第2章 第29話 皇帝・ゴールデンフィーバー
〇珠緒
怒号。
別にそれはたいして珍しい出来事ではない。
部活をやっていれば誰しもが必ず顧問や先輩から大声で怒鳴られ叱られたことがあるだろう。
だからそれは当たり前のように、体育館に現れた。
「お前ら勝手に体育館を使ってふざけんじゃねぇぞっ!」
「――近田監督」
何の前触れもなく、本来なら誰も近寄らないはずのこの体育館に彼女は姿を見せた。
近田治由。紗茎学園の中高女子バレーボール部の監督を務めている部活動指導員。
かつて一部リーグでアウトサイドヒッターとして活躍していたが、怪我を理由に引退。その後二十八歳という若さでありながら紗茎中学を全国優勝に導いた名監督。と、形式上はそうなっている。
でも実態は、ただ練習をひたすらにやらせていただけ。
特別な指導は何もない。介入してくるとしたら罵倒だけ。自分のことしか考えていない。
とにかく最低なパワハラ監督ですわ。
「……監督、他校の方々が見ています。少し控えて……」
「口答えする気か? だいたいお前は生意気なんだ! 勝手に主力引き連れてボイコットなんかしやがって……!」
天音さんが冷や汗を垂らしながら意を決してそう言うが、近田監督は一つも話を聞かずにグチグチと言葉を並べてくる。
こうなったら試合は一時中断するしかありませんわ。せっかく環奈さんがノってきていたというのに……。
「だいたいおたくらどこの高校だ? 見たこともない選手ばかりだが……」
近田監督はまず小内さんを一瞥し、コートをじっくりと見渡す。選手を身長だけで判断していることが丸わかりな嫌らしい視線。その瞳は翠川さんを見て大きく見開き、わたくしを通り過ぎると、小さな彼女を捉えて醜く歪んだ。
「いるじゃないか、まともな奴が。なぁ、水空ぁ」
名指しでロックオンされ、環奈さんの身体がビクリと震えた。
「どうだ? うちを捨てて弱小校に入った感想は……。なぁ、水空ぁ」
「ぁ……は、ぃ……すいません……」
「楽なもんだよなぁ、適当に遊んでればいいんだから。なぁ、水空ぁ」
「すいません……すいません……」
「おかげでこっちは大変だよ。去年優勝を逃すわ、今年ベスト八止まりだわで……よかったなぁ、水空ぁ。私らに復讐ができて」
「いや……そ、んな……つも……すいません……すいません……」
環奈さんは近田監督の言葉にただ曖昧な謝罪を繰り返すばかり。
右手を左肩に置き、監督と目を合わせないようにただ俯いている。
小声で「りりかせんぱい……りりかせんぱい……」と痛々しく何度もつぶやく今の姿は、とても先程まで無双していた天才と同じ方だとは思えませんわ。
助けてあげたい。
でも、身体が動かない。
近田監督に逆らうなという心に刻まれた常識がわたくしの身体を硬直させる。
紗茎の方々もわたくしと同じ。あの自由な音羽さんでさえ何も言えずにただつまらなそうな表情を浮かべることしかできない。天音さんだけは何か言おうとしていますが、口が形を変えるだけで声を出せていない。
こういう時真っ先に暴れ出しそうな一ノ瀬さんは放っておくとまずいと判断したのか真中さんが必死に抑えているし、外川さんも様子を窺っているのか静観している。
唯一の部外者である小内さんは何か思うところがあるのか拳を握りしめ歯を食いしばっていて、小野塚さんは過呼吸で疲れたのか壁に寄りかかって眠っている。
「……うちの水空ちゃんに、あんまりひどいこと言わないでくれますか」
そんな中、環奈さんの小さな身体を隠すように小さな身体が立ちふさがった。
「ぉぅぎさ、……」
「そうですっ! 昔の監督さんか何か知りませんが、言いすぎですっ!」
「きらら……」
環奈さんの前に飛び出した扇さんに続き、翠川さんも環奈さんの姿を覆い隠す。でも二人とも声と足が震えている。近田監督の圧に心を折られているんですわ。
「……ま、そうだな。悪かった、水空」
生徒の反逆なんて近田監督が一番怒りそうなポイントなのに、なぜか謝罪を入れると紗茎の選手にゆっくりと歩き出した。
「んなことは問題じゃないんだ。問題は、この点差だよなぁ」
近田監督はチラッと得点板を見ると、紗茎の選手を素通りして審判台の方へと向かう。
今の得点は十九対十四。環奈さんが覚醒して以降わたくしたちが完全に押している。
「困るんだよな、非公式とはいえ無名校に負けるのは」
紗茎学園は圧倒的な実力主義学校。成績は学内カーストにも影響する。
ましてや近田監督は部活のために雇われている部活動指導員。どんな形式でも敗北は地位の失墜を意味する。
「だから、出ろ」
そして近田監督は審判台の横に立つと、一人無言でわたくしたちを見下ろしていた彼女に声をかけた。
「飛龍」
「監督っ!」
それだけは認められないのか、ようやく天音さんは声を出して抗議する。しかし近田監督は見向きもせずただ淡々と命令するだけだ。
「お前たちの言いたいことはわかってるよ。インハイ予選で飛龍を無理矢理出させようとしたことに怒ってボイコットなんか始めたんだからな」
「でもお前たちは間違っている」、と近田監督は続ける。
「飛龍を出させたくないのならお前たちが勝てばよかったんだ。前のインハイ予選も、今日も。お前たちが弱いから怪我をしている『金断の伍』を出すしかないんだ」
「えっ、今『金断の伍』って……、飛龍さん、マネージャーさんじゃなかったんですか!?」
『色持ち』のこともわたくしたちの過去も何も知らない翠川さんが衝撃の事実に声を上げる。
「ええ。流火さんは去年の怪我を引きずってマネージャー役を買って出ているだけで、本来は中一から試合に出ている不動のレギュラーですわ」
花美のみなさんは気づいていなかったようですが、インハイ予選の時も控え選手として出ていた。おそらく近田監督の指示で何かあった時のために入れていたのだろう。ほんっと、どこまでも実力主義。三年間、六年間努力していた三年生より一年のブランクがある一年生を控えさせているのですから。
「でも流火ちゃんは……!」
「大丈夫だよ、天音ちゃん」
あんなに恐ろしい近田監督に逆らってまでボイコットを敢行した天音さんがあくまで反対するが、それを流火さんが遮った。
「もうほとんど治ってるし、リハビリだと思えば全然余裕。無理をするつもりはないけどね」
「それに監督が来なくても試合には出る気だったよ」。そう言って流火さんは審判台から飛び降りた。
「環奈のあんなプレーを見せられて、燃えないわけがない」
ジャージを脱ぎ捨て、左肘のサポーターを露わにする流火さん。それも外すと、軽く腕を回して様子を見る。
「ん、問題なし。やー、ひさしぶりのバレー、緊張するなぁ。とりあえず景気づけに、やっておこうか」
そして彼女は笑顔を見せる。
「誓いし五色は彼方果て。残った色は微風に燐光」
温度の低い炎のように薄く、いつまでも消えない業火のように禍々しい笑み。
「されど心は猛火怒涛。苛烈に激しく、あの龍のように」
その仮面のような笑顔の下は、苛烈なほどに燃え上がる煉獄。敵も味方も彼女にかかれば等しくただの薪にすぎない。
飛龍流火の心を燃やす、ただの燃料に。
「『猛火苛烈』、飛龍流火」
紗茎学園中等部で三年間常にスタメンだったセッター。
この場にいる最後の『金断の伍』。
わたくしの憧れの選手。
焦がれ、募り、追いかけ続けた眩い輝き。
「――全部、焼き尽くそうか」
ああ。
眩しすぎて、目が眩む。




