第1章 第32話 彼女は寄生先を選ばない
〇梨々花
「おはようございます。先生、これにハンコお願いします」
インハイ予選の翌朝。わたしは職員室で眠そうに目を半開きにしてパソコンの前に座っている徳永先生に一枚の書類を手渡していた。
「……あぁ小野塚さん、おはよ。なんだ今日はずいぶんとはえぇな」
書類を受け取った徳永先生はろくに内容を見ることもせず、捺印欄を見つけるとハンコを押そうとする。その寸前、書類がなんのものかわかったのか、徳永先生は目を見開いてあたしの顔を見上げた。
「こ、これ、退部届でねぇかっ!?」
徳永先生の大声に、職員室にいる先生全員がこちらを見てくる。朝早いおかげで数人しかいないが、それでも悪目立ちしているような気がして少し気分が悪い。
「小野塚さんバレー部さ辞めるんだか!?」
「はい。短い間でしたがお世話になりました」
思わず耳を塞ぎたくなるほどの大声で訊いてきた徳永先生に対し、わたしは普通の声量で軽く頭を下げる。バレー経験がないのに顧問をやってくれたんだ。これくらいの礼儀は必要だろう。
「なしてこんな急に……。他の部員には話したのか?」
「まぁ、それなりには」
「……みんなが了承したのならおらは止めねぇけど……。なんだか寂しくなるなぁ……」
徳永先生は言葉を探すように口ごもっているが、渋々ハンコを朱肉に付けている。嘘をつくのは苦手だが、どうやら上手く騙せたらしい。
本当は誰にもわたしがバレー部を辞めることは話していない。美樹にも、日向にも、当然絵里先輩にも。わたしのミスで試合を終わらせてしまったのに、その次の日に辞めるだなんてとてもじゃないが言えなかった。
どうせこのことはすぐにみんなにも伝わるだろうが、退部届さえ受け取ってもらえればこっちのものだ。かなり強引な手段になってしまったが仕方ない。わたしにはバレーを続ける理由も資格もないのだから。
数回ハンコを朱肉に押し付けた後、徳永先生は少し躊躇いながらも退部届に手を伸ばす。なにはともあれこれでわたしのバレー人生は終了だ。もう二度とボールに触ることはないだろう。
いや、そもそもわたしのバレーボールはもっと前に終わっていたのだ。環奈ちゃんに想いを繋いだ時、わたしはバレーボールを辞めるべきだった。それなのにずるずると引き延ばしてしまい、わたしのわがままで試合にまで出てしまった。その結果が、わたしのミスでの敗北。
きっとわたしは間違えてしまったのだろう。環奈ちゃんとの誓いを破り、絵里先輩の意思に逆らってまで試合に出た。これを間違いと言わずになんと言う。
だからこそ今その間違いを清算しよう。徳永先生のハンコを持った手が退部届に下ろされる。その瞬間、わたしは一つやり残したことを思い出した。
そうだ。環奈ちゃんにまだ謝ってなかった。最後のわたしに繋がれたボール。わたしはそれを受け取ることができなかった。環奈ちゃんが必死に繋いでくれた想いを、わたしは取り零してしまった。他にも謝ることはたくさんあるが、そのことだけは伝えようと思っていたのに。
まぁでも仕方ない。今度会った時にでも謝っておこう。そう心の中で諦めた時。
「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
扉を開く轟音と、静寂をつんざく叫び声が職員室に響き渡った。
「……環奈ちゃん?」
確かにその声と姿は環奈ちゃんのものだったが、いつもとのギャップがありすぎて思わず疑問系になってしまった。
「はぁ……はぁ……。ま、まだ……げほっ、た、退部届……ぉえっ」
職員室に入ってきたはいいものの、環奈ちゃんは入口で立ち止まったまま動けないでいた。膝に手を付き、前屈みになって息を荒く吐いている。たぶんあれ後ろから見たらパンツ見えるな。
「退部届……はぁ……やば……まだ出してないですよね……死ぬ……あぁぁ……」
そんな状態になりながらも、環奈ちゃんはフラフラとした足取りながら徳永先生の机に近づいてくる。練習中でも整っている髪はボサボサに乱れていて、髪から覗く額からは汗が大量に噴き出ている。朝練ってわけでもないだろうし、なにをしたらこんなになるんだろう。
「梨々花先輩……はぁ……退部届ぇ……!」
ようやくわたしの下に辿り着いた環奈ちゃんが、抱きつくようにわたしにもたれかかってきた。制服越しにでもわかるほどの凄まじい熱気が伝わってくる。こうもくっつかれると中々言いづらいな。ていうかなんでこの子わたしが退部することを知ってるんだべか。
「ごめん……退部届ならもう……」
「水空さんが大声出すもんだからびっくりして押しちまったよ」
そう申し訳なさそうに言うと、徳永先生はハンコを押し終えた退部届を掲げて見せた。必要な項目である名前と部活は事前に書いていたので、顧問のハンコが押された時点でわたしの退部は既に認められた形になる。だから一歩遅かった、ということなのだが、
「こんなものっ!」
環奈ちゃんは徳永先生から退部届を奪い取り、力いっぱい引き裂いた。あまりのパワープレーに誰もなにも言えないでいる内に、環奈ちゃんは何重にも退部届を破き、まき散らすようにその場に捨てる。床にひらひらと舞いながら落ちていく退部届だったものは、まるで散っていく桜の花のようだった。
「環奈ちゃん……」
口から飛び出た言葉に、環奈ちゃんが反応してわたしの目をまっすぐ見つめてくる。疲れが滲み出た表情とは裏腹に、その瞳には強い意志が宿っていた。なんとしてでもわたしを止める。そんな意志が。そして息を整えると、環奈ちゃんは口を開く。
「梨々花先輩、付き合ってくれませんか」
「え!?」
「あっ! ちが、ちがいます! 練習に、ですっ!」
あ、なんだそっちか。びっくりしたー。
でもどちらの意味にせよわたしは返事をすることはできない。なんせバレー部を辞める気でいたんだ。練習をする気分ではないし、必要性もない。でも、
「うん、いいよ」
環奈ちゃんと話をしたいとは思っていた。試合の件で謝るのもそうだし、他にも話したいことがある。だからわたしは環奈ちゃんの頼みに首肯した。
「じゃあそういうことで、体育館の鍵借りていきますね」
壁にかけてある鍵の山の中から第三体育館のものを抜き取り、環奈ちゃんはさっさと職員室を出て行く。もうある程度疲れは取れたようだ。わたしも徳永先生に一礼し、環奈ちゃんの後に続こうとする。だが立ち去ろうとしたわたしの腕を徳永先生が掴んで離さなかった。
「な、なんですか……?」
引き止められた理由はわかっていたが、一応訊いてみる。すると徳永先生はにっこりと笑って床を指差した。
「これ、片付けてけ」
わたしの足下にはさっき環奈ちゃんが引き裂いた退部届が散らばっている。中には机の下にまで入っているのもあって、掃除するのは中々大変そうだった。
「はい……」
わたしはそう弱々しく返事すると職員室の用具入れから箒を取り出す。くそー、さては環奈ちゃん掃除がめんどくさいから疲れた身体を押して速攻で職員室から逃げたな。
「退部届、破けちまったな」
愚痴が出そうになるのを我慢して黙々と掃除を進めていると、徳永先生がマグカップに入ったコーヒーを啜る。ところでわたしの退部はどうなったんだろう。破かれたとはいえ、厳密には退部は徳永先生に渡した時点で完了しているはずだ。バレー部でない以上体育館の使用は認めないと徳永先生に言われてもおかしくない。
「掃除終わりました」
しかし徳永先生はさっきの一言以外なにも語らず、退部届だったものは職員室のゴミ箱に捨てられた。掃除道具を用具入れに戻し、徳永先生に謝罪の意味も込めて頭を下げる。
「朝から騒いでしまってすみません」
「心配すんな。別に誰も気にしてねぇよ」
顔を上げると、徳永先生は優しく微笑んでいた。バレー部にいる時の頼りない雰囲気はどこへやら、その表情には大人の余裕のようなものが感じられた。そしてその表情のまま、徳永先生はわたしの頭にポン、と手を置く。
「だからたくさん考えてこい。悩んで、間違えて、成長していく。そうじゃなきゃ部活をやってる意味がねぇ」
徳永先生の優しい言葉がわたしの脳に染み渡っていく。その真意を理解することはわたしにはまだできない。それでもなにかがわかったような気がした。
「退部届はまた気が向いたら持ってきてけろ。その時はおらが責任を持って管理しておく」
「だから行ってこい」。徳永先生はそう言うと、頭に置いた手を優しく押した。
「すいません……ありがとうございます」
再び、しかしさっきより深く頭を下げると、今度こそわたしは職員室を出る。退部届を出しに来ただけなのに妙なことになっちゃったな。バレーなんてする気なかったのに。
それでもなぜか足取りが軽いことにわたしは気づいていた。




