第2章 第35話 幻想曲・幻影の虹
〇環奈
「もうつかれた! やりたくないっ!」
あたしが小内さんと一緒に体育館へと戻ると、突然新世の様子がおかしくなった。
「あーもうやだやだっ! どうせわたしは特別じゃないもんっ! がんばったって勝てないもんっ! もうやだっ! 帰りたいっ! わぁぁぁぁーっ!」
タイムアウトを取り一度リセットしようとしたものの、新世は床に横になって手と足をバタバタして中身のないことをグチグチと叫んでいる。まるでおもちゃを買ってもらえなくて商品の前でぐずる子どもみたいだ。こんな新世初めて見る。
「……ねぇ、さっきまでなんかすごいシリアスな感じじゃなかった? いやあんたのことは知らないんだけど」
「シリアスなんて疲れるだけだよっ! この先はコメディでいくからっ!」
……あーこれもう、だめかも。
すごくコミカルに見えるけど、実態は心が折れている。
原因はたぶん飛龍が出てきたこと。元々新世は飛龍のことをだいぶ意識してたし、差を実感して立ち向かえなくなったんだろう。
今の得点は二十三対二十三。同点ではあるけど近田監督が来るまでは十九対十四で五点差ついていた。しかも飛龍には一年のブランクがあり、アップもしないで参戦している。それなのにセッターとして完全に負けて全部どうでもよくなっちゃったんだ。
でもそれも仕方ない。あたしも梨々花先輩もいなかったとはいえ、こっちが四点取る間に九点取ってるんだ。元からとんでもない奴だってことは知ってたけど、やっぱりあいつやばいな……。
「どうしよかな……」
一度コートに入った控え選手がもう一度交代することはできないから梨々花先輩は入れられない。ここで新世までアウトになったら六人になってリベロを作れなくなる。そうなったら本格的に負けが決まる。だからどうにかしないとと思っていると、朝陽さんがあたしの肩に手を置いた。
「まぁウチに任せな。今の珠緒は子どもそのもの。つまり子どもをあやす方法が使えるってことだ」
「え? その理屈はおか……」
「みなまで言うな。こういうの得意なんだよ」
すごいドヤ顔を見せると、朝陽さんは顔を両手で覆って新世に見せる。え、これまさか……。
「いないいなーい……ばぁっ!」
「ぶっさ」
「こいつぶん殴る!」
「ちょっと日向さん! この人止めてっ!」
本当に殴り出しそうな朝陽さんの腰を掴みながらそう懇願すると、日向さんがボール片手に近づいてきた。
「ひーに任せてよ。これやったら百パー子ども喜ぶから」
「いや今は朝陽さんなんとかしてくださいっ」
あたしのお願いを無視し、日向さんは右手の人差し指にボールを乗せて指回しをやって見せた。おーけっこううまい。でも……。
「…………」
「…………」
「……で、なにすればいいの?」
「とりあえずどっか行っててくださいっ!」
あたしが怒鳴ると日向さんはボールを回したまま離れていく。……ほんとうまいな、むだに。
「次はボクの番ね」
二人の失敗を見て今度は胡桃さんが動く。
「人間は弱い生き物よ。普段気を張っている人ほど脆くなってしまうもの。今は甘えさせてあげましょう。赤ん坊をあやすようにね」
「胡桃さんいいこと言わなくていいから助けてっ!」
「環奈さん、おっぱい飲ませてあげなさい」
「真面目な顔してなに言ってんだばーか!」
思わずため口になっちゃったけど一つも謝る気が起きない。胡桃さんははーっと大きくため息をつくと横を見た。
「一年がやらないなら二年がやるしかないわね。美樹さん、おっぱいを飲ませなさい」
「パワハラ&セクハラだよっ!」
胸を隠して扇さんが吠えると、
「ごめん、寝ちゃってた。今どんな状況……?」
あ、梨々花先輩っ! 梨々花先輩が起きてきたっ!
「……ごめんなさい、梨々花さん」
「なして今謝ったっ!?」
……うん、しょうがない。梨々花先輩の慎ましい胸じゃどうしようもないですもん。
「次、きららの番だよ」
「え? この大喜利って順番性だったんですか?」
大喜利って……。いや大喜利になっちゃってるんだけど。
もうそろそろタイムアウトが終わっちゃう。とにかく新世を元気づけないといけないのに……!
「そもそもなんで新世さんはへこんでるんですか?」
「なんでって……特別じゃないから?」
「特別ってなんですか?」
「さぁ……。新世に訊いてよ」
新世はずっと特別にこだわっていた。特別がなにを指しているのかは詳しくはわからないけど、言いたいことはなんとなくわかる。
でも、あたしにはわからない。
たぶんあたしは特別側だから。
そして、新世みたいに死んでも勝ちたいとは思えない。
そりゃこの間の試合みたく勝ちたいと思う時はもちろんあるけど、それは相手がすごく強かったり、負けたくないと思う人が出てきた場合だけ。新世みたいにただ勝ちだけを求めてひたむきに練習することはできない。
飛龍や蝶野もそれは同じ。飛龍は気持ちいいからバレーをやっているだけだし、蝶野は飛龍がやってるから続けてるだけ。
不純で正しくなくて間違っている。
それなのに、あたしたちは勝ててしまう。
たぶんそれは、新世みたいな人にとっては許せないことなんだと思う。
「んー。やっぱりよくわからないです」
「だろうね」
きららだって紛れもなく特別側の人間だ。
恵まれた身長。恵まれた運動センス。
まだバレーを始めて二カ月と少しくらいなのに、既に紗茎の選手に食らいつけるだけの実力を持っている。たぶんあと半年くらいで単純な実力なら新世に勝てるようになるだろう。
そう思うと、なんかかわいそ……。
「だって、新世さんはすごいじゃないですかっ」
でも。きららの感想は特別とはかけ離れたものだった。
「新世さんはとってもすごい人ですよ? みなさんなにを言ってるんですか?」
考えてみれば当たり前のことだった。
実力こそあるけど、きららの知識は凡庸以下。経験にいたっては小学生にも負けるだろう。
そんな彼女からしてみれば、バレーの戦略を教えてくれた新世は紛れもない特別なんだ。
「新世さんも、環奈さんも、飛龍さんも。みなさんとても特別ですっ」
「ふざけんなっ!」
でもそれを認められない人が一人。
誰よりも特別を求め、特別に届きえなかった人物。
「飛龍流火がわたしなんかと同じなわけないでしょうがっ!」
新世がきららに掴みかかった。
「飛龍流火はわたしなんかが及びもつかない天才なのよっ! 『色持ち』で、『金』で……! わたしなんかと一緒にするなっ!」
今までも新世の真剣な顔は腐るほど見てきた。体育館が違っててもよく観に来てたし、自主練も一軍に負けないくらいの量をこなしていた。
その時の表情はよく覚えている。普段の偉そうでむかつく嘘で塗り固められた顔からは想像もつかないほど切実で必死だった。
でも今の新世の顔は、そのどれよりも真剣で、そしてとても辛そうだった。
「……新世さんの好きな色ってなんですか?」
それを間近で見るきららの顔も否が応でも真面目なものになる。なのに発言はマジで謎すぎた。
「……黄色だけど、それが何?」
さっきまですごいヒートアップしてたのに、きららの謎発言で新世の顔にハテナが浮かぶ。でもきららは気にせず続ける。
「なるほど。では花美で特別だと思う人は誰ですか?」
「は? えーと……環奈さんに小野塚さん。あとあなたと……真中さんあたり……かな?」
「なるほどなるほど。……では決まりましたっ!」
そしてきららは後ろに下がって手から逃れると、新世をびしっと指差し、こう宣言した。
「あなたはこれから『幻影の虹』の『黄昏天日』、新世珠緒ですっ!」
……ん?
「きらら……なに言ってんの? げんえ……え? もしかして」
「そうですっ! 『金断の伍』の上に位置する『幻影の虹』を今創りましたっ!」
「ぇー……」
ぁー。そういうことかー……。
「つまり『色持ちの超人』に加えたから新世は特別になったってことでオッケー?」
「です! 環奈さんはもう『金』なので無理ですが、自分と胡桃さんと梨々花さんは新世さんと同じ『幻影の虹』のメンバーですっ! これで問題解決ですねっ!」
な、斜め上すぎる……なんも言えないよもう……。
「ちょっと待って……ボクもあの変な二つ名つけられるってこと?」
「そうです! さすがに今すぐには思いつきませんが、あとで皇さんにつけてもらいましょうっ!」
「あーなるほど。虹だけに色縛りでやるんだね。じゃあ何とかして七人集めないとね」
「ねぇ環奈さん、なぜ普通に受け入れているの?」
突然巻き込まれた胡桃さんと梨々花先輩が様々な反応を見せる。あーそっか梨々花先輩って普段あの変な格言Tシャツ着てるもんね。皇とセンスが一緒なんだ。
うん。あたしは気にしないよ、梨々花先輩がどんなセンスを持ってたって。うん。気にしない気にしない。
「というかこれが何の解決になるの? 新世さんも困るでしょう」
胡桃さんが新世を横目で見る。新世はゆらりと立ち尽くし、ぼんやりとした瞳できららを見上げた。
「……ねぇ、本当にわたしが特別だと思ってる?」
「はい。思います」
「そう……」
ノータイムできららが答えると、新世は顔を伏せて短くつぶやく。そして、
「――なら、騙すしかありませんわね」
顔を上げて、口角を上げた。
「暗く静かなこの世界。唯一照らすは美珠の夕日」
きららがこねくり回した言葉に意味なんてない。きららがどう思おうが、新世の中でなにかが変わるわけがない。
「されど確かな特別の緒。ここから輝け新世界!」
目の前に立ちはだかる壁は消えないし、突然バレーが上手くなることもない。なにをしようが新世は凡庸のままだし、特別には至れない。
「『黄昏天日』、新世珠緒!」
それでもチームのために自らに嘘をつき、屈辱な特別を享受した新世珠緒を。
「全部! ぶっとばしますわよっ!」
心の底から尊敬した。




