第2章 第31話 天才たちの鎮魂歌
監督から怒られなくなってからしばらくした中学三年生の夏。一年で最も大きな大会が始まった。
全国中学校体育大会。中学二年生の時優勝を果たした大会。
あの時は未熟だったなぁ。
だって優勝して喜んじゃったんだもん。喜んだらいけなかったのに、ほんとばかだなー、あたし。
でも今回は完璧。一度も怒られずに全国ベスト十六まできた。ずっとストレート勝ちだし、辛そうな顔も見せたし、それでいて完璧なプレーを見せてきた。
あたしに隙はない。
あたしこそが誰よりも怒られない最強の選手なのだ。
「おなかすいたー。雷菜ちゃん、はやくお弁当たべよー」
「お弁当は駄目ですよ、木葉さん。この後も試合があるのだからもっと消化にいいものを食べないとコンディションが落ちてしまうわ」
「そんなこと言ってるからいつまでもそんな胸なんだよ? もっと風美を見習わないと」
「ふぇ!? ご、ごめんね流火ちゃん……お弁当いつも二つ食べちゃって……」
試合を終えた同期たちと観客席にあるお弁当を取りに向かっていると、四人が見当違いのことを話し出した。
残したら怒られるし、食べても怒られる。だったら食べたふりしてゴミ箱に捨てるのが正しい。もう、いつまでも変わらないんだから。あたしが教えてあげないとみんな怒られちゃう。
「みんな、よく聞いて。お弁当は――」
場所取りとして観客席の先頭に置かれているお弁当が入った段ボールの前に立ってみんなに注意しようとした時、気づいた。
あたしから少し離れたところにいる五歳くらいの女の子。おそらく母親と一緒に娘の試合を観に来ているのだろう。
その子が手すりから身を乗り出して下を覗いている。足が床についていないし危険な状態だ。
近くにいる母親は応援に夢中で気づいていないし、一番近くにいるのはあたし。
あたしが助けないと。そう思ったタイミングで、その子はついにバランスを崩した。
「――っ」
考えるより先にあたしは動き出していた。そして辿り着くまでの短い時間で走馬燈のように思考が駆け巡る。
急げば足を掴めるか。でもそうするにはあたしも相当身を乗り出さなければならない。下手を打てばあたしまで落ちてしまうかもしれない。
ここは二階だけど下の体育館の床は固いし、落ちたら無傷じゃいられない。少なくともその後の試合には出られないだろう。
そうしたら。
近田監督に怒られる。
その真理に気づいた瞬間。
あたしの足は止まっていた。
「ふんっ」
しかし、その横を何かが通り過ぎた。
見えたのは女の子を追いかけ宙へと落ちる脚二本。
あまりにも突然の出来事で何も理解できなかったけど、誰かがあたしの代わりに女の子を救いにいったことだけはわかった。
「――流火ちゃん……?」
そして風美の呆然とした声が聞こえた時。あたしは流火が女の子を助けようとしたのだと気づいた。
「流火っ!」
さっきまでまるで動かなかった足は嘘のように回り出し、あたしたちは体育館へと駆け出す。途中で控えメンバーの珠緒や昴も拾い、とにかく早く。
そして体育館で見たのは、怪我一つないのに大きな声で泣き叫ぶ女の子の姿と。
左腕を抑えて聞いたこともない悲鳴を上げている流火の姿だった。
「流火っ!」
野次馬たちを押しのけ流火に駆け寄るあたしたち。幸いコートの外だったおかげで人には当たっておらず、女の子も無事のようだ。
でも当の流火の左腕はありえない方向に曲がっており、いつも余裕そうに笑っている流火の姿からは考えられないほどの苦悶の表情を浮かべている。
「流火ちゃんっ! 流火ちゃんっ!」
「……ごめん、みんな……、やっちゃったかも……!」
狂ったように名前を呼ぶ風美の声であたしたちがいることに気づいた流火は、精一杯の笑顔を浮かべて謝罪の言葉を口にした。
「うで、すっごくいたいの……ぜんぜんうごかないし……どうなっちゃったんだろ……」
「大丈夫よ。全然大丈夫。だから見たら駄目。すぐに医務室に連れていってあげますからね」
腕とは反対側に膝をつき、雷菜が流火の右手を強く握りしめる。
「大丈夫、大丈夫ですから……!」
普段誰よりも冷静でクールな雷菜の祈るような声で全てを察したのか、流火は乾いた笑顔を見せた。
「あはは……そっか……私のうで、だめなんだね……」
「だめなんかじゃないっ! 今年も絶対優勝するよっ! そう約束したじゃんっ!」
いつもほんわかにこやかで絶対叫んだりなんかしない織華が大粒の涙を零しながらそう強く言う。それが流火に状況の深刻さを伝えることになると知りながらも止めることができない。
「あはは……そだね……だから……」
流火は笑う。なるべくいつもと同じように。
「あとは――たのんだよ……?」
だから風美もいつもと同じように、カチューシャを流火から受け取った。宝物を手に取るように、柔らかな手で包み込んで、流火の髪からそれを外す。
「――うん。任せて」
そして前髪を上げると、そう力強く答えた。
あたしは。
あたしはなんて声をかければいいんだろう。
女の子が落ちると知りながら動かなかった。
怒られたくないから動く選択をしなかった。
あたしのせいでこんなに苦しんでいる流火になんて声をかければ……!
「ごめんね……!」
謝った。
「ごめんね……かんな……!」
流火が、あたしに、謝った。
「なんで……流火が……!」
「かんなは……やさしいから……私たちのなかでいちばんやさしいから……あとで……たぶん……つらくなっちゃうとおもうから……!」
涙が零れる。
あたしからも。流火からも。
「たぶん……私たちは……私のせいで……これからばらばらになっちゃうけど……これだけは……いわせて……」
流火の左腕が動く。動かないはずなのに、ピクピクと。あたしを、求めて。
だからあたしは飛龍の手を掴む。
なのに、流火はなんの反応も見せない。
もう、ほんとに、だめなんだ。
だからあたしは顔を近づけた。
流火の最期の一言を聞き洩らさないために。
「まちがっても……いいんだよ……?」
「何やってんだぁっ!」
しかし流火の言葉は、あたしには繋がらなかった。
「監督……!」
さっきまで残りのスタメンの音羽と志穂を怒っていた近田監督が現れた。
怒りの形相で。
流火に近づくと、こう言った。
「全中二連覇が懸かってんのに何怪我なんかしてんだぁっ!」
――え?
あれ? なんで? ん?
なんで、この人は、試合なんて気にしてんの?
流火の姿を見て、なんでそんなことが言えるの?
勝敗なんて、どうでもいいじゃん。
バレーボールなんて、楽しければいいんだから。
あ。思い出した。
あたしがバレーボールをやっている理由。
楽しいからだ。
楽しいからバレーをやってるんだ。
今。あたしは楽しんでる?
ううん。全然楽しくない。
怒られないためにバレーをやって、怒られないためのプレーをして、怒られないことに全てを注いでいる。
こんなの、全然楽しくない。
だったら、あたしは。
「今すぐ病院にいきましょうっ!」
「ああ、もう救急車呼んである」
勇気を出してそう言うと、近田監督はそう答える。そしてこう言った。
「新世、お前が代わりに出ろ」
――代わり?
なんでまだ、バレーなんかのことを。
「はい。かしこまりましたわ」
「たま……お……?」
なんでそんな風に、答えられるの……?
「ふざけんな……!」
流火が怪我をした。大切な友だちが怪我をした。
だったらすぐ近くで励ませるように、みんなでついてくべきなんじゃないのか。
それなのになんで、たかがバレーのことで友だちを見捨てようとしてるんだ……!
「あたしは、試合に出ない。流火と一緒にいる」
そう宣言すると、近田監督が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「何言ってんだっ! お前が出ないでどうすんだ!? お前が飛龍と一緒にいて何になる!? え!?」
怒られるのは怖い。身が竦む。隠れたくなる。
でもこれだけは、譲れない。
「だったらバレーなんかやってなんになるんだっ! なんにもならないっ! 全国? 優勝? 二連覇? どうでもいいよそんなのっ!」
そんな形のないものより流火の方が大切だ。
「みんなもそう思うでしょ!? ほら、いくよっ!」
医務室の人が担架で流火を運び上げる。あたしたちもついていこう。
もうあたしたちはこの人の思い通りにはならない。
怒られたっていい。
本当に大切なもののために動くんだっ!
「――え?」
それなのに。
あたしの方が正しいはずなのに。
なんでみんな、動こうとしないの?
「雷菜……織華……風美……?」
なんでみんな、体育館なんかに残ろうとするの……?
「確かに近田監督の言い草は許せません。きっと試合が終わったら私は紗茎を去るでしょう。でも今はその時ではありません」
「そうだね。織華もそう思う」
「わたしは、流火ちゃんの言う通りにするだけだよ」
なんでわかってくれないの?
「なぜ、あなたはわからないんですの。環奈さん」
なんであたしを責めるの?
あたしが間違ってるの?
「珠緒……いや、新世。そんなに試合に出られるのがうれしい?」
「そういうわけではありませんわっ! 流火さんは何とおっしゃ……」
「うるさいっ! あんたたちの気持ちはよくわかったよ。あたしは一人でも流火についていく。よかったね、液祭。そんなに出たかった試合に出られて」
あたしは一人、体育館を後にする。
もう、こいつらとは一緒にいられない。
絶対に、許さない。
その後。あたしは流火と念のため女の子と一緒に救急車に乗り込んだ。
幸い女の子は外傷なし。流火が抱えたおかげで怪我をせずにすんだ。
でもその代償として、流火は全治一年の大怪我を負った。左腕がしばらく動かないらしい。
手術のあと流火に蝶野たちのことを話すと、責められはしなかったけどどうやら流火、いや飛龍は蝶野たち派だったようだ。
試合の方は一度は勝てたようだが、ベスト八止まり。
やっぱりあたしが間違えていたんだろうか。
いや、間違えてなんかない。
あたしが正しいんだ。
こんなところにいたら頭がおかしくなる。
だからあたしは紗茎を去った。
そして進学先は弱小校に決めた。
勝利も、レギュラー争いも、監督との小競り合いも起こりえない、ただバレーボールを楽しめる環境。家の近くにそんな楽園のような高校があるのだろうか。
「――あった」
万年一回戦負けの、試合を観る限りまともなリベロがいないバレー部。
「花美高校――」
こうしてあたしは、梨々花先輩と出遭った。




