第3章 第間話 まだ終わっていない
「こんなところにいていいんですか?」
時間は花美高校対藍根女学院の試合が終わり、木葉織華を連れ去るために更衣室へ向かった翠川きららと別れた後。歯が抜けた痛みに耐えながらも観客席に現れた水空環奈は、真夏なのにフードを被り、サングラスをかけた女性に声をかけた。
「……瀬田さん」
「なんだ、ばれてたんだ」
環奈に呼びかけられ、フードを外して漆黒の髪を見せたのは瀬田絵里。かつてバレー部に所属していた三年生であり、インターハイ後に引退した元部長だった。
「他の子は?」
「気づいてるのはあたしくらいですよ。みんな試合に集中してたから」
「つまり環奈は集中してなかったんだ」
「してたに決まってんでしょ。あたしの嫌いな人レーダーが作動してたんですよ」
軽く舌打ちして環奈は絵里の席の一つ上に座り、視線をさっきまで自分たちが試合していたコートに向ける。どっちも藍根はおろか、花美にも負けそうなたいしたことない学校だ。観戦してもつまらないと判断しながらも、絵里を見るよりマシだと仕方なく語肘をついて眺める。
「隣に座ればいいのに」
「暑苦しいんでいいです」
「ふふ。相変わらず私のこと嫌いなんだねー」
「当たり前でしょ。自分が梨々花先輩にしたこと忘れたんですか?」
「嫌いだから梨々花が傷つくようにわざと負けた。他には……」
「……もういいです」
普通引退して時間が経てば喉元過ぎれば熱さを忘れるといった感じに嫌なことを忘れるものだが、絵里の梨々花への想いは何も収まることがなかった。もっともそれは環奈が絵里に抱いている嫌悪感も同様だが。
水空環奈と瀬田絵里、そして小野塚梨々花の関係性を一言で表すのは難しい。簡単に言うなら、梨々花は絵里に憧れ、そんな梨々花を絵里が嫌い、環奈が梨々花の味方についた、ということなのだが、そんな言葉では語り切れない感情を全員が抱えていた。
「それより朝陽さんたちは救護室にいますよ。後輩には最悪だけど、同期とは仲良かったんでしょ?」
「私が上手く関係性を築けなかったのは梨々花だけだよ」
「あたしがあなたを嫌いって言ってるんです」
久しぶりに会ったはずなのに、身体がこの人を忘れていない。この人に対する嫌悪感が鳥肌になって表れ、歯の痛みなんてまったく気にならなくなっていた。
「情報ありがと。でも私は行かないよ」
「は? じゃあなんでこんなところにいるんですか」
環奈が訊ねると、絵里は首を上に向けてニヤリと口角を上げる。
「梨々花に会いたくなくてね。そもそも今日来たのは朝陽と胡桃の応援じゃなくて、梨々花の無様な姿が観たかっただけだし。ねー見た? あのボロボロになった梨々花の顔。あれは傑作……」
「いいですよ。強がらなくて」
「っ」
それは初めての出来事だった。
絵里が環奈の全てを把握し、とことん小馬鹿にすることはあっても、逆はなかった。
絵里がこうもあっさり感情を見破られるのは、人生で初のことだった。
「二人の応援に来たんでしょう? なら行けばいいじゃないですか。他の人に会いたくないならあたしが先導しますよ」
「……ずいぶん協力的だね。私のこと、好きになっちゃった?」
「馬鹿言わないでください。あくまであの二人のためです。梨々花先輩にはひどいことしたけど、三人は友だちだったんでしょ? だったら……」
「――今さら私が会いに行けると思う?」
その声は、猫を被っている時の明るい声でも、環奈に向けられる薄汚い感情が滲み出た声でもない。本音だった。ただの、友だちに対する、愛の感情。
「私が『おつかれ』、『いい試合だったよ』。そんな風に言ったらたぶん二人は喜んでくれるよ。打ち上げも行っちゃうかもしれない。そんなこと、許されるわけないでしょ?」
絵里は二人に深い負い目がある。梨々花を追い詰めるために試合にわざと負ける。二人も梨々花の絵里に対する妄信を解くという目的があったが、だからといって絵里の行いが許されるわけがない。
「……その優しさをほんのちょっとでも梨々花先輩に向けてくれたらよかったのに」
「生理的に無理」
「そうですか……」
環奈はそれ以上何も言わない。梨々花と絵里の関係はもう終わったことだ。今さら話したって何の生産性もない。
そう思っていたのは、環奈だけだった。
「もう終わったと思ってない?」
「っ!?」
自分の足元から発せられるとめどない負のオーラに環奈の身体が跳び上がる。それは椅子を飛び越え、ゆっくりと環奈へと近づいてくる。だが動くことはできない。もうこの人は終わった存在だと思っていたから。
今さらこの人が、まだあたしと梨々花先輩の間に入ってくるとは考えていなかったから。
「まだ何も終わってない。終わってないんだよ。梨々花は、まだ終わってない」
「は……ぁ……?」
環奈の脚を引っ張り無理矢理椅子に座らせ、膝の上に正面から座ると顔を近づけて顎に指を乗せてくる絵里。その瞳は暗く、底なしで、まるで地獄のようだった。
「そろそろ環奈にもわかると思うよ。梨々花の、残酷さが」
「その時まだ、梨々花を好きでいられるかな?」。耳元でそう囁くと、絵里は荷物をまとめて観客席を後にする。
とてもじゃないが、環奈はしばらく動くことはできなかった。
「あーあ、終わっちまったなー」
環奈と絵里の遭遇とほぼ同時刻。救護室では脚を捻挫した一ノ瀬朝陽と、瀬田絵里がいた。
他には誰もいない、二人だけの状況。だが特に感傷的な雰囲気があるわけではなく、まるでいつもの部室にいるかのようにリラックスしていた。
朝陽はベッドに座り、その正面から少し外れたところに置かれた椅子に胡桃は座る。
「そうね。終わっちゃったわね」
その二人の会話は言葉にすると三年間の思い出に浸りながらこの時間を噛みしめているように思えるが、実際は休み時間に行われるただの雑談のような空気。ただそれは、前者と矛盾するわけではない。当たり前のこの空間が、二人にとっては最後なのだから。
「最後は泣こうって思ってたのになー」
「今からでも泣けば?」
「ウチの涙はそんな安くねぇ。次泣くとしたらよっぽど感動した時だな。高校三年間バレーをやっててよかったー、って心から思える瞬間まで取っておく」
「すぐ来そうなものだけど?」
「どうだか。それより胡桃は泣かないのか? 中学最後の試合はドン引きするくらい泣きじゃくってたのに」
「もう大人になったのよ。それに高校は中学ほどがんばってなかったしね。ボクの涙もそんなに安くないのよ。次泣くとしたらそうね……受験に合格したらかしら」
「そりゃウチも泣くわ。だってあのバレー馬鹿だった胡桃が『ボクはこれから勉強に集中するわ』つってバレーを捨てたんだぞ。……言葉遣いまで頭良さげにして……くく……!」
「笑わなくてもいいでしょう? ボクは形から入るタイプなのよ」
「あははははっ! 無理だって! 笑うわ! だって馬鹿すぎんだろっ! しかも結果出てねぇしっ!」
「そうねぇ……。珠緒さんみたいにお嬢さま口調にすればもっと頭良さげに見えたかしら」
「はははっ! やめろよっ! なんでバレー部に二人もお嬢さまがいんだよっ! うざいわっ!」
「まぁボクはもうバレー部じゃないのだけれどね」
「おう、やめろよ急に話戻すの。あーそうだ、絵里に連絡しねーとなー」
「あの子のことだからどうせどこかで試合観てるでしょ? それでボクたちに見つからないよう一人で帰ってるわ」
「あいつ性格悪いくせに意外と友だち想いなんだよな」
「ほんと性格悪いのにね」
「性格悪いって言えばきららは大丈夫そうか? 去年はお前の後輩入ってこなかったからなー。まだ心配だろ」
「心配にもほどがあるわ。まぁまだ学校には通うのだしゆっくり教えていくわよ」
「せっかくの新体制なんだから少なくとも夏休みの間はやめとけよ」
「わかってるわよ。それよりあなたの後輩はどうなの? バレー部のOGとしてはそっちの方が気になるわ」
「あー日向な。どうすっかなー。あいつ以外部長は考えられねーんだよなー」
「まぁ美樹さんは無理よね。梨々花さん以外興味ないし」
「梨々花も梨々花で絵里のことしか興味ないしな。今はどうなんだろうな」
「環奈さんがその隙間に入ったように見えるけど……実際はどうなのかしらね」
「まぁそこら辺はバレー部関係なしに人として直さなきゃいけないとこだしな。追々直していくとして……そう思うと全然引退した気しねーなー」
「ボクは嫌でも勉強しなきゃいけないからいいけど、朝陽はどうするの? もう就職先は見つかったの?」
「あー一応な。それにバイト先も決まったし別に暇じゃねぇよ」
「へーバイトするの。今度何か奢って」
「おう。喫茶花美に来たらいくらでも奢ってやるよ」
「あそこで働くの……? ていうか給料ちゃんと払えるの……?」
「まぁウチはコーチが忙しくてバイトできなくなった小内さんの代わりみたいなもんだしな。賃金的にはそんな変わんないと思うぞ」
「ならいいのだけれど……ああそういえば……」
二人は語り合う。この時間が終わり、明日になって、卒業して、大人になっても。その日々が続くことを信じて疑っていない。
バレーだけが人生じゃないと、二人とも知っているから。