第2章 第25話 小夜曲・過剰な呼吸と僅かな供給
〇環奈
プレー中の接触。そんなの珍しいことじゃない。
あの試合を思わせる接触だったとしても、別にいい。
珠緒がぶつかりにいった気がしたけど、珠緒だって必死だったはずだ。謝っていたし、それを責めるつもりはない。
でも。
梨々花先輩はなんで。
あの人の名前を口にしたんだ。
あたしがいるのに。
あたしのためにバレーをやってくれるって言ったのに。
あんなこと、もうどうでもいいはずなのに――。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁっ」
「梨々花! おいどうしたっ! 大丈夫か!?」
激しく息を吐きながらうずくまる梨々花先輩にみんなが声をかける中、あたしは動けない。
足が動いてくれない。脳がストップしている。あたしまで息が荒くなってきそうだ。
「――過呼吸よっ、どいてっ!」
そんな中、ぼーっと興味なさげに試合を観ていた小内さんが血相を変えて駆け寄った。
「落ち着いて小野塚さん。ゆっくり息を吐いて。ゆっくり、ゆっくり……」
背中に手を添え、小内さんは前屈みになっている梨々花先輩の顔を覗き見る。胸から激しく上下する梨々花先輩は身体が弛緩し、抑えられないよだれがたらだらと垂れ流れている。
「誰か紙袋を……!」
「いや、それはかえって逆効果よ! それより飴とか……ガムでもいい。何か気を紛らせるものを持ってきて!」
異変に気づいた天音ちゃんが紗茎の部員に指示を出すが、それを遮り小内さんが叫ぶ。
「ぼくハッカしかないんだけどいいかなっ!?」
「なんでそんなまずいの持ってんの!? でもとりあえず持ってきて!」
「えー、おいしいでしょっ!」
天音ちゃんと揉めながらも音羽ちゃんは体育館の端に置いてあるカバンに向かって走っていった。
「はぁはぁ……あぁっ、はぁはぁはぁはぁ……っ」
「小野塚さん、いい? ゆっくり呼吸してね。ハッカ味好き?」
「はぁはぁ……きら、ぁ、はぁっ……」
「よしよし。大丈夫よ大丈夫。そのままゆっくり呼吸しててね」
過呼吸。それはパニックや緊張などで激しく息をしたせいで体内の二酸化炭素が少なくなる症状だ。
その結果普通に呼吸ができず、身体に痙攣が現れたり視界が白くなったりする。
そこまで深刻なものでもないし、対処も簡単。ゆっくり息をさせたり、飴を舐めさせたりして意識を別に向けさせ、通常の呼吸に戻すのが一般的。紙袋とかビニール袋を口に当てたりする人も多いけど、それだと酸素が足りなくなりかえって危険になるという話を聞いたことがある。
運動部なら過呼吸の対処を知っている人も多いけど、緊急時にしっかりとした指示ができる人はそうそういない。小内さん、思っていたよりすごい人なのかもしれない。
「持ってきたよっ」
「よし、ちょうだい。小野塚さん、口開けといてね」
音羽ちゃんから飴を受け取り、唾液がしたたる小野塚さんの口内に何のためらいもなく指をつっこんだ。
「とりあえず飴舐めることに集中しててね」
「はぁ……はぁ……これ、まず、……あぁ……はぁっ……」
「うんうん大丈夫大丈夫」
何か言いたげな梨々花先輩の背中を撫でながら小内さんは天音ちゃんを見上げる。
「とりあえず呼吸は落ち着いてきたし大丈夫だと思う。でも少し様子見たいから休憩もらえる?」
「わたしたちは構いませんよ。安全第一です。それより保健室とか行きますか?」
「いや、今の調子なら大丈夫かな。とりあえず壁際に運ぶからちょっとどいてて。小野塚さんもちょっと揺れるけど我慢して」
そして小内さんは梨々花先輩の脇に手を入れると引きずりながらゆっくりあたしの方に近づいてきた。
引きずられてるせいで梨々花先輩の顔は見えない。それでも言葉に出る呼吸音が近づいてきたことで梨々花先輩が近くにいることを実感した。
あたしはどうするのが正しいんだろう。
梨々花先輩を看病するべきか。それとも離れるべきか。
いつものように梨々花先輩と話せる気がしない。
あたしよりも瀬田さんを求めた裏切り者と。あたしはまともに話せるのだろうか。
「……環奈、ちゃん……はぁ……っ」
梨々花先輩の声がする。
あたしの横を通り過ぎる寸前、確かにあたしの名前を呼ぶ声が。
顔は見えない。見たくない。それでも。
「……あと、はぁっ……たのんだよ……っ」
「――はい。任せてください」
あたしのやるべきことは、決まった。




