双蜂と知朱ちゃんが助走距離を確保する。今前衛のスパイカーはこの二人だけど飛龍が上げたのは、
「ぶっ放しなさい、風美!」
「――うん」
後衛の蝶野へと攻撃が託された。
「ストレート空けるぞ!」
「はいっ!」
「かしこまりましたわっ!」
一番厄介なこの攻撃を警戒していたのか、一瞬の淀みもなく三人のブロッカーが並ぶ。作戦は今まで通り。ストレートに誘導し、あたしが取るというもの。いくら飛龍と蝶野がすごいと言ってもあたしがいれば――、
「――っぅ」
風を吸う音が、聞こえた。
そして次の瞬間。ボールは紗茎のコートに跳ね返っていた。
「……? ! っっっっ!?」
いったっ!
えっ!? 腕めっちゃ痛いっ! しかも後ろに吹っ飛んでるし……え? もしかして今あたしレシーブしてたっ!?
「うっそでしょ……!」
全然見えなかった。たぶん身体が勝手に動いていた。今までとは段違いのパワー。
間違いない。今の飛龍は、『熱中症』だ。
「チャンスボール!」
跳ね返ったボールを天音ちゃんが拾い、また完璧なAパス。そして次に飛龍が選んだのは知朱ちゃん。でもそれは打たれる前からわかる。悪手だ。
「っ」
やっぱり飛龍が上げたボールはいつもより速く、知朱ちゃんとタイミングが合わない。指の先に当たったボールはブロックの上を通り過ぎあたしの前に。
「くっ」
なんとか飛びつきボールを拾うがあらぬ方向に飛んでいき、日向さん、朝陽さんという順番で繋いでボールを返すだけになる。
「もう一回っ!」
そう言ってボールを上げる天音ちゃんの表情に危機感の色が浮かぶ。それは天音ちゃんだけじゃない。飛龍以外の全員の空気が急に張り詰められた。
新世が狙ったのは、飛龍の本性。
飛龍の外面は大胆不敵、ミステリアスな美女といったところ。
でも一皮剥けば、そこにいるのはバレーに興奮を覚える超変態。
とてもじゃないけどまともとは言えない。
飛龍のセッターとしての実力はかなりのものだ。勝利に必要なトスを確実に的確に上げてくれる。
でも熱中しすぎると、それが行き過ぎてしまう。
紗茎は強豪校と言えど、全員が全員スーパースターというわけではない。それなのに本気になった飛龍はスパイカーが自分と同等の才能を持っている前提のトスを上げてしまうのだ。
わかりやすく言えば、蝶野や天音ちゃんのような『色持ち』の中でもトップ層でさえも調子が良くなければ打てないような最高のトスを誰にでも上げてしまう。
速攻はいつもより速いトスになるし、オープンも相手ブロッカーを打ち抜くための普段とはタイミングの違うトスを上げてしまう。
その悪癖……あたしたちは『熱中症』と呼んでいたけど、それが出てくるのはだいたい試合の終盤、最高潮に盛り上がったタイミングだけど、今回飛龍が入ったのは試合の半ば。悪癖が出るには時間が足りない。
だから新世はわざと挑発し、無理矢理『熱中症』を引き出したんだ。
うまくいけば勝手に崩れてくれるけど、蝶野や天音ちゃんに上げられたら止めることはできない。だからこれは懸け。地力で負ける花美が勝つための戦略だ。
そしてこの状態の飛龍流火をコントロールする術は、ない。
「あははっ! まだまだ燃えたりないよねぇっ!」
そんな飛龍がボールを上げたのは蝶野。またブロッカー三人がストレートを空けるけど、
「っぅぐっ!」
また、見えなかった! なんとかボールを上げられたけど、また向こうのコートに返ってしまう。
「ぁはは……こうっふんするぅ……。もっと……。もっとっ、気持ちいいのっ、ちょうだいっ」
飛龍がバレーにトリップしてる時、あたしの脳内はぐちゃぐちゃだった。
どうしよう……。全然ボール上げられない。今回はうまくいったけど、もう一度飛んできたらどうなるかわからない。
「次、自分がワンチとりますっ!」
それを本能的に察したのか、きららが誰に言うでもなくそう叫ぶ。でもそれは大きな間違いだ。まだ技術が未熟なきららが咄嗟にあの威力をワンチにしようとしたらまず間違いなくどこかに吹っ飛んでしまう。
かといってやめろとも言えない。だってあたしが上げられないんだから。でもそれが正しいわけがない。
対抗手段が思い浮かばない。次に飛龍が知朱ちゃんに上げるのを祈るしか方法がない。
「ふざけんな飛龍っ! だからお前は駄目なんだっ! 馬鹿がぁっ!」
諦めを意識すると近田監督の怒号が耳に届いてくる。全てを否定してくる声。動いて身体が熱いはずなのに急激に体温が下がってくる。まるで体育館が巨大な冷蔵庫にでもなったようだ。
とにかくどうにかしてボールを上げないと。きららを止めるのも大事だ。でも監督の声が頭を支配する。
「はぁっ……はぁっ……」
だめだ、頭が真っ白になる。
でもプレーは待ってくれない。飛龍が上げた先は蝶野。きららがストレートに立ちふさがろうとしている。
どうすれば。
あたしはどうすればいい。
あたしたちは、どうすれば……!
「そのままでいいっ!」
不意に、声が。
「あんたたちは、間違ってないっ!」
迷うあたしたちを、肯定し、導く声。
それが正しいのかはわからないけど、正しいと言ってくれる。
だったらそれに乗っかればいい。
「っぅ!」
誰が言ったのか認識する間もなくボールが飛んでくる。瞬時にきららがストレートを空けてくれたのでなんとかボールは上がったけど、ライト方向に流れていく。今そこにいるのは……!
「扇さんっ、頼みますっ」
「任せてっ!」
不意に飛び出た言葉に扇さんが応えてくれる。
その瞬間。
なぜか。
わかった。
中三の全中。
なんでみんな飛龍ではなく試合を選んだのか。
「そうだったんだ……」
考えてみれば当たり前すぎてなんの驚きもない。
飛龍が頼んでいた。だから蝶野たちはそれに応えた。ただそれだけだ。
その答えに、近田監督に言われるがままだったあたしは気づけなかったんだ。
「だからか……」
外で小内さんが言ってくれた言葉。「あんたはもうわかってるよ」。
そうだ。この試合の最中。あたしは倒れた梨々花先輩に頼まれ、任せろと応えた。
もう、とっくに。わかっていたんだ。
「ふんっ」
コートの外に飛び出たボールを扇さんがなんとか拾い、新世が向こうに返してボールが繋がる。
「チャンスボール!」
そして再び紗茎のチャンス。でも飛龍が上げたのは知朱ちゃん。緩いボールがこっちのコートに落ちてくる。
「ふぅっ」
それを飛びついて上げたのは日向さん。でもボールはアタックラインの少し先。新世には綺麗に返らない。それでも、
「チャンスボォォォォルッ!」
そう叫んだ。
得点板の脇で。
拳を握り。
小内さんが大きく声を上げた。
その声はさっきのあたしたちを助けてくれた声と同じで。
小内さんに感謝しなければならないと心底思った。
「珠緒っ!」
だからあたしも叫ぶ。自らの意志で。勝つために。
「いくよっ!」
「――遅いんですのよまったくっ!」
あたしの意図を瞬時に察した珠緒は走る向きを変え、ボールを追う体勢から助走の体勢へと移行した。
そしてあたしも跳び立つ。アタックラインの寸前で踏みきり、トスの体勢へ。
「スイッチ……!」
あたしたちのやることを理解した音羽ちゃんが悔し気にそうつぶやく。
でも、もう遅い。
あたしは空中で珠緒と交差すると、ボールを素早くトスする。
さぁ、繋げ!




