第1章 第30話 繋がらない二人のバレーボール 裏
一ノ瀬さんから居場所を聞いたあたしは観客席から会場を出て、通路を建物の裏の方へと回っていく。しばらく歩き、ちょうど正面入口の反対側にある誰も立ち寄ることのない非常用階段の踊り場に部長さんの姿はあった。
「もう制服に着替えたんですね」
手すりに肘を置き、会場の外にある木々を眺めている部長さんにあたしは声をかける。
「もう負けちゃったんだし、いつまでもユニフォーム姿でいる方が変でしょ」
あたしの声に気づき、いつもの笑みを浮かべて部長さんは振り返った。会場の熱気を冷ます涼しい風が部長さんの髪を優しく撫でる。髪を手で抑える仕草がやけに様になっていて、梨々花先輩が憧れる気持ちが少しわかったような気がした。
「瀬田さん、お話があります」
あたしがそう言うと、部長さん、いや瀬田さんがクスリと笑みを深める。
「もう部長さんって呼んでくれないんだね」
「もう負けて引退なんですし、いつまでも部長さんって呼ぶ方が変でしょう」
「あっはは。手厳しいなー」
あたしの瀬田さんの発言を模した言葉に、瀬田さんは手すりに寄りかかって声に出して笑う。なんてことないやり取りなのに、なぜかあたしの頬を冷や汗が伝った。
「で、話ってなに?」
ピタリと笑い声を止め、瀬田さんの瞳があたしのことを品定めするように捉えた。顔はいつもと変わらないはずなのに、目は全然笑っていない。いや、思い返してみればいつもこんな目をしていたような気もする。
なんにせよ、あたしが聞きたいことは一つ。でもその前に確認しておきたいことがある。
「試合、わざと負けましたよね?」
言う前から失礼な発言だとはわかっていたけど、実際に声に出してみるとあまりのひどさにおもしろさすら感じてしまう。
あたしバージョンで想像してみると、中学最後の試合で入ってきたばかりの1年生に「今日いつもよりヘタクソでしたねー、ウケるー」と言われたようなものだ。いくら試合の勝敗に興味がないあたしでも、たぶんブチ切れてると思う。
それなのに瀬田さんは、変わらずいつもの笑みを浮かべていた。怒りもせず、気にも留めず、本当に普通の笑顔。
ここまでくると恐怖すら感じてしまう。前から時々おかしいと思う時はあったけど、あまりにも異常だ。正直逃げ出したくて仕方ない。
「どうしてそう思ったの?」
そう訊いてきた瀬田さんの表情は依然一ミリも変わっていない。人間こんなに笑顔でいられるものなのか。あたしの右腕が微かに震えているのに気づき、逆の腕で掴んで震えを止める。
がんばれ環奈! ここが踏ん張りどころだ! 心の中で必死に叫んでみたけど、震えが止まってくれる気配はなかった。ならもうしょうがない。あたしは恐怖を隠さないまま瀬田さんと相対する。
「梨々花先輩は優秀なレシーバーです。サーブを抜きにしても守備強化として投入するべき場面はいくつもあった。それなのに瀬田さんは頑として交代させませんでしたよね」
「梨々花がいても点が取れるわけじゃないからね。負けている状況ならむしろガンガン攻めていかないとジリ貧になるだけ。だから梨々花を入れなかったんだよ」
事前に用意していた言葉をあっさり返されてしまい、あたしはなにも言えなくなる。実際は梨々花先輩をピンチサーバーとして投入したら7点も取れたのだが、結果論と言われればそれまで。瀬田さんの意見もわからなくないし、さっさと切り変えて次に移ろう。
「じゃあ梨々花先輩が入る直前の蝶野のスパイクの時にブロックが低かったのはどう説明しますか? 瀬田さん前に言ってましたよね、ジャンプ力はあるって」
「ラリーが続いて疲れてたからね。別に意図してたわけじゃないよ」
「……それなら最後のプレーのワンタッチは? あの時ブロックにボールが当たらなかったら楽にレシーブできたんですけど」
「叩き落とせると思ったんだけどね、さすがはスーパーエースだよ。ていうかあそこでブロックに跳ばない方が変だと思わない?」
「……まぁそうですけど……」
だめだこの人口が上手すぎる! なに言っても綺麗に返されちゃう! この綺麗な返球をバレーに活かしてっ!
口では完全に言い負かされてるけど、どう考えても瀬田さんはわざと負けるように動いていた。それが上手く言葉にできないのがもどかしい。
でもさすがにこれは言い訳できないはず。
「あたしが繋いだ、最後のレシーブ。あれは誰がどう見ても梨々花先輩のボールでした。それなのに瀬田さん、あなたが無理矢理ボールを奪おうとしたせいで、あたしたちは負けました。あれがわざとじゃないって言うんですか?」
「正セッターは私だよ? 私が上げるべきボールを梨々花が奪ったって言った方が正しいんじゃないかな。その前にも私からトスを奪った前科があるし、敗因は梨々花がしゃしゃり出たことだと思うけど?」
……ほんとこの人は口が減らないな。いい加減認めればいいのに。
「わからないんですか? 梨々花先輩の方があなたよりも上手いってことを」
「上手けりゃいいってもんでもないよ。バレーボールは繋ぐ競技なんだから。レシーブで繋いで、トスで繋いで、チーム全員でボールを、想いを繋ぐ。チームのために、輪を乱すプレーをする梨々花の存在は必要ではない。それがあなたや梨々花にもわかっていたならあんな事故は起きなかったと思うよ」
瀬田さんは決して自分の非を認めようとしない。不自然なほど頑なにただ口を動かしている。
「じゃああくまで……悪いのは梨々花先輩だって言いたいんですね?」
「プラス環奈ね。最後のレシーブは失敗してもおかしくなかった。勝手なことをしようとした梨々花にフォローを頼むべきだったね。まぁでも一番悪いのは梨々花だよ。あそこでフォローに入らないとか正気を疑うね」
……もう、十分過ぎるほどわかった。
瀬田さんは――。
「瀬田さんは、梨々花先輩のことが嫌いなんですか?」
「うん、嫌いだよ」
あまりにもあっさりとした返答に、あたしの思考がフリーズした。そんなあたしを余所に瀬田さんはいつもの笑顔で言葉を発していく。
「嫌い嫌い大嫌い。心の底から梨々花が嫌いだよ。だってキモイじゃん。絵里先輩絵里先輩って、私はあんたのママじゃないんだよ、って話だよ。それに知ってる? あの子私の練習着全部知ってるんだよ。怖いよねー、ストーカーかって。私にボールを繋ぎたいからリベロになるとかありえないし、高校まで追いかけてくるんだもん。これで嫌いにならない方がおかしいよ。そりゃ高校でバレー辞めるって。大学までついてこられたらほんと迷惑。もう一生会いたくないのにね。だいたいさー、私に憧れてる理由だってひどいもんだよ。例えるなら生まれたばかりのヒナみたいなもんだね。中学で初めて見たトスがたまたま私だっただけ。中学生なんだから小学生より上手いのは当然なのにね。それなのにいつまでも私がすごいって思いこんでるんだよあの馬鹿は。だからあの子が見てるのは私の幻想なの。自分より上手い理想の絵里先輩に憧れ続けてるんだよ。滑稽すぎて笑えないって。それにしてもさ、環奈が入ってきてくれてほんとうれしかったよ。最初に環奈が朝陽のサーブをレシーブした時のこと覚えてる? あの時の梨々花の顔がほんと傑作でね。世界の終わりみたいな顔しててさー、その顔がうれしすぎてつい泣きそうになっちゃったよ。そうそう泣きそうって言ったらね、環奈をリベロに選んだ後梨々花を体育館裏につれてったんだよ。なんかもう全部諦めましたよー、みたいなすました顔してたからね。むかついてちょっと泣いてあげたらすぐに大泣きしだしてさー、全然諦められてないじゃんって思ったよ。『リベロやりたかったよー、絵里先輩にボール上げたかったよー』とか言い出してね、たかが部活でこんなに泣けるんだーって感心しちゃった。ほんとウケる。試合が終わった時の顔は環奈も見たでしょ? もうとっくにボールは落ちてるのにずっと探しててさー、おもしろすぎてやっぱり泣いちゃったよ。環奈もそう思わない? だいたい梨々花はさ、」
瀬田さんの呪詛のような言葉が延々と続いているが、あたしはその言葉を認識することができなかった。耳から耳へと通り抜け、なにも頭に入ってこない。それでも瀬田さんが梨々花先輩の悪口を言っていることはわかった。そして心底嫌いだということも。
「だから……わざと負けたんですか……?」
「ん? そうだねー、今更隠してもしょうがないし、うん、そうだよ、正解。梨々花が嫌いだから試合に出したくなかったし、なるべく梨々花が傷つくような負け方を演出したんだよ。中々上手かったでしょ?」
あたしが絞り出した言葉に、瀬田さんは眉一つ動かさずにこやかに答える。
「梨々花先輩は……そのことを知ってるんですか……?」
「さすがに言えないでしょ。いくら嫌いだからって自殺とかされたら面倒だもん。知ってるのは朝陽と胡桃だけだよ」
自殺されたら面倒。面倒って言ったのか、この人は。
「きららは……初めての試合だったんですよ……負けて、悲しくて、悔しくて、今も泣いてるんですよ……?」
「あーそれは悪いことをしたね。でも全部梨々花のせいだから。文句なら梨々花に言ってよ」
身体が熱い。冷たい風があたしの周りだけ避けて吹いているようだ。
「扇さんは……扇さんはこの試合に梨々花先輩を出すために土下座までしたんですよ……?」
「あの子も馬鹿だよねー。梨々花のなにが良いのか知らないけどずっと付いて回ってさ。美樹も大概気持ち悪いよ」
自然と身体に力が入る。拳は力強く握られ、短く切り揃えたはずの爪が手に食い込んで痛くてしょうがない。
「外川さんは……梨々花先輩が試合に出られるとわかって、笑顔で交代したんですよ……?」
「日向こそどうでもいいでしょ。あの子は根本的に試合に興味無いんだよ。日向のことで私を責めるのはお門違いだって」
瀬田さんの笑顔が憎くて仕方ない。なんであんな顔ができるんだ。自分だってヘタクソのくせに。
「3年生の二人は……瀬田さんが最後の試合だから必死に勝とうとしてたんですよ……?」
「あの二人も最低な先輩だよねー。私が梨々花のこと嫌いだって知ってる癖に私の味方をするんだよ? 先輩なら後輩のこと守ってやれって言いたくなるよ」
脚が瀬田さんの方へと向かっていく。この人は……この人だけは許せない……!
「梨々花先輩は……!」
あたしが瀬田さんの目の前に差し掛かった瞬間、視界が大きく揺れた。身体が床に倒れ、頬にヒリヒリとした痛みを感じる。見上げると、瀬田さんが平手を顔の横に掲げている。その手であたしの頬を叩いたんだ。
「あーごめんごめん。チビにウロチョロされるのが嫌いでさ。思わず叩いちゃった」
そう吐き捨てた瀬田さんの顔からはいつもの笑みは失われており、冷徹な瞳が這いつくばっているあたしを見下ろしていた。
「あ……ぁあ……」
だめだ、涙がポロポロと溢れてくる。痛いからじゃない。悔しいんだ。こんな人に梨々花先輩は憧れていたんだと思うと、悔しくて仕方ない。
試合で負けた理由が今わかった。梨々花先輩と瀬田さんがぶつかったそもそもの原因。
梨々花先輩と瀬田さんは繋がっていなかったんだ。
バレーボールは繋ぐ競技だ。レシーブで繋いで、トスで繋いで、チーム全員でボールを、想いを繋ぐ。一人だけが上手いんじゃ勝てない。チーム全員が繋がらないと勝てない。だからこそ花美高校は負けた。
繋がらない二人の、バレーボールでは勝てるはずがなかったんだ。
そして繋がっていなかったのは梨々花先輩と瀬田さんだけではない。
あたしと梨々花先輩も、最後のプレーは繋がっていなかった。
あたしは最後、試合に勝ちたいという気持ちより、梨々花先輩に勝ちたいという気持ちの方が大きかった。あの瞬間、あたしはチームとは別のことを想ってしまった。
だから最後、あたしが上げたボールは梨々花先輩に繋がらなかった。そんなことに瀬田さんを見て気づくなんて。それも悔しくて仕方なかった。




