第3章 第55話 朝陽差す日向
〇日向
「それ、たのしい?」
制服に着替えないまま体育館の外に出て壁に向かい合っていると、ずいぶん懐かしい声がした。いや、懐かしくないか。ついさっき目の前にいた人だ。
「たのしくは……ないかな」
嘘だった。嘘だったけど、ひーはそう言うしかなかった。だって、
「おめでと、矢坂さん」
「うん……ありがと、外川さん」
ひーに話しかけてきたのはついさっきまで対戦していた矢坂さんだった。しかも、あの冗談みたいに甘いイチゴ牛乳のパックを持っている。
「飲む?」
「ううん、いらない」
「そう言わずにもらってよ。これは外川さんが飲んでくれないと落ち着かないっていうか……」
「ならこの状況の方が落ち着かなくない? だっていつもと逆なんだし」
ひーがなぜこんなクソ暑い中わざわざ外にいたかというと、確認しておきたかったからだ。
矢坂さんから盗んだ、このフェイントを。
だから更衣室に向かったリリーたちとは別れて一人で壁打ちをしていたのだ。
「結構上手かったね、あのフェイント。練習……してたの?」
「まぁちょっと、ね」
これも嘘だ。ひーはフェイントなんてほとんど打ったことがないし、そもそもまともに練習自体に出てなかった。でもひーのフェイントが上手いっていうのも嘘だろうし、別に罪悪感はない。
「でももうちょっとスイング早くした方がいいかも……。ちょっと貸してくれる……?」
「結局こうなるか……はい」
ひーと矢坂さんはボールとイチゴ牛乳を交換する。これでひーがイチゴ牛乳を飲み、矢坂さんが壁打ちするといういつもと同じ構図のできあがりだ。ていうかこれほんと甘いな……負けた後に飲むもんじゃないや。
「外川さんのはスーッ、トッ! って感じなんだけどさ……もっとススーッ、トッ! っていう感じで……」
「んー、矢坂さんって結構説明下手なんだね」
「え? そう……かな……」
「別にいいよ、観て覚えるから」
「……うん、わかった」
トン、トン、トン、と気持ちのいいリズムでボールがバウンドしたかと思うと、スイングは一緒なのに跳ね返りが弱くなる。かと思えばもっとバウンドが激しくなったり……。
「なんか、なつかしいなぁ……」
今この空間にいるだけで、こう思ってしまった。
バレーボールをやっててよかった、って。
「……でも、それじゃダメなんだよねぇ……」
もうあの気持ちよさを知ってしまったから。
点は取れなかったけど、相手を完璧に騙すあの一打。
もしあれで点を取れたらと思うと、ただ見ているだけで満足なんてできない。だから……、
「お、日向ここにいたか。そろそろ行くぞ……って、お邪魔だったか?」
あっさんが松葉杖を器用に操りながらひーを迎えにきた。
「まだ少し時間あるからもうちょっとやってても……」
「……あっさん」
ひーはあっさんの瞳をまっすぐ見つめる。思い返せばこんなこと初めてだ。
こんな真剣に、なれるなんて。
ほんとありがとね、矢坂さん。そして、あっさん。
あなたたちのおかげで、ひーは前に進める。
「ひーが、次の部長になります」
それはあっさんから打診されたことの答えだった。以前はとにかく断ったが、今のひーの答えは違う。
「まだひーには合ってないと思うし、こんな適当やってたひーが部長になるなんてみんな認めないかもしれない」
それでも。
「誰かじゃなくて、みんなを助けられる部長になりたい。苦しい時に助けられるエースになりたい。だから、後は全部ひーに任せてくださいっ!」
ひーの宣言にあっさんは一瞬面食らったような顔を見せ、すぐにうれしそうに笑った。本当に、うれしそうに。
「なぁ気づいてるか? ウチは部長をやってくれとは頼んだけど、エースをやってくれなんて言ってないぞ?」
「あっ……!」
やばい! 余計なこと言っちゃったっ! はっず! 花美にはきららんというひーより全然才能がある人がいるのに押しのけてエースになりたいだなんて……!
「い、今のは忘れてっ! 部長はまだしもエースなんてちゃんとした実力がなきゃ無理なんだし……!」
「ははっ! いいんだよそれで。欲張ってこうぜ! そっちの方が絶対楽しいからっ!」
そしてあっさんは「あーあ!」、とわざとらしく叫び、高く空を見上げる。
「くっそここでかー……あー……悪かねぇなー……最高だ……!」
夏の日差しはとても眩しく、直視できるようなものではない。それでもあっさんはひーに顔を見せることはなかった。
「……あっさん?」
コンクリートに水滴が落ちる。どんなに暑い日差しでも決して消えないような、重い重い、水滴が。
「悪い、先行ってるわ。お前もすぐ来いよ。ゆっくりしてたら置いてくからな。ほんと……あっという間なんだからなっ!」
「……はい」
それがなにを表しているか。そんなの考える必要もない。だからひーもすぐ行かないと。
「じゃあまたね、矢坂さんっ!」
「――。うん。またね、外川さん」
また、ひーと矢坂さんが出会うために、言葉を交わす。
来年こそは、必ずひーたちが勝つっ!