第1章 第25話 小野塚梨々花はバレーが上手い
〇環奈
勝ちたい。心の底からそう想ったのはいつぶりだろうか。
小学生の時、なんとなく楽しそうだったから始めたバレー。最初はスパイカーだったが、段々レシーブの楽しさを知り、身長が伸びなくなったこともあって中学ではリベロになった。たまたま入った中学がバレーの強豪校で、ただ練習している内に1年でレギュラーになり、全国大会にも毎回行っていた。それでも勝ちたい、と思ったことは一度もなかった。
でも、今は違う。勝ちたい。勝って、梨々花先輩の喜ぶ顔が見たい。
……だけど、その障害が一つ。
「水空さん、あとは頼んだわよ」
考え事をしていると、いつの間にか交代する真中さんがすぐ近くまで来ていた。
「まったく。考えがあるのなら言いなさいよ。イライラして余計疲れたわ」
「すいません、時間がなかったんで」
言葉だけだと怒っているように聞こえるけど、真中さんの口調は優しく、あたしがあの時交代しなかったのは梨々花先輩を試合に出すためだとわかっているようだ。
「あー疲れた。次のセットまで休ませてもらうわね」
真中さんはわざとらしく肩を揉むと、コートを出て行く。
次のセット。真中さんはそう言った。ということは勝ちにいく気はあるのだろう。
でもそれならどうして、こんなにも寂しげな表情をしているんだ。
「リリー、楽しんできなよ」
「うん、ありがと」
互いに笑顔を見せ、梨々花先輩も外川さんとの交代を終えてコートの中に入る。その瞬間、梨々花先輩の身体にタックルするかのように扇さんが抱きついた。
「うぇぇぇぇぇんっ、梨々花ちゃんだっ! 梨々花ちゃんだぁぁぁぁぁっ!」
「泣くのはまだ早いでしょ、美樹。勝ちにいくよ」
「うんっ! うんっ!」
「それとさっきのレシーブ、すごかった。惚れ惚れしちまっただ」
「うわぁぁぁぁぁんっ、梨々花ちゃんに褒められぐぇっ!?」
長くなりそうだと思ったのか、梨々花先輩は泣きべそをかいていた扇さんを放り捨てる。前から思ってたけど、この人扇さんにはやけに厳しいんだよなぁ……。
「絵里先輩、勝手なことをしてすみません」
扇さんを引き剥がした梨々花先輩は、すぐさま部長さんに駆け寄って頭を下げた。別に梨々花先輩が謝ることはないだろうに。謝るとしたら梨々花先輩をそそのかしたあたしだ。まぁあたしは謝る気ないけど。
「……ううん、いいんだよ」
部長さんはいつもの笑顔でそれだけ言うと、足早に自分のポジションに戻っていった。
「ぶちかましてこいよ、梨々花!」
「はい、任せてください」
一ノ瀬さんもまた梨々花先輩に一言だけ告げると、なぜか部長さんの元に駆け寄った。
……なにかがおかしい。3年生の様子がいつもと違う。寂しげな顔をしていた真中さんにしろ、たった一言だけしか伝えなかった部長さんや一ノ瀬さんにしろ、なにかを隠そうとしているように感じる。
「環奈さん! 自分のプレー見てくれましたかっ!?」
目線を部長さんと一ノ瀬さんに送っていると、芸を終えてご褒美を待つ犬のような顔をしたきららがあたしに駆け寄ってきた。
「……あの状況なら無理にトスするよりダイレクトをブロックした方がよかったかもね」
「褒めてくれないんですかっ!?」
少し意地悪したくて厳しいことを言うと、きららは露骨にがっかりした顔を見せてくれた。その表情の落差があまりにも凄まじくて、あたしは少し笑ってしまう。
「ごめんごめん。……ほんと、ありがとね」
きららのあのワンハンドトスがなければ、今この時間はなかった。ほんと、ナイスプレーすぎる。
「? なんかよくわからないけど、やりましたーっ!」
きららの喜びの声を皮切りに、あたしたちはポジションに着く。後衛ライトに梨々花先輩。後衛センターにあたし。後衛レフトに扇さん。前衛レフトに一ノ瀬さん。前衛センターにきらら。前衛ライトに部長さん。後衛にあたしと梨々花先輩がいるということで、防御力では最強のローションだ。
得点は16対24。1点でも取られたらその時点で負け。あたしたちが勝つには、最低でも8点連続で取り、24対24にまで持ち込まなければならない。そうすればデュースという状態になり、どちらかが2点差をつけるまで試合が続くことになる。
でも正直優勝候補の紗茎相手に8点連続得点なんて夢物語にもほどがある。現実的に考えて不可能と言わざるを得ない。
それでもやるしかないんだ、勝つためには。
梨々花先輩が数度ボールを床に突き、その後シュルシュルと手元で回転させる。梨々花先輩のサーブを打つ際のルーティンだ。集中している、一目でそうわかった。
そして主審がサーブ許可の笛を吹く。サーブはこの笛が鳴った後、8秒以内に打たなければならない。
梨々花先輩は笛が鳴ると、一度目をつぶり、深く深呼吸する。花美からすれば意地でも決めなければいけない1点。紗茎からすれば取れれば勝負が決まる1点。その緊張感にコートの中に一瞬の静寂が訪れる。
そしてゆっくりと目を開けると、梨々花先輩はボールを放った。梨々花先輩の脚がボールを追って進み出す。そしてエンドライン手前で跳び上がると、ボールを押し出した。
無回転でボールを打つことにより、変化を生ませるジャンプフローターサーブ。ボールはわずかに揺れながら、まっすぐ紗茎のリベロに向かっていく。
「オーライ!」
紗茎のリベロが腕をオーバーハンドで構える。ジャンプフローターはボールの軌道が変わる前にオーバーハンドで捉えるのが鉄則。ボールは変化することなくリベロの手に吸い込まれていく。かと思われた瞬間、
「!?」
ボールは手元でわずかに浮き、リベロの指の先に弾かれてゆっくりと床に落ちていった。
なにが起きたかわからず、会場は静まり返る。しかしそれも一瞬のことで、すぐに歓声の声に包まれた。
「サービスエースですっ!」
「よくやった梨々花っ!」
「うぇぇぇぇぇんっ、梨々花ちゃんかっこいいよぉぉぉぉぉっ!」
チームメイトが口々に梨々花先輩を褒める中、当の本人は無表情でボールを受け取る。まるで決めて当然だと言わんばかりの様子だ。
梨々花先輩のジャンプフローターにキレがなかったのは、一カ月前の話。今の梨々花先輩のサーブは、不調なあたしなら時々取れないほどに磨きがかかっていた。
「ナイッサーも一本っ!」
梨々花先輩がルーティンを終えると、主審の笛が鳴る。紗茎の選手を見ると、緊張した様子でサーブを待っていた。リベロからサービスエースを取ったことで、梨々花先輩のサーブをかなり警戒しているのだろう。
しかし梨々花先輩はいまだサーブを打たないでいた。ただボールを両手で持ち、まっすぐ向こうのコートを見ている。
梨々花先輩がいつまでもサーブを打たないことで、わずかに紗茎の緊張の糸が切れた。その瞬間を待っていたかのように、梨々花先輩は即座にボールを高く上げた。笛が鳴ってからギリギリ8秒ほど。梨々花先輩は相手に隙を作るためにわざとタイミングをずらしたのだ。
ボールはゆっくりと後衛ライトにいる蝶野の方へと向かっていく。スーパーエースである蝶野はすぐ攻撃に移れるようにするため、基本的にサーブレシーブには参加しない。しかし隣にいるリベロが一瞬出遅れたのを見て、ボールを取ろうとわずかに腕を構えた。だがさすがは紗茎。遅れたとはいえサーブが着弾する前にリベロが落下地点に着くと、蝶野は一歩引いてレシーブから外れる。ゴタゴタしていてもこの動きの良さは見事だ。
しかし梨々花先輩の実力には一歩届かない。リベロが構えた位置より少し前で急激にボールの勢いがなくなり、ほとんど直角で床に落ちていく。リベロはボールに飛びつくが、体勢が崩れていたこととオーバーで構えていたこともあり、必死に伸ばした腕がボールに届くことはなかった。ボールは一度地面に着くとコロコロと転がり、倒れたリベロの指に当たって動きを止めた。
リベロから二連続サービスエース。しかも今回は、
「チョーエッチパンツですっ!」
「違う、ノータッチエース」
会場中に響くほどの大声で叫んだきららに、梨々花先輩はあくまで冷静にツッコむ。
今日の梨々花先輩は本当にすごい。いやいつもすごいけど、今日は格別だ。
静かで、穏やかで、それでいて氷のように鋭い。いつもの一直線ぶりは見る影もなかった。
でもどうしてだろう。すごいと同時に、怖いと思ってしまうのは。
笛が鳴り、梨々花先輩はまた八秒経つギリギリにサーブを放つ。
「舐めんなっ!」
紗茎のリベロは焦りを帯びた顔でそう叫ぶと、コートの中央に向けられたボールをオーバーハンドで上げた。ようやく上がったボールはまっすぐセッターへと飛んでいく。
セッターは誰を使うか。そしてスパイカーはどこにスパイクを打つか。それはボールを上げる前からわかっていた。
マッチポイントで突如現れたピンチサーバー。そのピンチサーバーに二連続でサービスエースを決められ、向こうは多少焦っているはずだ。もう勝負を決めたい、そう思って仕方ないはず。
だから最強の攻撃を最弱の場所に打つ。ボールが上がるのは蝶野。そして狙いは、
「梨々花先輩っ!」
「わかってるっ!」
向こうの視点では梨々花先輩はただの凄腕ピンチサーバーに映っているはずだ。レギュラーではないということで他の選手よりも下手だと判断しているだろう。
でも残念、この人は超凄腕のレシーバーだ。
「っうぅ!」
蝶野のバックアタックが梨々花先輩の少し右に放たれる。その攻撃を読んでいた梨々花先輩は、スパイクを真正面から受け止めると、ボールを高く上げた。でもさすがの梨々花先輩も全国区のスパイクをAパスにすることはできず、アタックラインの真上にボールは落ちていく。
「くっそ短いっ!」
いやいや入ってすぐあのスパイクを上げてくれるだけでありがたいって!
「あたしが上げますっ!」
この位置なら部長さんよりもあたしがトスした方がスムーズにいくはず。そう判断したあたしは部長さんに牽制すると、アタックラインの手前で跳び上がり、ボールを繋げる。
「一ノ瀬さんっ」
「っしゃゴラッ!」
あたしが託した先は、今いる中で一番のスパイカーの一ノ瀬さん。一ノ瀬さんのスパイクは紗茎のブロックの横を抜け、誰も拾うことができずにサイドラインすれすれに叩きつけられた。
「っしゃゴラァァァァァッ!」
綺麗なスパイクを決めた一ノ瀬さんが力強い叫び声を上げる。この人それしか喋れないのか。
なんにせよ、これで三連続得点。ポイントは19対24だ。今まで決まらなかったスパイクが決まり、流れは完全にこっちに来ている。
このままなら本当に勝てるかも……。そう思った矢先、タイムアウトの笛が鳴った。タイムアウトを使うことで、1セットに2回30秒の休憩を得ることができる。でもこの場合は休憩というより流れを切るという意味合いが強いかな。
花美はもう使い切ってしまったけど、紗茎はこれが初めてのタイムアウト。これはかなり追い詰められているという証。点差というより心理的な面がきついはず。
「これ、本当に、ワンチャンあるな……」
あたしのつぶやきは誰にも聞こえないが、それは全員が感じていた。




