第1章 第間話 三年生の最低なエゴ
「絵里、三年間おつかれさま! かんぱいっ!」
時間はインターハイ予選の一回戦が終わり、花美高校へと帰ってきた後の頃。
二年生、一年生と別れ、三年生の三人は相変わらず客が誰もいない喫茶花美へと来ていた。
目的は当然試合の打ち上げ。そして今大会を持ってバレー部を引退する瀬田絵里の送別会を行うためだ。
三年生だけでこの会を行うことにしたのは、絵里に妄執する梨々花を引き離すため。
つまりただ純粋に三年間運動部を続けてきた普通の高校生のように、辛かったことや辛かったこと、辛かったこと、そしてわずかな楽しかった思い出を分かち合うためだ。それなのに、
「……なんかノリ悪くね?」
乾杯の音頭を取った一ノ瀬朝陽がジュースの入ったコップを掲げたまま顔を引きつらせる。普段こそクールだが同級生と一緒にいる時はよく笑う真中胡桃も、今日の主役である絵里もジュースを持つことすらせずどこか遠くを見ている。
「なんだよなんだよ! せっかくの同期会だぞ! もっと盛り上がってこうぜ!」
全く反応のない二人に対して朝陽がジュースが零れんばかりに吠える。だがやはり二人は何の反応も示さない。
「……かんぱーい」
仕方なく一人でコップを少し上げると、朝陽は一気にジュースを飲み干そうとする。
会話もなく、反応もなく、ただ聞こえるのは有線から流れる聞いたこともない曲と、朝陽の喉を通る水の音だけ。気まずい空気が店を覆う。
「……ごめんなさいっ」
わざとゆっくりと飲んでいた朝陽のジュースがなくなろうかという頃、突然絵里が頭を下げた。
「ごぼっ!?」
予想外の絵里の行動を見て朝陽が何か言おうとしてむせ返る。そんなことを気にも留めず、絵里は椅子から降りて膝を床に着けた。
「……何のつもり?」
その姿を見てようやく胡桃が口を開く。その目付きは冷たく、絵里を責め立てているようだった。
「……色々言いたいことはあるけど、とりあえずこれだけは言わせて」
覚悟を決めたような表情でそう告げると、絵里はその体勢から腰を折った。額を床に着き、三角形にした手を前に突き出す形。
つまり、土下座。
絵里は朝陽と胡桃に対して土下座をした。
「何やってんだよ急に! マスターが見てるぞ!」
「お気になさらずー」
絵里の奇行に朝陽が店主をチラチラ見ながら止めようとしたが、店主は使われていないテーブルを拭きながらニコニコと笑っていた。
「いやー、青春だなー」
「土下座が青春なら青春できてる女子高生なんてこいつだけになっちゃうんですけど……」
まだ二十代中盤くらいの若い女性のはずの店主の価値観に若干引きながら朝陽は小さくツッコむ。少し前に自分の後輩二人が見事に土下座をしていたのも知らずに。
「……で、それは何のつもりだ?」
一応店主の許可は取れたようなので、朝陽は落ち着いて絵里に訊ねる。
「……二人にはいっぱい迷惑かけたから」
絵里の表情は顔を下げ続けていて見えないが、声からは強い決意のようなものを感じた。
「二人は梨々花を傷つけるのに反対してたのに無理に巻きこんじゃったから。本当に、申し訳ないと思ってるの」
瀬田絵里という人間は後輩からとても優しい人だと思われている。そしてそれは同級生から見ても同じ。絵里は本当にとても優しく、同時に責任感の強い人間だ。二人に絵里の行動の片棒を担がせたことを気にしているのだろう。
朝陽と胡桃が絵里から梨々花を嫌っていると聞いたのは、彼女がバレー部に入ってきた高校二年生の時だった。延々と続く呪詛を聞き、二人は大げさな、と思った。嫌いな人は誰にでも存在するし、半ば聞いてほしいだけの愚痴のようなものだろうと決めつけていた。
だが梨々花が入ってきてから絵里の心からの笑顔を見ることができなくなったのに気づき、絵里がどれほどまでに梨々花を嫌っているのか理解した。
それから二人は決めた。友人として、絵里を守り抜くと。
後輩を傷つけることになったとしても、試合をわざと捨てることになっても、梨々花から絵里を引き離すと。
そしてその日々は今日、終わりを迎えた。だから。
「顔を上げろよ、え……」
「いいえ。そのまま頭を下げ続けなさい」
朝陽の許しの言葉を遮り、胡桃が短くそう告げた。なんとなく許すオーラが出ていたことで半分絵里は顔を上げていたが、再び額を床に着ける。
「何を綺麗な青春の一ページみたいな感じに締めようとしているのよ。ボクたちがしたことは絶対的な間違い。決して許されることではないわ」
絵里と胡桃の間を取り持とうとしていた朝陽だったが、その言葉を聞いて口を閉じる。
胡桃の言っていることは紛れもない事実であり、決してあやふやにしていいものではない。
だってこの三人は、結果的に梨々花をいじめていたのだから。
「ボクと朝陽があなたの味方をしたのは友だちだからというのと、絵里と梨々花さんを引き離した方がいいと思ったからよ。梨々花さんにとっても、ね」
絵里と梨々花の不仲を聞いて、問題は梨々花の方にあると二人は感じた。たとえ梨々花が何も悪いことをしていないとしても、梨々花の精神は異常だった。
妄執。固執。執着。梨々花は絵里に依存していた。取り返しのつかないほどに。
だからこのインハイ予選で梨々花の心を粉々に砕く負け方をするという作戦に二人は乗ったのだ。
絵里のために。そして梨々花の今後のために。
梨々花の心から絵里という存在を決して手の届かない場所に捨てるために、大事な一戦を捨てる覚悟をしたのだ。
「だからといって許されるつもりはない。ボクたち三人はこれから先の人生一生梨々花さんに頭を下げ続けるのよ。それだけは忘れないで」
胡桃は誰よりも真面目な人間だ。だからこそ仲間内で勝手に全てを終わらせようとした行為を許せなかったのだ。
「それと約束通りお前が辞めた後は好きにさせてもらうからな」
固い話は後にしてとりあえず絵里の三年間の努力を労おうとしていた誰よりも仲間想いな朝陽がこの際だから確認しておこうとそう口にする。
絵里との約束。それは、絵里が引退した後梨々花を好きにしていいというもの。
梨々花には悪いとは思うが、深く傷つけることで絵里への執着を捨てさせることができた。
だから春高までの短い時間ではあるが、梨々花が一人で生きていけるよう導いていく。それが朝陽と胡桃が梨々花を傷つけることに協力した条件だった。
「これからはウチが新部長として梨々花を成長させる。それだけは文句を言わせないぞ」
「そうね。あなたがいくら梨々花さんを嫌いでも、これ以上追い詰めることは許さないわ」
これは三人にとって今更の話。だから意味などない。
そのはずなのに絵里は顔を伏せたまま、誰にも見られないように笑みを浮かべていた。
「あの天才をどうこうしようなんて、私たち凡人には無理だよ」
その言葉は誰にも届かない。そして誰にも言うつもりはない。
小野塚梨々花への、水空環奈の介入を。
二人は梨々花を一人だけで生きていけるようにしたいようだけど、それは不可能だ。
水空環奈が瀬田絵里の代わりになってくれたから。
この先のことは知らないし、知るつもりも絵里にはない。
でもこの先の未来はわかりきっている。
梨々花はバレーを辞めようとするけど、環奈によって止められる。
そしてできあがるのは絵里がいた場所に環奈が転がり込んだだけの関係。梨々花にとっては何も変わらない。
普通に考えればぽっと出の一年にあれだけ依存していた絵里の代わりが務まるはずがない。
それでも絵里はわかっていた。嫌いだからこそ、梨々花の性格が手に取るように。
梨々花は誰でもいいんだ。
寄生先は絵里でも環奈でも、誰でもいい。
元々ただ最初に絵里のトスを見たというだけの浅すぎるきっかけ。
代わりなんていくらでもいる。
だから梨々花を変えようなんて不可能だ。
それでも絵里は環奈が介入してきたことを伝えない。二人の誓いが徒労に終わることを教えない。
だって瀬田絵里は、小野塚梨々花が嫌いだから。
梨々花のためになる情報なんて誰が教えてやるものか。
「さぁ、いい加減顔を上げなさい。乾杯するわよ」
「おいもうウチが乾杯したんだよいいから肉食うぞ肉!」
そんなことも露知らず、二人は楽しそうに笑っている。それを見て絵里は純粋な笑みを浮かべて立ち上がった。
「それじゃあ改めましてっ」
「ったくしょうがねーなー」
「朝陽のコップは空だけどね」
「いいんだよ細かいことは!」
「ふふっ。じゃあ、かんぱーいっ」
「「かんぱーい!」」
間違った三人はこれからも間違い続ける。
それでもこれまでの三年間の楽しかった時間は決して間違いなんかではなかったと、笑うことで示した。




