第2章 第18話 独奏
「おーい小内さん! 一人で飲んでないでこっち来ませんか!」
「うるさいクソガキ! 一人でしっぽり飲むのが大人の嗜みなのよ!」
確かに憧れですわね。バーで煙草片手に一人ウィスキーの味と香りを楽しむというのは。
「はぁーあ、これだからおこちゃまは。大人の世界を知らないガキはそこで馬鹿みたいに騒いでろばーかっ!」
でも今の小内さんが飲んでいるのは色のうっすいハイボールで、五分以上経って半分も減っていない。そして時々灰皿に沈んだ煙草に口をつけてはむせ、呂律の回らない口調で暴言を吐き散らしていた。
「徳永め……久しぶりに連絡寄越したかと思ったらガキのお守なんてやらせようとしやがって……」
日中あれほどビビり倒していたのになんて態度……徳永先生にバラしてしまおうかしら。
「小内さんって徳永先生の後輩なんですよね?」
「あ? そうだけどなに?」
もう顔が真っ赤になってフラフラと頭を揺らしている小内さんに小野塚さんが話しかけた。
「徳永先生ってどんな人だったんですか?」
「お、それウチも気になってた」
小野塚さんの疑問に一ノ瀬さんも楽しそうに乗っかる。確かに徳永先生といえばふわふわしていて優しい教師として一年生の間でも有名な先生だ。それなのに小内さんはやけに怖がっていてとっても不思議ですわ。
「あーそうか、あんたたちはあの人の表の顔しか知らないもんね」
わたくしたちに背を向けて飲んでいた小内さんが椅子ごと回転し、ニヤニヤとした笑みを向けてくる。表の顔……もしかしたら昔は相当な悪だったのかも……いえ、ひょっとしたら今も悪事に手を染めているかも……大変な不祥事ですわ……!
「あの人はね、あーしの憧れだったのよ」
あんなにグチグチ言っていたのに憧れですか……。少々疑問ですが、そう語る小内さんの顔にはどこか悔しそうな色が浮かんでいる。
「あーしらは大学時代軽音楽部に入っててそこで知り合ったの」
「軽音楽部!?」
軽音楽部ってことは……つまりバンドですか。イメージできませんわね。
「あーしとかは部内で適当にバンド作って適当に遊んでたんだけど、あの人は学外でバンド組んで真剣にライブに取り組んでた。本気でメジャーデビューも狙ってCDも自分たちで作ってここら辺では結構有名になってた……とにかくかっこよかったよ」
小内さんはそう言うと煙草を一本取り出して火をつける。だけどすぐにむせてしまって忌々しそうに煙草を睨んで灰皿に置いた。
「ちなみに私CD持ってるけど聴いてみる?」
そう言ったのはまさかの店長さん。アマチュアのはずなのにこんな所にまでCDが出回っているなんて……本当に有名だったんですのね。
「マジっすかお願いします! ……あんたたちびっくりするよ。本当にすごいんだから」
店長さんが棚に置かれていたラジカセのスイッチを押すと、音楽が再生される。
狼煙のようなドラムの炸裂音。かき鳴らされるギターが期待を高め、奥に光るベースの音が深みを与えてくれる。キーボードの音色が一度怒涛の勢いを静め、そしてボーカルが入ってきた。
「すごい……」
誰かがそう漏らしたが、その声の主を突き止めることはできない。それほどまでにわたくしたちは古びたラジカセから鳴り響く音楽に聴き入っていた。
激しい曲調に実にマッチした苛烈な声色のボーカル。その声は普段のほんわかとした訛りのある口調とは違うが、確かに徳永先生の魂の響きだった。それがわかった直後徳永先生の弱みを知れたと少しうれしくなったが、すぐにそんな思考が浅はかだったと気づく。
決して冗談半分に茶化したりできないほどに、この歌には徳永先生の全てがこもっていた。
そう、理解した。
「あんたらの期待してるような悪い話は特にないよ。あの人は何も変わってない。こんなゴリゴリのロックをやっていながらプライベートはずっとあんな調子だった」
曲を聴きながら小内さんは遠い目でそう言った。
「入部したての時一度だけあの人のライブを観に行ったことがあったんだ。そんでもう二度と行けなかった。あの人はあーしには眩しすぎる」
吸おうとして指に挟んでいた煙草の灰が重力に逆らえなくなり床に落ちる。塊だった灰は衝撃を浴びて一面に広がった。
「それなのにデビューできなかった。いや、近い将来できたかもしんないけど諦めた。安定を求めて副業ができない教師の道を選んだ。それが気に食わないんだよね。あの人はあーしらとは違って特別な人間だったのに」
特別。
その言葉がわたくしの耳を惹く。
「あーしバレーヘタクソだったんだよ。中高六年間試合どころかベンチにも入れなかった。ポジションも一通りこなしたけどどれも大成しなかった。ま、そのせいかもしんないけど」
自嘲じみた笑みを浮かべ、小内さんは煙草に口をつける。むせることなく口から吐き出された煙が宙に舞い、姿を失う。
「そんで大学でかっこつけて軽音部入ったんだけど、まぁだめだった。コードはわからんし全然楽しくない。形だけでもかっこよくなろうと最近酒とか煙草始めたんだけど別に美味くもないし気持ち悪くなるばっかりでなんもいいことない」
小内さんの声がだんだんと小さくなり、歌にかき消されて聞こえなくなる。それでも小内さんは話を続ける。誰に向けたわけでもない、ただの自分の人生の全てを語っていく。
「バレーは辛かったし嫌いだった。ただなんとなく辞めるタイミングを計ってたらいつの間にか六年が終わってた」
それは何も特別なことではない。試合に出られるのはたったの七人。それにあぶれた凡庸な人間はきっとみんなそんな感想を抱く。
「あんだけ時間があったのに残ったのは辛かった記憶だけ。履歴書に書こうにも一行だけで語れることなんて何もない」
「そんなくだらないこと辞めた方がいい」。小内さんの言葉はサビに入って盛り上がった歌にかき消されて近くにいたわたくしと一ノ瀬さんにしか聞こえない。
「何が正しかったのかなぁ……」
小内さんの言葉にわたくしは何も返せない。いや、返さない。
その気持ちを理解してしまったら終わりだ。
そうなったら最期、わたくしはもう二度とここに戻れなくなる。
「ん?」
歌が終わりに近づいてきたタイミングで環奈さんのスマホから着信音が鳴った。メッセージアプリの無機質な音が曲に虜になっていたわたくしたちの気を逸らす。
「ごめんなさい……」
環奈さんは小さく謝罪を口にし、スマホを見る。そして目を見開くと、立ち上がってこう叫んだ。
「紗茎学園から練習試合の申し出が来ましたっ!」
その声と同時に、ラジカセから音が聴こえなくなった。




